第10話 小さな子供がたったひとりで
萎れた木々が苦しげに腰を曲げて、その影はまるで罪を犯した人間のなれの果てのようにも見える。
歩いても歩いても目は闇夜に馴染めず、ただ不気味な木の間を縫うように進むうちに、永久に朝が来ないのではないかと言う錯覚が頭をもたげ、地面に浮き出た木の根に足を取られるたびにラントは身震いした。
「なぁんでマヌスに行くにはこの森を通るしかないんだろ。気持ち悪いし泥はつくし最悪」
もう二度と来るもんか、と付け加えて、ラントとは対照にティアはのんびりと進む。
確かにそうだ。この森を通るのは二度目だがやはり慣れない。それどころか怪我も治り頭も身体も動くようになった。冷静でいられる分、恐怖は格段に増している。
なぜこんな辛い思いまでして自分はマヌスへ向かったのだろう。後悔交じりに考えた。
人々に知られていない小さな国なら身を隠すのに最適だと思った。
本当にそれだけだろうか。
ジレッドの言う「神の住む国」を見てみたかったのかもしれない。
柄にもなく、そんな能天気な好奇心を携えてこの国へ足を踏み入れたのかもしれない。
しかし、この国は神の国でも天国でもなかった。ただそこには人間の営みがあるだけだった。
しょうもない、とティアに聞こえないよう小声で呟く。
この国も住まう人々も、自分自身も全てがしょうもなかった。
震える足をなんとか持ちこたえてしばらく進むと、ふと暖かく生臭い風が頬に張り付いて思わず顔を背けた。
すぐそばで湿気を帯びた呻き声が聞こえる。
生物の気配。しかしそれは同じ生物として安堵できるものではなく、この状況をさらに張り詰めたものにする、血生臭い気配だ。
身を縮こませ、足音を立てないようにして禿げた木の陰に張り付く。
ゆっくりと葉音を鳴らしてやってきたそれは、優にラントの身長を五倍は越える図体だった。
暗闇で全貌は見えないが、青白く光る眼の光は闇夜の中でもはっきりと見えた。ピンと立った耳は悪魔の角のように反り返って、岩のような身体を四つ足で支えている。
いつまでたっても周囲の草木を嗅ぎまわっては鼻を鳴らし、そのたびに生臭い息がラントの鼻を刺激し吐き気を催す。
人の気配を、いや、食料の気配を感じ取っているのだろう。
全身をひきつらせながら木に張り付き、獣に見つからないよう息を殺す。暑くもないのに額から汗が流れて、吐き出す息は小刻みに震えている。
見つかればひとたまりもない。成す術もなく食いちぎられて、四肢や腑はおもちゃのように弄ばれるだろう。
その場から逃げるという選択肢は選べなかった。
足を動かそうにも、身を隠している枯木の一部にでもなったかのようにびくともしなかったからだ。
緊張と恐怖で混沌としながら獣を見つめていると、一瞬その鋭い眼光と目が合った気がして全身が強張り、木に張り付いて両手で口を抑えた。ここで終わりかもしれない。今まで数えきれないほどの死人を見てきたが、遂に自分がそうなる順番が、今やってきたのかもしれない。そう考えると、次第に脳の奥から溶けていくような感覚に襲われた。
死にたくない、と思う感情が、命を所有する者に組み込まれた当然の本能なのだとしたら、それは本当に言葉にできない程腹立たしく、厄介なものだ。
しばらく木の陰でじっとしていると、グオオ、と苛立つような雄叫びを上げて激しくなにかにぶつかる音がした。
おそるおそる張りついていた木から覗き込むと、獣が呻きながら枯木に頭をぶつけている。
低く鈍い音が森中に響き渡る。
鋭い牙を剝き出しにして暴れる獣は、明らかに焦れている様子だ。
怯えてしゃがみ込もうとして、ラントは思わず固まった。
剥き出しにしている牙が赤黒く染まっている。
頭のてっぺんから足のつま先まで通っていた芯が徐々に抜けていくように、ゆっくりと腰を抜かしてその場に崩れ落ちる。
獣はついに諦めたのか鼻を鳴らしながら奥へと進み、すぐに暗闇に溶けて消えた。
「すごい迫力だったねあいつ。怖かったぁ」
いつの間にかティアが隣に立ってラントの肩にしなだれかかり、全く怖くなさそうな甘えた声で額を摺り寄せて、大きな瞳でラントを覗き込む。
牙にこびり付いていたのは、おそらく血だ。
