第6話 反吐が出る

暗く淀んだ世界の片隅で、トントントンと小気良い音が鳴っている。

それが次第に大きくなり、意識の表面に顔を出した時、ラントはゆっくりと目を覚ました。

身体中が痛く、腕一つ動かすことができない。久しぶりに感じるじっとりとした頭の重みから、自分が泥のように眠っていたと気づかされる。


「わ、目ぇ開いた! 起きたよお母さん!」

 頭上でおもちゃのように明るい声が響いたと思ったら、途端に地鳴りのような足音がいくつも押し寄せて、ベッドがせわしなく揺れる。

すぐに勢いよくドアが開いた。


「わぁほんとだ」

「案外元気そうじゃないか」

「お医者さんに連れて行かないとね」

「その前にフィオリアの所だろう」


そそっかしい声やらしわがれた声やらが唐突に耳に滑り込んできて、その全てが頭の中でパチンコ玉のように暴れまわる。

うるさくて耐えられず、頭を振って目を瞬くと、「ちょいとあんたたち、どきなさいよ」とひと際凄みの利いた滑らかな声が割って入ってきた。


「あんた、喋れるかい。腹はどうだい」

視界に恰幅の良い女がぬっと入り込む。

海と同じ色の大ぶりの耳飾りが、呼吸に合わせてゆらゆらと揺れている。

なんとも派手であるのに、素朴で、優しげな青。

「今粥を持ってこよう。ぺブル、起き上がるのを手伝ってあげな」


 はーい、と、視界の隅で小さな両手が花のように開いた。

「ぺブル一人じゃ心許ないだろう」

「そうだそうだ」

「やだ、骨と皮だけじゃないの。沢山食べてもう少し太らないと」


 声と一緒に白い腕が次々と伸びてきて、ラントの意思など関係なく、大勢に抱きかかえられるように上体を起こす。

「なんて酷い傷……。やっぱりフィオリアの元に行く前に治療よ」

「うむ。それが良さそうだな」

「身体なんて木の枝よりも細いのよ。何も食べてないんだわ。可哀想に」

「飯を食べたらまずは風呂だ。こんなに汚くちゃどこを怪我してるのかも分からねぇ」


 簡素な一人部屋に、ざっと十人近くの人間がぎゅうぎゅう詰めになっている。

全員が生成りのゆったりとしたローブのような服を纏っており、それぞれに色の違う帯を締めていた。

男も女も子供も老人も、耳や指、腕など必ずどこかに青い石を付けており、心なしか顔も全員似ているような気がする。

興味と哀れみ、好奇心を携えた無数の目をちらりと見ると、ラントはすぐに俯いた。

早くこの場から立ち去りたい。ひとたび頭が動き出すと、すぐに居心地の悪さが襲ってきた。


「はいどいたどいた。さぁ異国のお兄さん」

 先ほどの女が土瓶を持ってラントの足元に座る。蓋を開けると、ほのかに甘い草の香りが部屋中を包み込む。

「この国の薬草は万能なんだよ。あんたの怪我もすぐに良くなる。ほら」

 そう言って粥を匙ですくいあげると、血と泥でまみれたラントの口元に近づけた。

「ぺブルがあげる!」

「あんたはダメ。うっかりこぼしちまうかもしれないだろ」


 子供を諭すと、女は再びラントを見る。

切れ長だがキツさのない、穏やかな瞳。穏やかだと感じるのは、瞳の色がじんわり青みがかっているからだろうか。

「はは。なに怯えた子犬みたいな顔してんだい。なにもとって食いやしないよ!」

 女が豪快に笑った。切れ長の目をさらに細めて、丸い鼻と口を目いっぱい横に広げる。


微塵も悪意のない、太陽のような笑顔。

咄嗟に自分に向けられた匙を叩き落とした。

金属が擦れる不快な音と飛び散る粥。ネズミの鳴くような悲鳴が狭い室内に響く。

女の顔も、誰の顔も見ずにラントはベッドから跳ね起きた。

しかし身体は自分の思うようには動かず、そのままずるずると床に崩れ落ちる。


「ちょいとあんた!」

「こら坊主、無理はするもんじゃないよ」

「ほらぁ、パドラが驚かすから」

 言いながらも再び手がいくつも伸び、情けなく横たわるラントの身体を支える。

「触るな!」


 身を捩るようにそれらを振りほどくと、ベッドに手をついてなんとか立ち上がり上半身を整える。片足を引きずるようにして向きを変えると、そのままドアに向かってよちよちと歩き出した。

「あんた、そんな状態でどこに行くのさ。マヌスにいれば安全なのに」

「俺にかまうな」


 吐き捨てて、やっとの思いでドアノブに手をかける。

たったこれだけの距離なのに既に息が上がっている。どうやらこの身体は、自分が思っている以上に深いダメージを負っているようだった。思い通りにいかぬ身体と状況に苛ついて大きなため息が漏れる。

ドアノブを引いて部屋を出るまでの間、あんなに騒がしかった室内は静まり返っていた。

無理もない。この短時間に受けた恩を全て仇で返した挙句、礼の一つも言わずに出ていくのだから。


「さっきのラント、傑作だったなぁ」

 集落から少し離れたボロ家の壁にもたれかかっていると、ティアがひょっこり顔を出した。

「やだ、顔色最悪だよ? 相変わらずひ弱なんだから。ふふ、ひ弱なくせに、なぜかしぶとい。変なの」


 本当は一刻も早くこの国を出たい。

ジレッドの言っていたことはやはり正しかった。穏やかで何もない、水と木だけの国。

しかし計算外だったのはこの国の人々だ。

見ず知らずの人間に親切にされるほど気持ちの悪いことはない。

「みんな驚いて固まってたね。あの反応は最高。親切にされて悪態つくなんて、私ラントのこと見直しちゃった」


 素性の知れない人間を、ただ弱っているからと言って献身的に世話をする。

ラントに向けられた瞳はどれも好奇心と哀れみに満ちてはいたが、とにかく厄介だと思ったのは、どの瞳にも侮蔑や冷やかしが一切なかったことだ。

皆ラントを本気で心配していた。

形容しがたい感情を誰もが当たり前のように持ち合わせていた。強いて言うなら、慈愛のような。


「私、ここの奴ら全員嫌い。この場所も大嫌いよ。ねえラント、私の言っている意味が分かるでしょう? 怪我なんてどうでもいいから、こんな気色悪い場所すぐに出ましょう」


 ひんやりとした手が泥まみれの赤髪を撫でる。

ティアに賛同することは気が引けるが、しかし確かにそれはそうだった。

この国には独特の穏やかな空気が漂っている。海や山や木々や風が、元は一つであったかのように共鳴して、美しく溶けあっている。そこに佇んでいるだけで気持ちが凪いで、落ち着く。

それはこの国の美しい景色がそうさせているのかもしれないし、この地で暮らす人々がそうさせているのかもしれない。もしくはその両方かもしれない。

だからこそ怖いのだ。

長居して情なんてものが入ってしまうと、また地獄を見ることになる……。

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