第4話 何も無いような、何もかもあるような

 夜である。

 人魚と酔い覚ましに歩く。

 酔い覚ましに夜風にあたるのがいいといったのは確か私だったけれど、田沢湖の周りを一周廻ろうと言い出したのは人魚のほうで、だからこの現況に対する責任は折半されるべきだった。


 ざわざわと、風が吹くたびに真っ黒の森が揺れた。他には水の香りがするばかりだった。

 どうも肌寒い。


「ねえ、人魚さん。どのくらい歩いたんだろ。」

「そうですねえ、随分歩きましたけど。一向進んでいないような気もします。」


 ともあれ二人とも、訳は忘れてしまったけれど飲み過ぎたのである。

 はたまた訳などなかったのかもしれぬ。

 酔っぱらい、ために思ってもみない睦言めいたものを交わすと、調子に乗ってこんなところまで来てしまった。

 シィラかんすのロッジをでて暗いところをずっと歩いたことまでは覚えているのだが、それ以降が怪しい。

 持ち寄った干し烏賊がやけに堅かったとか、そういうどうでもいいことは覚えているのだけれど。


「なんだかさっきから同じところを回っているような気がします。ぐるぐる回っているような。」

 たしかにそうだねえ、と言いながら私は、今は何時なんだろうと思った。空にはぼんやりと月が浮かんでいた。浮かんでいたけど、ただそれだけ。他には何もない。

「ねえ人魚さん。」

 声をかけると返事がなかったので私は俄然不安になった。

「人魚さん。」

「はーい」

「あのさ。人魚さん」

「はーい?」

 どうも心地が悪くて、何度も人魚さんと呼んだ。

 その度、はーい?とうつろな返事が後ろから帰ってきた。


 人魚さん。はーい。人魚さん。はーい。


 本当に真っ暗なのだ。

 ずっと遠くに街灯の薄ら光がぽつぽつと見える。それだけだった。


「人魚さん。」

「少し疲れました。休みましょ。」

 人魚が言うので、仕方なく座ってみた。

 座ってみるとコンクリートが少し湿っていたものだから、下が少し濡れた。

 私が干し烏賊を齧ると暗闇の中でぱりぱりと気分の良い音がした。


「これ、食べる?」烏賊を渡すと人魚もぱりぱりと食べた。


「私達、帰れますかね。」

「さあ、どうなんだろう。」

 どうなのだろう。


「ねえ、あなたは湖の底を覗きたいとか、思うことはないですか?」

 人魚はしばらくぶりに口を開いた。

「不思議なことをきくね。」

「私はあるんですよ。しょっちゅうなんです。」

 ふうん。

「でも私も時折あの湖にはマンボウがいるって本気で思ったりするよ。」


 彼女が口笛でダニー・ボーイを吹き始めたので、私も吹いた。私が吹いてもそれは肺炎をこじらせた犬のため息のようにしか聞こえなかったが。


 風がざわざわ吹いている。

 久しぶりに世界の終わりが遠い夜だった。

 世界の終わりだけではない、いろんなことが遠い夜なのだ。


 何も無いような、何もかもがあるような。


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