第二章 【私が奪った命たちの話】

第十話 【同性不純行為】

 この手で初めて人の命を奪ったのは、十八歳の夏だった。

 その頃、私の人生は底の底で、いつ死んでも良いと思っていたけれど死ぬわけにはいかず、自分の腕に火の付いた煙草を押し付けて心の痛みや苛立ちを紛らわせているうちに癖になり、特に感情が昂ぶっていないときにも、空腹になったらおやつを食べるように根性焼きをしていた。

 生きるのは苦しい。大昔の偉い人が、生きることは罰であり修行であると言ったらしい。その話を聞いたとき、私は「だったら私の苦しさも仕方ないんだ」なんて思うことはできなかった。ただ、楽しそうに見える自分以外の人たちもみんなひどく苦しんで生きているのだという当たり前の事実を知って、世界の解析度が上がった気がした。目から鱗が落ちる、とはこういうことを言うのだろう。すごいな、と思った。苦しむために生きているなんて、人間はなんて哀れなんだ。神様はどSか何かなのか? ただ存在しているだけで傷付いて、誰かに傷付けられて、自分も誰かを傷付けて、仕舞いには自分で自分を傷付ける。そんなむごたらしい世界に、絶望した。

 私には、妹がいた。いた、過去形だ。

 彼女のことを思い出すと、鼻を雨のにおいがかすめる。ほんのりと甘い、湿った空気のにおいがする。


 高校の校舎の裏には、壁と生い茂った草木に隠された小さなスペースがあった。四畳半くらいの広さだっただろうか。誰からも忘れられたそこは、私とミツバの二人だけの秘密の場所だった。休み時間、私たちはいつもそこで過ごした。校舎の出っ張った部分が屋根になってくれるため、雨の日でも濡れることはなかった。

 コンクリートの上に座り込んで、ミツバが私の肩に頭を預けている。彼女の皮膚はしっとりと湿って、熱かった。温かいのではない。触れ合っているのに耐えられなくなりそうなほど、熱かった。けれど私は彼女が愛おしくて、側にいてくれることが嬉しくて、彼女の頭を抱き寄せて目をつむった。しとしとと、草木の上に雨の降りそそぐ音がする。しずくは全て林に吸収されてゆくのだろうと思った。そして、巡り廻ってまた、私たちの上に祝福のように舞い散るのだ。

 世界は美しい。はっと息を呑むほどに、瑞々しく豊かだ。けれど、その美しさが個々の苦しみによって成り立っているのだとしたら、なんて残酷な景色だろう。

 そんなことを拙い言葉でミツバに伝えると、彼女は困ったようにうつむいてしまった。上履きの先の赤い部分をじっと見つめたまま、黙り込んでいる。じわじわと、罪悪感がわき上がって来た。この純粋で優しくて傷付きやすい年下の少女に、私はなんてひどいことを言ってしまったのだろう。

「ごめんね」

「なんで謝るんですか、アカネさん」

 ミツバは微笑むと、私の肩に預けていた頭を膝まですっと滑らせた。折りたたんだ私の膝を枕にして、膝を立てたまま寝転がる。そして、子猫のように潤んだきれいな目で見上げてくる。

「アカネさんは、いつも難しいことばかり言いますね。私には分からないことばっかり……」

「傷付いたんじゃない?」

「分からないから、傷付きようもないですよ」

 ミツバは幸せそうに目をつむると、私の下腹部に頬を寄せた。

「お姉さまの腸が動いてる音がします。ぐるぐるって」

「やめてよ、恥ずかしい」

「良いじゃないですか、生きてるって感じで」

 ミツバの体は熱い。その熱さも、生きているということなのだろう。

「私たち、命そのもので触れ合ってるみたいだね」

 私がしみじみと言うと、

「やっぱり、お姉さまの言うことはよくわかりません」

 と、ミツバは小声で返した。そして、数分も経たないうちにすやすやと寝息を立て始めた。


 私とミツバは、別々に秘密の場所から出てそれぞれの教室へと向かうことにしている。

 午後の授業が始まる直前に教室に入ろうとしていると、いきなり背後から肩を叩かれた。ぎょっとして飛び上がる。

「そんなにびっくりしなくても良いじゃないか」

 後ろに立っていたのは、クラス担任の男性教師だった。肩とはいえ女の体に触れるのは良くないことだと思ったけれど、怒れなかった。私はいつも、自分の気持ちを口にできない。

「ちょっと、話したいことがあるんだ。一緒に面談室に来てくれないか?」

「授業は……」

「担当の先生には少し遅れると伝えてるから」

 次の授業は、私の好きな古文だった。軽薄な担任教師と話をするよりも、授業を受ける方が何倍も有意義だ。不満を隠しながら、男の後についてゆく。

 面談室は、テーブルが一つとパイプ椅子が四脚、赤本がずらっと並ぶ本棚がぎゅうぎゅうに詰め込まれた小さな部屋だ。内側から鍵をかけられ、テーブルを挟んで男と向き合うと、強い圧迫感があった。少し苛立つ。

 男はしばらくもごもごと口を動かした後、言いにくそうに切り出した。

「お前、一年生の玉木ミツバと付き合ってるのか?」

 ハッとして男をにらむと、彼は視線を落としてもじとじとする。

「クラスの生徒が、お前たちがキスをしてるところを見たらしい」

「それがどうしたんですか?」

「この学校では、異性不純行為は禁じられている。当然、同性でもダメだ」

 今すぐ立ち上がって、男を引っ叩きたいと思った。けれど私の体は引きつったように動かず、涙だけが溢れ出した。

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雨の底の迷宮を歩く 紫陽花 雨希 @6pp1e

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