第5話 長い午睡とその終わり

 昼下がりであった。


 桟橋の上でシィラかんすが寝ていたのである。

 片目で空を見上げて、いかにも打ち上げられたという風であった。

 私が板前でも生業にしていたらぜひとも三枚おろしにしたい。そんな無防備な格好である。


 帰ってきたのか。


 一瞬死んでしまったのではないかとありそうもないことを思ったが、案の定私が近づくともぞもぞと動いた。

 少し陽にあたっていたのだよ。とシィラかんすはうそぶいた。

 シィラかんすはよくよく考えてみれば冬以来ずっと旅をしていたのだ。


 シィラかんすよ、こんなに長く遠出して一体何をしていたんだい。

 聞いてみるとシィラかんすは少し困った顔をした。

 ふむそうだな、見聞を広めていた、とでも言おうかね。


 久しぶりに釣りがしたい。

 とシィラかんすが続けた。

 分かったよシィラかんす。酒でも飲もう。



 釣り針が放物線を描いて湖面に落下していった。

 マンボウは釣れたんだろうか。と、シィラかんすが聞くものだから、私は少し考えて首を振った。

 シィラかんすは瓶を傾けて酒を喉の奥に流してくぷくぷ笑った。

 君は全く律儀な男だよ。難儀だけどもね。

 そうだろうかね、と言いながら私も笑った。


 と。私の釣り竿が大きくしなった。

 今度こそマンボウだろうかね。とシィラかんすは言った。

 程なくして魚は浮き上がり始めた。ふむ、無論マンボウではない。


 おや、ウグイかね。

 ウグイだね、これは。


 やはり失敗か。

 シィラかんすは自嘲した。

 自嘲して、おもむろにウグイを持ち上げると、ぼと。と胃の奥にそれを落とした。それから、喉の奥でウグイを砕いてつぶしてみせた。ごりごりとにぶい音がした。

 おいしいのかい。聞いてみるとシィラかんすは首をかしげて、そうだなあと暫く悩んで見せた。

 そのあとで一言、まずいかな。と言った。


 にしても君、マンボウの代わりに妙なものを釣り上げたようじゃないか。

 妙なものって、ああ、人魚さんのこと。

 やっぱりシィラかんすにはお見通しのようだった。


 隣人と仲良くするのはいいことだよ。マタイの福音書にだって書いてある。


 そのあとシィラかんすとごくごく平凡な、つまらない話をした。人魚さんのこととか、ロッジの天井のこととか昼飯のこととか、そんなこと。世間話である。


 考えてみると目の前の悪友は随分と様子が変だった。暫く会っていなかったものだから気が付かなかったが、元来シィラかんすは妙なことを切り出さぬ方が珍しい。

 これは平凡ならざる事態なのだ。

 よくよく見てみれば、大魚の両のひれは黄色くなり、目は前にもまして白濁していた。

 そうか、老いたのだろう。


 なあ、笹木君、僕はね。

 シィラかんすはそう言って少し咳をした。咳と言ってもシーラカンスの咳である。

 僕はもう一度旅に出ることにしたのだよ。もっと遠くに行こうと思う。

 遠くへ?

 ああ、ずっと遠くへ行く。暫くまたあえないだろうな、だからこうして一応アイサツに来た

 というわけだ。また気が向いたら戻ってくるよ。


 シィラかんすは嘘つきである。


 私にも彼がもう長くないことぐらいは分かるのだ。

 引き留めようかと一瞬思い、やめた。私がそんな気遣いのないことをしたら、シィラかんすは鰭を叩いてまた私を皮肉るだろうから。

 猫は死に際に生家を捨てて遠方へ行くという。いつか聞いたそんなことを思い出した。


 僕のあばら家は自由に使ってもらって構わないよ。釣り具も桟橋も好きにしたまえ。

 まあ、そう言っても僕のいない間随分好き勝手に使っていたようだからね、そのまま使い続けるがいいさ。なにしろ腐らせとくのが一番よくない。


 言うとシィラかんすはまたうまそうに一杯酒をあおった。で、瓶を下したシィラかんすは少しにやにやしていた。


 僕は少し嬉しいのだよ、くそみそに頭が固くて不愛想な君は、ようやく僕がいなくても生きていけるようになったみたいだ。

 何だ失礼な。いつだって私は立派にひとり生きてきたさ。

 はは、通り一遍の「生きる」じゃないよ。


 私が何か言葉を継ごうとしたら、シィラかんすはこちらを見てふふん、と言った。

 ふふんと言って、湖の方に向き直ったので、彼の表情がわからなくなった。

 分からなくなって、私もシィラかんすも、少し黙った。

 いつの間にやら季節が過ぎて、気が付けばあちこちで木々は葉を落とし始めているのだった。

 ああ、もう1年がたったのか。


 ああ、それじゃあな。笹木君。


 ぼちゃん。



 水音であった。

 水音であったから、ようやくシィラかんすは別れを言ったのだ、と分かった。

 隣にいたシィラかんすの姿が無い。

 代わりにコバルトブルーの湖面におおきな波紋が広がっているばかりだった。

 波はゆっくりと広がって、桟橋の足を濡らし、ほどなくして消えた。

 消えた。


「もし、シィラかんす。」

 もう日が傾きかけていた。

「もし…」

 その言葉に答えるものは無かった。


 泣きでもしたら水面からあいつがまた浮いてきて「随分女々しいことだね、そんなに嫌なら引き留めればよかったじゃないか。」だのなんだのにやにや言いそうだったから、しばらく口を結び、湖面を見つめていた。

 私の目がそれでも潤んだのは、きっと午後の光が湖面を照らし、コバルトブルーの田沢湖が一瞬、黄金色に衣替えしたように眩しかったからである。


 傍らの桟橋をなぜる。指先が湿って、変なにおいがした。

 でも、シィラかんすがつい先ほどまで隣に腰かけていたことが信じられなくなった。

 確かに少し魚の匂いが残っていたけれど、それは先ほど釣り上げたウグイの香りかもしれず、はたまた私の気のせいかもしれない。


 いつかのピラルク―と同じことだ、きっと別れとはあやふやなのだろう。

 第一シィラかんすとは私の妄想以上の何かだったのだろうか、考えてみればそうだ、シーラカンスとは歴とした深海生物である。


 悩むことは多く、世界の終わりは遠い。

 肩肘張って考えるぐらいは許されそうなものだ。

 なあ、シィラかんす。

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