第3話 飲んだくれジジイ
少し前、ヤトゥーニと言う鉄屑にまみれた貧しい国の、炭鉱場で働いていた時のことだ。
ラントはジレッドという年老いた炭鉱夫によく絡まれた。
目はいつも兎のように赤く充血していて、下瞼の深いたるみ、薄暗い炭鉱場でも分かる程の顔色の悪さは不健康を体現しており、呂律は回らず言っていることも要領を得ない。
働いている時も酒瓶は手放さない。要するに、年中酔っぱらっている男だった。
そんな男を誰も相手にはせず、しょうがないので、殴られようが蹴られようが一言も話さず爪弾きにされていたラントを話し相手にしていたということだった。
兄ちゃん、酒は飲むかい。
会話の始まりはいつもそれで、その後どんな国へ行ってどんな旅をしてどんな罪を犯しどれだけの女を抱いたか、嘘か本当か分からない武勇伝を、回らない舌で熱心に話す。
その話は仕事の休憩中、唐突に始まった。
「俺が旅した中で一番つまらなかった国と言ったらぁ、あそこしかねぇなぁ、マヌスってぇ小さな国」
定まらない焦点を宙で遊ばせて、酒瓶を抱えながらジレッドは喋りだした。
興奮して声が大きくなるほどに唾が飛び、狭い穴ぐらの中で避けることも難しく、ラントは眉間に皴を寄せて眠っているふりをした。
俺はバステラを目指して旅をしてた。兄ちゃんも知ってるだろうけど、あそこは誰もが憧れる大帝国だからよぉ。でもよ、酒場で仲良くなった野郎二人が話してたんだ。
バステラの近くにはマヌスってぇ国とも言えねぇようなちいちゃい国があって、それはそれは宝石のように美しいんだと。
一度入ったらあまりの美しさに気が狂っちまって、二度と出られねぇ。神々の住む国だってさぁ。
気が狂っちまうほど美しいってぇ、そんなの行くに決まってるだろぉ?
へへ、俺ぁ若ぇ頃から世捨て人だったけどよ、あの頃はまだ神に縋りたかったんだろうなぁ。
歩いて歩いて足がなくなっちまうんじゃないかと思うほど歩いて、それでも見つからなくて、もう意地になっちまってよぉ。なんとしてでも見つけてやるって、歩き続けて、やっと見つけたのさ。その神々の住む国を。
しかし行ったらどうだ。遊ぶ場所がねぇ。酒場もねぇ。宿屋もねぇ。人も少ねぇ。挙句の果てにメシもまずいときた。ただ木と水があるだけのなぁんもねぇ国だった。
ありゃあ旅の中でも苦い思い出だったなぁ。
なぁ兄ちゃん、お前も一端の男ならよぉ、こんな臭い洞穴でうずくまってねぇで、でかいことをしろよぉ。間違っても、あんなつまんねぇ国に行くんじゃねぇぞぉ。
いつもの長いだけでつまらない話だと、ラントは聞き流した。
しかし一方でこうも思った。
人目につかないほどの小さな国で、娯楽も人も少ない。
それは自分のような罪人が隠れるには最適な場所ではないだろうか。
「なにそれ。酔っ払いの言うことなんか信じてんの? ラントらしくもない。探すだけ探して結局そんな国ありませんでしたなんて、ならないといいけどね」
歩くたびに砂を足で蹴り上げながら、ティアがおちょくるように笑う。
荷車の男に殴られてから三度の夜を越したが、未だに全身の痛みがジンジンと脈打っている。
顔の腫れもひくどころかじくじくと膿んできて、視界もおぼつかない。水筒に入れた水も案の定残り僅かで、とてもじゃないがティアの軽口の相手をしている余裕はない。
「おい、砂を蹴るな。風に舞って口の中に入るだろ」
「そこに砂があるんだからしょうがないじゃない。こんな場所に連れてきたラントが悪いんでしょ」
歌うように笑うと、ティアは黒皮のキュロットについた砂の塊を丁寧に払った。
確かにティアの言う事も一理ある。
よく知りもしない酔っ払いの言う事を鵜吞みにして、こんな砂漠までやってきてしまった。
実在するか分からない場所を目指して彷徨い続けているのだから、平常心を保てる方がどうかしている。
しかし、とラントは思った。この数時間で状況が変わり始めているのも事実だ。
皮膚に当たる風の性質が明らかに変わってきた。
「温度が下がってきた。風も緩やかだ」
「それがなによ」
だから、と苛立って説明しようとするラントを遮って、ティアが大げさな声を上げた。
「ねぇ見てラント! あれ、街じゃない?」
砂漠の向こうに薄ぼんやりと、黒い影が佇んでいるのが見える。
ラントの読みは当たっていた。砂漠を抜け、街がすぐそばまできていた。
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