第9話 俺は関係ない

心臓の奥を小さな針で刺されているような感覚がして、無意識に何度も大きな呼吸をする。泥で固まった体をむしるように掻いた。

「子供に当たるのはやめて!」

フィオリアの怒鳴り声とは反対に、耳元ではその調子よ、と甘い笑い声が聞こえる。身体の外も中も誰も彼もがうるさい。全てが煩わしくて、暴れ出したい気分だ。


「落ち着きなさい二人とも。フィオ、お前もお前だ。怪我をしている客人に国を救おうだなんて図々しいだろう」

だけど、と国王に詰め寄りそうになって、フィオリアは唇を噛んで俯いた。

そうして長い間うろうろしながら呼吸を整えると、一息吐いて「ぺブルを探してきます」と早足で出ていく。


「騒がしくて悪いね。いや、わずかな資源こそあるものの、見ての通りこの国には何もない。金もなければ、武器もない。そもそも武力は持たないことにしているんだ。ヴェリデ様がそれを嫌がるからね」


 草湯をすすって口の中で転がすと、国王は大きな腰を庇うようにして座りなおした。古ぼけた木の椅子がギィギィと悲鳴をあげる。

「ところが最近は隣国のバステラとオヌスロンの領地争いが激化してきてね。君が見てきた死体の山と言うのも、そのなれの果てだろう。争いの火の粉が飛んでこれば今度はマヌスがそうなる。フィオリアはそれを誰よりも憂いているんだ。ヴェリデ様と話ができる分、我々には知りえないことだって沢山分かっているはずだから」