あんなにも執拗に人間を探していたのは、一度試して味を占めたからなのか、だとしたら、あの血は……。
「なにビビってんの。あんな化け物くらいでさ。もっと酷い目に散々あってきたのに。変なの」
と冷たい指が子供をあやすように頬に触れ、ラントはその手を跳ねのけた。
やだぁ、怖ーい。とまたしてもおちょくったような声で笑い、まだ生臭さが残る道を進む。
「そんなに怖いなら早く抜けようよ。っていうか、本当にこの方角で合ってるわけ?」
手をひらひらさせて、まるでのどかな農道でも散歩するかのように歩く姿を見失わないよう、ラントは慌てて立ち上がった。
「来た道とは逆方向だから、多分」
「なにそれ。本当に頼りないんだから」
怖いのは確かにそうだ。牙を血で染めた、自分の数倍もある獣に遭遇したのだ。生きた心地はしないし立ち上がった今だって足腰に力が入らない。あのまま食われていたらと思うと気が狂いそうになる。
しかし根柢の部分では、ラントにしつこく絡みつく恐怖はそういう事ではなかった。
ともすれば自分が死ぬかもしれないという恐怖よりも更に根が深く、後味が悪い。
子供がたった一人でこんな場所で彷徨っているのは、どれほどの苦痛だろうか。
「ちょっと何ぐずぐずしてんのよ!」
少し前から苛ついた声がして、ラントは自分の頬をぴしゃりと叩いた。
たとえ相手が子供だろうがなんだろうが感情移入はしないと決めている。
そもそも誰かを心配している余裕などない。今のラントには自分が生き延びることで精いっぱいなのだ。
気を取り直して足を早めた時、かさついた葉の中で何かを踏んだ感触がした。
初めは固く、踏み込むにつれぐにゃりと形を変え、そのまま足の下で潰れている。
しゃがみ込み枯葉をかき分けると、小さな袋のようなものがくたびれてそこにあった。
ただのゴミと言えばそれまでだ。しかし泥を払ってよく見てみると、目が次第に慣れてきて、焦茶色の皮状のものだと確認できる。
靴だった。片手に難なく収まるほどの小さなサイズ。子供用だ。
先程獣に出くわした時よりも酷く心臓が波打つ。そのままラントの身体を突き破ってきそうなほど狂おしく暴れている。
「うわ、汚い。なに拾ってんの」
眉間に目いっぱいのしわを寄せて嫌悪の眼差しを向けたかと思えば、突然、あ、と呟いて目を丸くした。
「この靴ってさ、あのどっか行っちゃったガキのじゃない?」
目を爛々と輝かせて、ラントが握りしめている皮のボロ切れをティアがつまみ上げた。
「絶対そうだよ。あいつ食われちゃったんだって。あーあ、一人でこんな場所に来るからぁ」
言葉とは裏腹に、宝物でも見つけたように無邪気な声を上げている。
うん、だろうな。とラントが乾いた声で呟くと、ティアは満足げに目を細めた。しかしラントのその言葉はティアへの相槌ではなく、自分自身を納得させるための言葉だった。
山の中に迷い込んだ子供が獣に食われて死んだ。それだけだ。
「さっきのでかいのにやられたのかな。だったらどっかに子供の残骸でも落ちてるんじゃないの? ねぇラント、指でも骨でも拾ってあいつらに届けてやろうよ。そしたらあの偽善者達、どんな顔するかなぁ」
声が裏返る程笑って、ティアは地面に這いつくばって目を輝かせた。
汚れるから嫌だのと言っていたくせに、こういうことになると膝を泥まみれにして子供の残骸を探す。よほど人に恨みでもあるのだろうかとも思うが、恨みがあろうがなかろうが、ティアのことなどラントにはどうでも良いことだ。ただ遥か昔、ティアと出会った頃はこんなに気の狂った笑い方はしなかったような気がする、と思うだけだった。
くたびれた靴を見る。目が慣れてきて細部まで見えるようになると、靴底に赤黒い液体が染みついているのが見えた。
獣の牙に付いていたのも、靴底の液体も、きっと血だ。血でなければなんなのかと考えたところで、それ以外の答えは思いつかない。
「ねぇラントも手伝ってよ。せっかくの楽しい贈り物なんだよ」
恐怖や混沌と言った感情はすっかり薄れてしまった。ただ何となく、虚しいという感覚のみが身体中を漂っている。
四つん這いで文句を垂れるティアをよそに、ラントは歩き出した。
方向はどこでも良かった。ただここを去りたい。
