第7話 ぺブルという少女

「ねえお兄ちゃん、なんでうちに来ないの?」

 ふと目を覚ますと、先程の子供が小さな足腰を曲げてラントを覗き込んでいた。

「お母さんが戻ってこいってさ」

 澄み渡っていた空はうっすらと朱色のベールを纏い、田畑や水面を遠慮がちに照らしていた。どうやらボロ家の壁にもたれて、そのまま眠っていたらしい。

「ぺブルはね、ぺブルって言うの。ここは、マヌスっていう国」


 潰れた片目で子供を見て、それから自分の足元に置かれたものを見る。

深緑の大きな葉の上に、餅で作った団子のようなものと握り飯が置いてあった。

ふと手に取りそうになって、顔を上げる。

遠くの木の影から何人か、こちらの様子を伺っているのが分かった。

「それはね、草団子だよ。じいちゃんが作ったの」

 あれがじいちゃん、とぺブルが振り返って木の方を指さすと、そこに張り付いていた影が一つ、丁寧にお辞儀をした。


「じいちゃんの作る団子は美味しいんだ。本当はぺブルも食べたいけど、お兄ちゃんのだから食べちゃダメだって」

 今まで幾度となく野宿をしてきたが、こんな風に供え物をされたのは初めてのことだった。

いらない、と跳ねのけたくても、無条件に唾液が口の中で溢れる。

もうどれだけまともな食事をとっていないだろう。食欲をそそる艶やかな塊を見ていると、久しぶりに腹の虫が騒ぎ出した。


「甘くてすーすーして美味しいよ。足りなかったら、ぺブルがじいちゃんに作ってって言ってきてあげる」

 へらりと笑うと、ふっくらとした頬が零れ落ちそうなほどに盛り上がり、一重の目が軽やかな線を描いた。

白い肌にぽってりとした鼻と口。主張の少ない穏やかな笑顔は、いかにもこの国の子供、という顔立ちだった。


「お兄ちゃんはどこから来たの? タビビトさんなの?」

 ぺブルがラントの横に座り、瞳を爛々と輝かせる。

 空腹に勝てず団子に手を伸ばそうとすると、刺すような鋭い声が耳元で唸った。

「何やってんの。だから早く出ようって言ったのに。ぐずぐずしてるからこんなガキに絡まれちゃうのよ!」

 ティアが仁王立ちでラントを見下ろしていた。

目を神経質に吊り上げて、片方の足はせわしなく揺れている。

「いいなぁ。ぺブルもいつか旅がしてみたい。それでバステラって言う国に行って、踊り子さんになるんだ」


 対照的にぺブルはのんびり立ち上がって、ダブついた服の裾をひらひらさせながら踊り出す。

明るい茶色のお下げ髪と、小さな耳たぶについた青い石が弾むように揺れた。

鬼のような怒り顔と小さな踊り子に挟まれうんざりしていると、「ぺブル!」と豪快な声が飛んでくる。


「あ、お母さん!」

今朝ラントを看病した女がズンズンとやってきて、ぺブルとラントを交互に見ると、呆れたように腕を組んだ。

「まだ団子を食べてないのかい。随分頑固な旅人さんだこと」

木に隠れていた連中もおずおずと近づいて、今度は女の大きな背中を隠れ蓑にラントの様子を伺う。

「なんなのこの女、さっきから偉そうに。本当にこの国の人間って図々しいのね。吐き気がする」


 ティアが女の真正面に立ち睨みつける。今にも食ってかかりそうな勢いだ。

「あんたがどうしてもこのボロ家にもたれていたいってならそれでもいいけど、せめてご飯だけは食べな。そのあとフィオリアの所に行こう」

 言い終わった後、あ、と閃いたように言って付け足す。

「フィオリアってのはこの国の巫女でね。ヴェリデ様とお話ができるんだ。きっとあんたにも良くしてくれる」

「……巫女?」

 ラントが聞き返すと同時に、目を吊り上げて喚いていたティアもふと静かになる。

「そう。この国にはヴェリデ様っていう神様がいてね。フィオリアはこの国で唯一その神様と会話ができるんだ。すごいだろう、天から授かった特別な力さ。そのおかげでこの国は平和なんだ」

 静けさの後、糸が切れたように能面のティアがぽつりと呟く。

「神様……」


 言ってからくつくつと笑い、その場を野良犬のように歩き出す。

艶やかな肌に険しい皴が寄る。爪を噛んで、吐き捨てるように言い放った。

「ははぁ、道理で居心地が悪いわけだ」

「さぁ、そろそろ日が暮れちまうよ。あんたもいつまでも強情になってないで、さっさと家に」

「すぐにこんな国出ようラント。怪我なんて歩いてれば治るんだから、早く!」

 女の言葉を遮ってティアが半狂乱で叫ぶと、急かすように手を何度も叩いた。

神様。天から授かった特別な力。その力を崇め、縋る人々。

頭をガツンと鉄の棒で殴られたような気分だ。ティアの言う通り、こんな場所でのんびりしている場合ではなかった。心臓がバクバクと波打つ。虫唾が走る。

「すぐにここを出る」

勢いをつけて立ち上がった拍子に身体が大きくよろける。

「出てくってまた、そんな身体でどうやって行くのさ!」


 女が慌ててラントの身体を支えようとすると、真似をするようにぺブルもラントに駆け寄った。

「お兄ちゃん、ここはいい国だよ。ぺブルと一緒にいようよ」

 もみじのように小さな両手が、血と泥にまみれたラントの手に触れる。餅のように柔らかく澄んだ感触が苦しくて、思わずその手を振りほどいた。

「やめろって!!」

 振りほどいた手が小さな頬に当たって、反動でぺブルが頭から派手に転んだ。

「ぺブル!」

 毛虫のようにもぞもぞと動く子供の元に、女とその後ろにいた人々が血相を変えて駆け寄る。


辺りが静まり返る。

途端に地鳴りのような笑い声が轟いた。

「はは! そうだよ、それでこそラントだよぉ! あーあ、また嫌われちゃうね!」

 ぺブルを抱いた母親の目が、その背中に隠れていた無数の目が、次第にラントに向かう。

その瞳に宿るのは好奇心か哀れみか慈愛か、ラントには分からない。

しかし今までとは違う。それだけは分かる。

そうだ。これで良いのだ。無償の優しさを注がれるくらいなら、いっそ死んでくれと憎んでほしい。それが本来の人間と言うものではないか。

情なんて厄介なものに絡めとられるのはもううんざりだ。


「パドラ、何の騒ぎ?」

 ふと、後方から涼やかな声が風に乗ってやってきた。

「あ、フィオリア姉ちゃん!」

無邪気な声が向けられ、はっとして振り返る。

夕焼け空の下でも映える深青色の髪。透き通るような白い肌に、この国で出会った誰よりもはっきりとした、精悍な瞳。

目が合ってすぐに逸らそうとしたが、なぜだかそれができなかった。

取り返しのつかないような、不甲斐ない気持ちになって、枝のようなみすぼらしい身体をだらりと垂らして立ち尽くす。

「あーあ、最悪」

 耳元でざらついた声がラントを刺した。

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