 大きな肩を落として、国王は目を閉じる。


「馬鹿じゃないの、こいつ」

 いつの間にかティアが国王のすぐ後ろに立ち、冷え切った視線を白髪頭に落としている。

「人間って本当に浅はかよね。敵が来るなら戦いなさいよ。自分の身は自分で守れっての。ラントもそう思わない? こんな奴ら、みんな消えちゃえばいいのに」

フンと鼻で笑って、両手を頭の後ろで組み退屈そうに歩き回る。


ラントは、もうすっかり疲れ果てていた。

砂漠を越え死体だらけの街を抜け、命からがらこの国にやってきたことを心の底から悔やんだ。

一刻も早くこの国を出たい。戦争が始まろうが誰が犠牲になろうがどうでも良い。

ただそこに巻き込まれたくない。だってそんなことになれば、同じことの繰り返しだ。


「国王様!」

 放心状態をつんざくように切羽詰まった声が飛んできた。

フィオリアが髪を乱して走ってきて、その後をパドラが早足でついてくる。

「ぺブルがいないんです!」

「どういうことだ」

「この辺りに姿がなく、パドラも帰ってきていないと……。街外れの手前で、このぬいぐるみが」


パドラの手元には、先程までこの部屋でお茶会をしていたぬいぐるみが抱きかかえられていた。

「やだね。まぁあの子の事だから、裏山で川遊びでもしてるんだろうけどさ。流石に日も暮れてきたから……」

大ぶりの耳飾りが揺れて、カチカチと弱弱しい音を立てている。


 気丈に振舞うが、ぬいぐるみを持つ手は微かに震え、笑顔はぎこちなく歪んでいた。

「分かった。ここいらの男衆を全員呼んでぺブルを探そう。なに、心配するなパドラ。子供の足でそう遠くまでは行けんだろうさ」

 誰の家には私が、山中の捜索は誰が、と途端に室内が騒がしくなる。

「私はヴェリデに」と駆けだしそうになっていたフィオリアの足が突然、がくんと止まった。

何か衝撃的なことを思いついたように、目線は一点を見つめている。

「……まさか」


 騒がしかった部屋に静けさが走る。

まさか、なんだい、とパドラが唇を震わせる。あれほど豪快だった声すらも生気を失って、身を縮こまらせている。

「さっきあなた、来る道中に死体の山があったって話をしたでしょう。もしかしてぺブル、それでお父さんのことが心配になって、探しに行ったのかも」


 ひゅっと喉が鳴る音がして、パドラがしゃがみ込んだ。

太陽のように力強い笑顔も包み込むような強引さもそこにはなく、ほんのり青い目の下には深い陰りが見える。

「そんな……一人でこの国を出たって言うのかい? 死の森には獣がいるし、運よく抜けたとしても、あ、争いが続いているあの地帯じゃあ」

「落ち着きなさいパドラ」


 ぬいぐるみに顔をうずめて狼狽えるパドラの背中を、国王は優しく叩いた。すぐに見つかる、と呟くと、途端にパドラが何かに取りつかれたように飛び上がる。

「あたしがぺブルを探す。娘が危険な目に遭ってんのに、指をくわえて待ってられる性分じゃないんでね」

 肩をいからせ飛び出そうとするパドラを、国王とフィオリアがわあわあ言いながら引き留めた。


それでもパドラはずんずん進む。家畜を運ぶための巨大な荷馬車のごとく、老人と女を引きずるように前進する。傍から見ているとまるで安い茶番劇だ。

案の定、ティアがケラケラと嘲り笑っている。

「あーあ、おばさん可哀想。あのガキは死んじゃうね。ていうか、もう死んでるか」

「……だまれ」

 

 誰にも聞こえないように口籠ると、ラントは草湯を一気に飲み干して立ち上がった。

脇目もふらず頑なに進むパドラと、それを制止する二人、そして邪悪に笑う女の視線がきっぱりとラントに向く。

「どこに行くの。もしかして一緒に」

「馬鹿言え。この国を出るんだ」


 片足を引きずり壁を這うようにして歩く。あんなに痛く重かった身体がいくらか軽くなっているのは、それなりにこの国で休むことができたからなのか。それとも今しがた飲み干した草湯のおかげか。

「もうしばらく休んでいきなさい」

 国王の慌てたような声に被せるように、乾いた声がラントの背中を刺した。

「あなたって、本当に血も涙もないのね」


 言われてもたもたと振り返ると、フィオリアが毅然とラントを睨んでいた。

澄んだ翡翠色の瞳と、赤く高揚した頬の色がなんとなくアンバランスで、しかしそれがまた神秘的で美しかった。

「どうして俺がお前らに協力しないといけないんだ。世話はそっちが勝手に焼いただけだ」

「だけど、元はと言えばあなたがぺブルに」

「それに」

 もの言いたげな瞳を見つめ返すと、今度はフィオリアの方が口をつぐむ。

「神様に頼んで解決してもらえよ。お前にはその資格があるんだろう」


 フンと笑って歩き出した。

言われたフィオリアが、どんな表情をしているのかは分からない。

そしてやはり、どれだけ言い負かしたところで苛立ちは収まらない。それどころか、去り行く自分の方が無様に負けたような気さえしてくる。

よちよちと子供のような足取りで家を出ると、そのまま誰に見送られることもなくこの国を出た。



真っ暗な森の入り口で、ラントは呆然としていた。

でかい口を叩いて出てきたものの、完治していない身体でもう一度この不気味な森を歩きまわらなければいけないという事に今更気づいたからだ。

「あぁ空気が美味しい。せいせいした! さ、次はどこに行くのかな?」


 暗闇でティアが無邪気に跳ねている。

すぐそばにあるはずの草木でさえ闇に紛れてろくに見えないのに、遠くでおかしな踊りをしているティアだけはしかと確認ができる。

とにかくうるさく性悪で、人をこき下ろす以外何もできない生産性のない物体ではあるが、こうして闇夜で騒がれればいくらか気がまぎれる時もある。認めたくはないが。


では、魑魅魍魎渦巻く真っ暗闇で、幼い子供がたった一人で彷徨うとなると、どうだろう。

その心細さは多分、何年も殺伐とした旅を続けてきたラントでさえ想像がつかない。

「ほらラント何してんの。早く行くよ! あ、私もう砂漠は嫌だからね。行くなら都会がいいなぁ」


 軽口をたたくティアに目いっぱい腰を押され、ふらつく足取りで歩き始める。

ふと、遠くの方で争うような獣の咆哮がして背中が強張った。

「やだぁ、あんな獣が怖いの? 大丈夫。ラントなんて食べても美味しくないから、絶対に襲われないよ」

 無遠慮に腰を押す手を強引に跳ねのけて、木々に身体を預けながら森の中を進んだ。


獣の叫びが聞こえた時にラントが考えたことは、自分が食べられることが怖いだとか、そんなことではなかった。

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