第五話 【夕焼けと夜闇の境界】

 大坂の街でさんざん歩き回った後、ヒロと私は日本で一番高いという商業ビルの展望デッキに上った。足元は芝生になっており、ひょろりとした淡い色の若木や小さな花も植えられている。天井はないが、背の高いガラスの壁が周囲をぐるっと囲んでいて、落ちたりすることはまずない造りだった。

 夜闇に沈む直前の街を見下ろす。空の際に濃いオレンジ色の帯がすうっと伸び、上に行くにつれ染料が溶けたように淡くグラデーションを作る。天の高い所からは藍色の絵の具が落ちてきて、こちらもグラデーションを作りながら淡くなってゆき、限りなく白くなった所で下から伸びた夕焼けと見分けが付かなくなるのだった。灰色のベールをかけたように陰になった街には既に人工の星が灯り始めており、静かに光っている。

「きれいだね」

 ヒロが呟いた。寂しげな、低い声だった。ドキリとし、その動揺をまぎらわすように明るい声を出す。

「そうだね。やっぱり都会って眩しいなぁ。憧れちゃう。ずっと住みたいとは思わないけど」

「ねえ、ルイ」

 真剣な表情で、彼女は夕焼けと夜闇の境に視線を向けている。

「私、大学は東京に出ようと思うんだ」

 息を呑む。しばらく、声が出なかった。ヒロは、私と一緒に地元の県立医大に入るはずだった。これからもずっと、二人で過ごすのだと、当たり前のように信じていた。責めるような気持ちをなんとか抑えながら、感情を殺して小声で聞く。

「……志望校は決まってるの?」

 それでも、声は震えていた。

 ヒロはうなずいた。

「東京大学、目指そうと思う」

「理科Ⅲ類ってこと? それはさすがに私たちの成績じゃ……」

 突拍子もない発言におろおろする私に、ヒロはさらに思いもしなかった言葉を重ねる。

「医者になるの、やめる。文転して、文学部に入る。将来は出版関係の仕事に就きたいんだ」

「それじゃ、高校のクラスも別になっちゃう……」

 私には、ヒロしかいないのに。ヒロだけが私の崩れそうな心を支えてくれているのに。彼女を失ったら、四面楚歌な教室で、どうやって生きてゆけると言うのだろう。

 ヒロがこちらを向く。固かった表情が崩れ、幼い子どもをあやす親のように笑った。

「なに泣いてんの、ルイ。らしくないよ」

「だって、だって、私」

「大丈夫だよ。通学は今まで通り一緒だから。お弁当も一緒に食べよ。ね?」

 ヒロは泣きじゃくる私の頭に腕を回し、額と額を優しくくっ付ける。ヒロの星を宿した目が、すぐそばにある。甘い香りがした。

 私は服の袖で顔を拭うと、ヒロの腕をそっと外した。ガラスの壁に体を預け、いつの間にか完全に夜になった街を見下ろす。無数の光の粒が、ぼやけて長い足を四方に伸ばした。

「私も東京、行けたら良いのにね」

 そんなことは、決して許されない。癒しの神である××様に愛されている私には、一生あの町に留まり、彼女につかえるという定めがある。医者の資格を取り、現代医学によって治療しているフリをしながら、××様の力を借りて町の人々を癒すという役割を、生まれたときから課せられている。私が私である限り絶対に逃れられない宿命だ。

「ヒロが羨ましいよ」

 親友を傷付けてしまうと分かっていても、どうしてもそう言わずにはいられなかった。自己嫌悪し、曖昧な笑みを浮かべてヒロの方を見たその時――

 ガラスが、弾けた。

 粉々に砕けたガラスの欠片はまるで、昔テレビで見たダイヤモンドダストのように輝きながら散る。きれいだな、と思った。

「ルイーっ!!!」

 ヒロが叫んでいる。その時初めて、私は自分が落ちていることに気付いた。スローモーションのように、ゆっくりとヒロが遠ざかってゆく。

 あ、私、このまま死ぬんだ。

 風が気持ちいい。体がふわふわして、心地よい。落下するのって、こんなに快感なんだ。

 まあ、良いか。生きていたってどうせ、地獄が続くだけなのだから。

 思わず笑みがこぼれたとき、耳元で××様の声がした。いつもは理解できないその声が、今ははっきりと心に届いた。

「あなたは、まだ死んではいけない。私の愛し子よ」

 ふ、と我に帰った。

「どうしたの、ルイ」

 ヒロが不思議そうに首をかしげる。私は展望デッキで、強固な分厚いガラスにもたれかかっていた。床にしっかりと足が付いている。

 夢でも見ていたのだろうか、とガラスに視線を向けると、青ざめた私の顔を××様が大切な宝物を扱うように何度も何度も撫でている様子が、夜景にかぶって薄らと映っていた。夢だったのではなく、彼女の力で命を救われたのだと理解する。

 そして、私たちの後ろに、あの野球帽をかぶった女と黒いドレスの少女が映っていた。ガラス越しでも、少女の禍々しいドレスがはっきりと見えた。私が振り返ろうとした瞬間に彼女たちはすっとデッキから出て行き、その場所を目で直接見たときには既に影も形もなかった。

「ねえ、ヒロ。私、もしかしたら今、戦うべき敵が現れたのかもしれない」

 ヒロはきょとんとし、それからケラケラと笑い始めた。

「ルイ、お父さんを説得して東京の大学に行かせてもらおうとしてる? そんなに私のことが好きなの?」

「え? いや……」

 ××様のことも、黒いドレスを着た何かのことも、ヒロには話していない。一生話すつもりもないので、そういうことにしておく。

 私も声を上げて笑ってみせた。

「まあ、うちの親父の説得は難しいだろうけどね」

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