第九話 【愛されていた子ども】
ダイニングの天井にある電灯は、光量が絞られ鈍いオレンジ色の光をテーブルに投げかけている。久しぶりに早く帰って来た父は、曲げた両腕の前腕を机につき、前屈みになって私を上目遣いに見ている。薄暗い部屋の中、顔のしわが複雑な影を描き、彼の表情に凄みを与えていた。けれど、私はひるまない。真っ直ぐに、父を見返す。
「ルイ、お前は芸大に行きたいのか?」
私はうなずく。嘘だ。本当は絵なんて全く描けないし、自分が芸術に向いているなんて露ほども思っていないけれど、今はなんとかして父を説得しなければならない。
「厳しい道だぞ?」
「分かってる」
私は重々しく答えた。芸術を志すことではない。これから命懸けで、自分の未来を掴むために戦いに行くことへの恐怖と、決意が、声に滲んだ。父は私が本気であることを感じ取ったのか、額をテーブルに付けて深く深く息を吐いた。再び顔を挙げたとき、彼の表情はいくらか緩んでいた。背もたれに体を預け、胸の前で腕を組む。
「実は俺もな、若い頃は目指すものがあったんだ」
私は体の緊張を解き、穏やかな口調で語り始めた父に耳を傾ける。
「演劇がしたかったんだ。医学生時代、大学の演劇サークルに所属して、あちこちの小劇場で演じていた。アマチュアとは言え、そこそこ人気があったんだぞ。その活動に熱を入れるあまり、学業が疎かになって一度留年した。オヤジもオフクロもカンカンだったよ。一体どれだけの労力とお金をかけてお前を育てて来たと思ってるんだ、って。金持ちのくせに守銭奴なんだな、これが。俺は医師免許だけ取って、後は舞台俳優の道に突き進むつもりだった。そうすれば、息子としての義務は最低限果たせると思ったんだ。だから、学業の方もそこそこ頑張って、国試に合格した。アルバイトをしながら演劇に打ち込んだが、なかなか芽は出なかった。楽しかったよ、でも、辛かった。そんなある日のことだった。同じ座の女の子が、病に倒れた。当時は良い治療法がなくて、病院のベッドでどんどん弱ってゆく彼女の側で為す術もなく泣いていたとき」
父の表情がかげった。テーブルに両肘をつき、顎を支える。
「そのとき初めて、××様の姿が見えた」
私の肩の上でカキをかじっていた××様が、ふわりと父の方に移った。愛おしそうに彼の頭を抱きしめるが、父には全く見えていないようだった。××様は寂しげに微笑み、私の肩へと戻って来る。
「××様が彼女の手に触れると、あっという間に彼女の顔色が良くなった。それどころか、痩せこけていた手足や頬がふっくらとして、元の健康な若者に戻ったんだ。そのとき俺は、思った。もっと人を救いたい、と。俺には演劇の才能はない。これ以上続けていても、自分も周りも不幸にするだけだと、やっと気付いたんだ」
「もしかして、その女の子って」
「ルイのお母さんだよ」
厳格で、家族を顧みず仕事一筋に見える父にそんな過去があったという事実に、私はひどく心を打たれていた。
「ルイ、君は自分の行きたい道を行きなさい。実は、うちの病院を売らないかという話もあるんだ。××様もきっと、ルイの選んだ道の先で力になってくれるだろう」
「お父さん……私、」
目を服の袖で拭う。
「もっと早く、お父さんとちゃんと話をするんだった」
父が微笑む。その時、ぱちんと部屋の電灯が切り替えられて、急に明るくなった。眩しさに目をしばたたく。
「なーにぃ? お父さんもルイも、こんな暗い部屋で、一体何やってるの」
買い物から帰って来た母が、呆れたように私たちを交互に見た。
「いや、ちょっとな、ルイの将来のことを」
「まさかあなた、ルイを京都のオープンキャンパスに行かせないつもりじゃないでしょうね? 大丈夫よ、ルイ。お母さんがお父さんをしばき倒してあげるから」
腰に手を当てて仁王立ちする母の大げさな仕草に、今度は私の方が呆れる番だった。
「お父さんは背中を押してくれたよ」
「あら、そう。良かった良かった。ルイ、買ってきた物を冷蔵庫に入れるの手伝いなさい」
はーい、と返事をしながら、私は親に愛されていたのだということを、どこか切ない気持ちで受け止めるのだった。
大坂へと発つ前の日の放課後、学園祭の出し物の準備をするクラスメートたちを尻目に教室を出ると、廊下でヒロが壁にもたれていた。イヤホンで音楽を聞いているらしく、小声で歌っている。私が出て来たことに気付くと、にらむような視線を向けてきた。軽く会釈して立ち去ろうとした私に駆け寄って、腕を強くつかむ。
「ルイ、お姉ちゃんのせいで変なことに巻き込まれてるよね?」
明らかに怒っていると分かる口調だった。私に? それともミズキさんに?
「そんなことないよ。大丈夫」
「嘘つかないでよ! ルイ、芸大に興味なんてないでしょ。そもそも、あんたの画力じゃ受かんないよ。一体、何をさせられてんの?」
ヒロの目が潤む。あ、と思ったときには、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
「悪いと思ってる。一緒に県立医大に行こうって約束を破ったこと。でもさ、避けることないじゃん! 私はルイと一緒にお弁当食べたくて、いつもの場所でずっと待ってるのに来てくれなくて……私がルイのこと大好きだって分かんないの? ねえ!」
すれ違っていた。愛されていることに気付かなかった。そのことが切ない。自分の鈍感さが憎い。何事も表面しか見られていなかったのだということを、ひしひしと自覚する。最近、こんなのばっかりだ。
でも、愛されていると分かったからこそ、私は今、この子を遠ざけなければならない。この子を守るために、今は別れなければならない。
「ヒロ、私、どうしても会わなければならない人がいるの。必ず帰ってくるから、待っててくれる?」
「何それ……」
理解できない、という顔をするヒロの頭を、そっと抱き寄せる。そして、彼女の額に口付けをした。
「私もヒロのこと、大好きだよ」
ぱちん、と何かが破裂するような音がした。少し遅れて頬に痛みを感じて、ヒロにぶたれたのだと気付く。
「だったら話してよ、私に。親友でしょ?」
「ごめん、ヒロ」
私は背を向ける。走り出す。足がもつれて、床に膝と手を付く。
「ごめん、本当にごめん」
××様のことは、ヒロには話せない。あの子は普通の子だから。
私の背負っているものを見せなくても、親友でいて欲しいと願うのは、わがままですか。
朝、トランクを抱えて玄関を出ると、家の前でミズキさんとチャグさんが待っていた。彼女たちとうなずき合い、私は秋晴れの空を見上げる。
飛行機雲が一筋、何かの境界線のように伸びていた。それを超えるように、一歩、足を踏み出した。
【第二章につづく】
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