いつもどこかにとどまっては苦い思いだけが増え、逃げるように新天地へ向かう。世界がどれだけ広いのかは分からないが、こんなことを繰り返しているといつか苦い場所で埋め尽くされて、行き場がなくなってしまうだろう。そうなればどうしたら良いのか。そうなれば、この世界そのものから逃げるしかなくなるのかもしれない。
「ちょっと待ってよぉ」とティアが小走りでラントに並ぶと、控えめに肩を小突いた。
「なんで怒ってるの?」
無視して黙々と歩く。
怒っていない、などと弁明をするのも疲れる。
「別に子供が死のうがどうなろうがラントには関係ないじゃん。もしかして、あのガキを助けられたかもしれない、なんて思っていないよね」
足取りは徐々に早くなる。
虚しい気持ちはティアの甲高い声に絡めとられて、むしゃくしゃした思いだけがあぶり出される。溜まりに溜まったガスが抜けるように大きなため息が出ると、ティアが爆発したように叫んだ。
「なにそれ。馬鹿みたい!」
手を叩いて大笑いする。
「じゃあ今からあのガキの死体を全部探す? バラバラになってる身体を全部かき集める? でもそれでラントに何ができるの? 自分は全知全能の神だとでも」
「黙れよ!!」
耳元で怒鳴ってもティアはひいひいと笑い続けている。
その節操のない馬鹿笑いがラントの神経を逆撫でしているということにも当然気付いているだろう。この女は、人間の不幸が愉快で仕方がない。人の生き死になど舞っている埃を払うくらい取るに足らないことなのだ。
怒りで硬直した身体を上下させていると、そばで葉を踏みしめる音が聞こえた。
またしても獣が出たのかと身構えたが、それにしては明らかに頼りなくか弱い。
音の方をまじまじと見ると、やがて小さく丸っこい影がひょっこり出てきた。
「お兄ちゃんだ」
間の抜けた声で歩いてきたのは、おさげ髪をくしゃくしゃにしたぺブルだ。
「もしかしてバステラに行くの? ぺブルも行こうとしたんだけど、道に迷っちゃった。朝になって明るくなったら、マヌスに戻れるかな」
小さな唇を目いっぱい開いて喋っているが、服は泥だらけで締めていた帯はほどけて引きずっている。ずり落ちそうになるズボンの裾を両手で握りしめ、その小さな手すらも傷だらけだ。
耳元で、やだぁ、と底意地の悪い声が唸る。
「信じらんない。このガキ生きてたんだ。つまんない……」
ティアがぶつぶつと文句を並べ、まるで害虫でも見るかのように嫌悪に満ちた視線でぺブルを睨む。
「お兄ちゃんも道に迷っちゃったの? 一人で不安ならぺブルといる?」
眉をきゅうとすぼめてぺブルがラントを見上げた。おそらく本当にラントを心配しているであろう慈愛に満ちた小さな眼差しが、淀んだ闇夜によく映える。
ああ、やはりこの小さな少女もマヌスの人間なのだ。こんな状況ながら、不覚にもラントは感心した。
ぺブルの目線の高さまで屈むと、ラントは垂れ下がって泥だらけの帯をぐるぐる巻きにしてきつく締めた。
当然のように靴は履いておらず、足の指の間からは固まって黒くなった血と、今なお流れ続ける鮮やかな血が混ざりあっている。
こんな状態で血の匂いに敏感な獣からよく逃げ切れたものだ。そう声をかけたかったが、言葉にならなかった。
濃く淀んだ闇はゆっくりと鳴りを潜め、気づけば朝日が昇ろうとしている。
森に微かに光が帯びると、その不気味な木々も、水分一つない枯葉も、幾分かの生気を纏ったようにカラカラと光り出す。
ぺブルの冷え切った身体をもたもたと持ち上げ、ラントは歩き出した。
「どこ行くのお兄ちゃん」
「マヌスだ」
そう答えると、ぺブルはもう何も聞いてこなかった。
ラントの血と泥が混ざった汚い装束を固く握りしめて、代わり映えのしない景色を黙って見ている。
代わりにやかましくなったのはティアだ。
「待ってよ。もしかしてまたあの気持ち悪い国に戻るわけ? 信じらんない! ガキなんてそこらへんに捨てておけばいいのに! 私絶対嫌だから!」
散々喚いてそれでもラントが足を止めずにいると、最後には憎々しい目で「そんは風にいつも甘いから駄目なのよ、あんたは」と吐き捨てて俯いた。
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