第3話 人魚

 雪は唐突に止み、私は釣り具をふりふりシィラかんすの家を目指した。

 春が来た、と聞いた。

 彼がそこにいるなどとは微塵も思っていなかったが、もしかしたら彼が旅に出なかったのでは、という可能性を残しておくのも嫌なのだ。


 案の定彼はいなかった。

 木製の簡素極まるロッジが静かに私を迎えるばかりである。

 シィラかんすのロッジが如何なるものか想像がつかないかもしれないが、その点は何のことはない。みすぼらしいがごく一般的なロッジである。

 そうだな、『スタンドバイミー』のツリーハウスを地面にたたき落として、少しばかり大きくしたようなものだ。


 生粋のノマドたる彼は地上を自由に「回遊」しているから、雪が止めば遠くへ行く。私の想像のつかぬほど、ずっと遠くへ行くのだ。

 ロッジに残るシィラかんす特有の魚臭さだけが、彼がいたことを示す痕跡だった。


 さて、しようがない。しようがない、か。

 扉を三枚潜れば蒼であった。

 ロッジの向こうは湖に面している。久方ぶりに相対すると、田沢湖岸には水芭蕉がこれでもかというくらいに茂っていた、いつの間にやら風まで蒼い。

 ふむ、思えば暫く見なかった眺めである。

 深呼吸をすると鬱屈とした気分も少しは晴れた。



 そしてそんな朝涼みだったのだ、私が人魚を見つけたのは。


 ロッジの程近く、水草の合間に頭が浮いており、私はすぐにそれと分かった。長いとも短いとも言い難い黒髪が小さな波が来るごとにゆらゆら揺れていたのである。


 取り急いで湖水に足を踏み入れると、人魚が白い服を着て湖面に突っ伏す格好であることも明らかとなった。私は少年時代飼っていた鰌がある朝こんな格好で死んでいたのを思い出し、いかに人魚であろうとこれはだいぶ弱っているぞと直観した。

 いきなり得体の知れぬものの髪に触れるのは気が引けたので彼女の白い服に釣り針をひっかけ、試しに引いてみたところ動いた。案外軽いのである。


 ロッジの前まで引き上げてようやく人魚は陸に揚がった。

 ふむ。断わっておくなら無論、本当の人魚ではない。女性である。

 なんで人魚と幻視したか、あるいは幻視したかったのかと言えばおおかた人魚の出てくる妙な小説を先日読了したからであろう。

 黒髪にワンピースの若い女性であった。顔までかかった黒髪を上げるとまだ息をしていた。おおかた身投げであろう。このごろの田沢湖では入水自殺が絶えぬと聞いた、日本一の深さというレーベルが彼らを引き付けるのだろうか。

 成程、それならバイカル湖にでも行けばいいものを。


 彼女の両肩を掴んで速やかにロッジの中に運び入れる。寝かせてみると人魚というより女性のていになった。近頃猥雑な欲求を満たす機会に恵まれないためか、どろどろした何かが喉のあたりまでこみあげたが結局こらえた。シィラかんすと私の田沢湖に身を投げるような人物である。大層なお関わりなぞ持ちたくない。

 一応、警察に一報入れておこうかと思って110にかけるが、携帯は「お出になりません」を狂ったように連呼するばかりだった。それはそうか。私は少し動転しているようだった。そうだ、ここは世界の終わりなのだった。



 いつの間にやら彼女は目を覚ましていた。シィラかんす備え付けのコーヒーを二杯分作っている間に、である。ベッドの上で目を瞬いては天井を凝視している。

「おはよう人魚さん。早かったじゃない。」

 声をかけると彼女は体を一回震わせ、私に背を向けた。け、命の恩人にその仕打ちか、と思ったが口には出さず、コーヒーを差し出してやることにした。

 彼女は少し当惑してそれを受け取り、しかし大層美味しそうにするすると飲んだ。

 なかなか綺麗に飲むものだなあ、と思う。私は一転彼女に好感を持った。


「やはり私は陸に括り付けられているみたいです。」

 ぼそっと女性が言った。死ぬのは向いてないみたい。

 返す言葉が見つからなかったので、なぜこんなところに来たの?と聞いてみると彼女は低い天井をじっと眺めた。


「そうですね…。蒸発したんです。逃げてきたんですよ。」

 遠いところから、と女性は続けた。

「首府から来たのです。」

「ほう、つくばですか。」

「いえいえ、昔のほうです。」

 少しばかりおどろく。昔のほうといえば、トウキョウか。今も人がいるとは。


 どうも関わるのに疲れた、と言いますか。不足があったわけではないんですけど。

 と、女性は言った。ぜーたくっていうのかもしれませんね。


 台所からベッドを眺めて分かったのだが女性のお腹は少し膨れていた。体型の話ではなく、不自然なのである。しかして私は随分まじまじと彼女の腹部を眺めていた。

「ああ、やっぱりこれですか。お腹に赤ちゃんがいるんです。」

「よもや産むのですか。」私が問うと女性はふっと微笑んでみせた。

「まさか、産みませんよ。おろすんです。」

 彼女はどこから来たのだろう。どこから。


 程なく女性は疲れたようで、眠ってしまった。

 眠ってしまってから、名前を聞くのを忘れていたことに気が付いた。


 私もコーヒーをするするすすりながら、ぼんやり考えていた。

 これからも人魚さんとでも呼ぼうか。

 いや、やはり少々失礼だろうか。


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