第5話 ジレッドの言葉
地面を掴むように立ち上がると、ラントは後ろも振り向かずに走り出した。
耳元で鳥のような笑い声が絶え間なく響いている。
街の規模はそこまで大きくはなかったようで、ゴミとがれきと悪臭が消え失せるまで、足を引きずってとにかく走った。
男は街を出るまで追いかけてきたのかもしれないし、途中で力尽きたのかもしれない。
どうなったのかは分からないが、ラントに後ろを見返す余裕はなかった。
街を抜けるまで、死に物狂いで走った。
木々が生い茂る森の中でぬかるみにはまって転ぶと、途端に激しい心臓の音が耳に響いた。
息が上がって背中が大きく上下する。
男が追いかけてくる気配はなく、人のいる気配も、動物のいる気配もない。
後頭部に走る鈍い痛みと、重く波打つ心臓の音で、まだ自分が生きていることを実感できた。
どうやら街は抜けたようだ。しかし、逃げるがままにやってきたのは得体のしれない森の中だった。
立ち上がろうにも力が出ず、泥が張りつく体を揺らして仰向けになる。
巨大な木の先に枯葉が幾重にも重なり、その先にか細く曇り空が見える。
狭い空をカラスの群れが行ったり来たりしている。
これで、いよいよここがどこだか分からなくなった。とは言え、森の中であればもう先程のように人間に襲われることはない。動物に襲われるかもしれない恐怖は拭いきれないが、人間に殺されるくらいなら、動物に食べられる方がいくらか報われる気がする。
水筒の水を最後まで飲み切ると、時間をかけて上半身を起こした。
もう自分がどういう顔になっているのか想像もつかない。
手も足も髪も泥で固まって、はたから見れば多分、人間にも見えないかもしれない。
なけなしの水を飲み切ってもまだ喉が渇いている。
気分が少し落ち着くとさらに時間をかけて立ち上がり、そばにあった木の切れ端を杖代わりにして歩き出す。
全身が痛く、重い。
砂漠はあんなに暑かったのに、森の中は凍えるほど寒い。
遥か昔にどこかの国の市場で買った麻の装束は、かろうじてラントの身を守ってくれているものの心許なく、長年の汚れと今しがたついた泥で、かつての聡明な象牙色は見る影もなくなっていた。
日が落ち夜がやってくると、生い茂る木につまずいて何度も転んだ。
その度にもういいやと投げやりな気分になり、起き上がる気力もなくなる。
しかし冷たい風が傷口を刺激して眠ることもできないし、じっとしていると動物に襲われる恐怖でいてもたってもいられない。
そうしてまたよろよろと起き上がっては転んで、を夜通し繰り返す。
疲れが限界に達すると、痛みと恐怖で叫びながら歩いた。
こればかりは、どれだけ経験しても慣れない。
身体的なダメージはもちろんだが、精神的なダメージはいつでも、容赦なくラントを追いつめる。
そうやって歩き進めるうちにいつしか木々の輪郭がぼやけて見えるようになり、そのうちはっきりと見えて、ようやく朝が来たと自覚する。
しかし、その時にはすでにラントの意識は混沌を極めていた。
どこを歩いているのか、どこが出口なのか、もしかしたら一生をここで終えるのか、ここが自分の死に場所になるのか……。
恐怖と焦りと苛立ちが頭を巡っていると、遠くの方で薄ぼんやりとした光が見えた。
足はすでに使いものにならず、杖代わりの木の棒に全身を預けてなんとか前へ進む。
ぼんやりした光は進むにつれ大きく、強くなってくる。
あと少しの距離であるはずなのになかなか光までたどり着くことができず、まるで果てしない年月をかけて歩いているような気分になり、焦ると足がもつれて再び転ぶ。怒りと焦燥感で獣のように叫ぶ。時間をかけて起き上がり、歩き出す。
そうしてやっとの思いで森を抜けると、なだらかな丘の上にたどり着いた。
眼下に広がるのは、青と緑の街。
いや、街とも言えないほどのどかな風景。
古びた水車が優雅に回り、広い運河はのんびりと波打っている。
青緑の水面と同じ色の草木は均一の高さでふくふくと生い茂り、触ると柔らかそうだ。
そしてどこからともなく石鹸のような、なにか懐かしい香りがする。
ここがマヌスだ、とすぐに分かった。
酔っ払いの言っていたことは本当だった。
認識した途端全身の力が抜け、顔から地面に崩れ落ちる。
遠のく意識の中で、しわがれた声が饒舌になにかを話していた。
耳障りなダミ声であるはずなのに不思議と嫌な感じはしない。
ラントは人を信用しない。人に裏切られるのはもうこりごりだ。
ジレッドのこともそうだ。あんな老いぼれの話など聞かないし、間違っても信頼なんてしていない。
しかしあの厄介者の世捨て人は執拗に絡んではくるが、ラントを傷つけたりはしなかった。
炭坑場で殴られたり支給される食事をとられたりしていたラントを誰よりも、いや、他の人より少しばかりは気にかけていた。
俺はよぉ兄ちゃん、腑がやられてんのさ。もう末期でねぇ、いや、誰かにそう言われたわけじゃないが自分で分かるのよ。自分の身体なんだからよぉ。だからよ、どうせ死ぬなら俺は好き勝手やるんだ。仕事中に酒だって飲むし、周りの目なんか気にしねぇ。まぁ元々好き勝手生きてきたんだがなぁ。ほれ兄ちゃん。俺の分も食いな。なぁに、俺は病気で何食ってもうまいと感じないのよぉ。けど酒だけは別だ。これだけは頼まれたってやらねえぜぇ。ガハハ。
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