第12話 マヌスという国

今までに足を踏み入れた土地の中で一番不便で、一番何もない国。マヌスでしばらくの歳月を過ごしてもその印象は変わらなかった。

実った果実の茎に爪を立てると、待ってましたと言わんばかりにぱちんと弾けて手に収まる。みずみずしく真っ赤な、親指ほどの細長い果実がかさついた手の中で誇らしげに横たわっている。

それはリルマって言うの。ジャムにするとおいしいんだ、と聞いてもいないのに横切る人から口々に教えられた。


中腰に疲れて立ち上がると、足腰がヒリヒリと痺れた。リルマを手に持ったまま痺れが収まるまでそこで立ち尽くす。背伸びなどしていない。上を向いているわけでもない。

ただそこに突っ立って目を開いているだけで、空と畦道が溶け合う遥か彼方まで見渡すことができた。

遮るものは不揃いに連なる木々のみ。

しかし木々すら空にも陸にも馴染み、ふさふさと茂る紺碧色の葉が風に揺れる姿がなんとも清涼で、どこか寂しく、ラントにとって故郷など思い出したくもない地であるのに、郷愁を感じずにはいられなかった。


「ラント、お祈りの時間だよ」

 威勢のいい声が聞こえると、同時に汗ばんだ小さな身体がいくつも激突して、ラントは木でできた柵まで押し出される。

何が楽しいのかわあわあ喚きながら子供たちがラントによじ登り、ラントは眉間にしわを寄せながらそれに耐えた。

こんなことにラントはもう動じない。それが既に日常になりつつあるからだ。


「ラント兄ちゃん。ぺブルと手つなご」

 ラントの胸にしがみついているぺブルがそう言って小さな手を伸ばす。

あんなに傷だらけだった手が、今は小さなかさぶたが申し訳なさそうに張り付いているだけで、すっかり元のみずみずしさを取り戻していた。

ぺブルが手を差し出すと同時に、わたしが、違うぼくが、と次々と小さな手が伸びてくる。

どの手も取らず足に着いた泥を払うと、ラントはのそのそとパドラの元に向かった。

「どうだ、この生活には慣れたかい」

 パドラの後ろをラントが気怠げに歩き、その後ろを小鴨のように子供たちがついてくる。

「別に」短く返すと、そりゃよかった、と豪快な笑い声が返ってくる。

「シービアも随分様になってきたじゃないか」

 シービアとは、この国の民が皆着ている生成りの衣服のことだ。

絹を丁寧に織り込んでできたローブのような丈の長い上着に、同じ生地のゆったりとした長ズボン。

締めている帯は皆色が違い、また袖や裾にも皆それぞれに違う模様の刺繍が施されている。


この模様は、生まれてすぐに授けられる自分だけのものだそうだ。

例えばぺブルなら、黄色と桃色の蝶に似た生き物が舞っている模様。

パドラは橙と黄色の曲線が交互に波打っている快活な模様。

この国に来て一週間が経った頃、おろしたてのシービアとともにラントにも模様が授けられた。


色素の薄い紫とラントの髪によく似た赤の、四角形が幾重にも重なった模様。

どこか神経質で生真面目で、毅然としている。

刺繡を施した老婆は「お前にぴったりだ」と言って目尻を下げたが、

ラントにはしっくりこなかった。

そもそもこの国のしきたりはどれもこれも無意味で生産性がまるでない。この刺繡だってそうだ。


自分に合っている模様とは到底思えず、また人々が授けられた模様を大切に思っている心意気も理解できない。

しかし日が経つにつれ、例えば畑仕事の途中や寝入るまでに持て余す時間なんかに、なぜだかつい見入ってしまう。その緻密で繊細な四角形に、不思議な魅力を感じるようになっていった。


「この国はワシャルの採掘と農業で成り立ってるようなもんだからね。お隣さんも働き手ができて喜んでるよ。精出して働くんだね」

 礼拝所に向かう道中で、パドラが嬉しそうにラントの背中を叩いた。

「ラント兄ちゃんはなんでワシャルを掘りに行かないの?」

「農業にも男手が必要なのさ。それにラントの細っこい身体じゃワシャルだって中々採れやしないだろう。適材適所ってやつだね」

「テキザイテキショ」

「その人に合った場所で働くってことさ」

「僕は父ちゃんよりも大きなワシャルを掘り当てるんだ」

「ぺブルは踊り子―」

 ラントを挟んだ前と後ろで礼拝所に着くまで会話は続いた。


 誰に何を聞かずとも勝手に人々がこの国での生活についての知恵を授け、仮にそこで分からないことがあったとしても、こんな風に、日常の会話で情報は手に入れることができた。

例えばマヌスという国ではワシャルという翡翠色の透き通るような鉱石が採れ、ワシャルはマヌスの鉱山でしか採掘できない。故に希少価値が高く、世界中で高値で取引がされていること。

この国の男の大半はそのワシャルの採掘で生計を立てており、女や子供、高齢で鉱員を退いた男が農業を担っていること。

身体をすっぽりと覆い隠すシービアを着ているから気付かなかったが、湖で身体を洗っている男達や半裸で農作業をしている老人ですらも身体つきは屈強で筋張っており、この国の民誰もが持っている繊細な深緑の瞳とは対照的な逞しい身体つきをしている。

「ラント、子供たちがついてきているかよく見といてくれよ。ちょっと目を離すと鳥みたいにどっか行っちまうんだから」

 

 この国は子供が多い。日中に関してはどこを向いていようが必ず視界に子供が入ってくる始末だ。

今だってラントの後ろで四人の子供が騒いでいる。しかしパドラの子供はぺブル一人だけだ。

誰が誰の子供だとか、この国ではそういった概念はないらしい。

暗く鬱蒼とした森からぺブルを連れてきたときに国王グイドが涙を流したように、この国の子供はマヌス全ての民の子供達、という扱いのようだった。

吐き気がするほど幸せな国だった。

幸せすぎて、薄気味悪かった。

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