珈琲10杯目 (8)葦毛の怪物

「スノート家の皆様は、競馬を愛しておられます」

 お顔を向けたルノートル様に、わたくしは小さくうなずいて続けました。

「競馬には、物語がございます。スノート家の皆様は、どなた様も『心の馬』をお持ちでいらっしゃいまして、その馬の物語に励まされてこられたのでございます」

「『心の馬』……?」

「はい。例えば、クラウ様の御母君であるマーファリス様は……」



 人品才能いずれも優れ、現在は帝国魔導技術工廠の堤理という要職にお就きのマーファリス様でございますが、ご本人様いわく、「幼少の頃は多少魔術に秀でていることで慢心し、努力を厭い、壁に突き当たると早々に諦めるような無気力な子供だった」とのことでございました。

 それが変わられたのは、ご両親に連れられて観戦された、旧都競馬場でのある名勝負がきっかけでございます。


 旧都競馬場で毎年秋に開催されるミレリア王座戦。一ミレリアすなわち千六百エレットの競争でございますが、その年は当時の超人気馬・フォルリアーグ号が出走しておりました。今は亡きマーファリス様のお父君は、この葦毛馬の走りを愛娘まなむすめに見せようとはるばる旧都までお連れしたのでございます。


 しかし当のフォルリアーグ号は、四か月で重賞六戦という常識外れの過酷な日程の四戦目としてミレリア王座戦に臨んでおりまして、レース当日も調子は良くありませんでした。スタートから向こう正面までは中団に位置し、第三コーナーで進出を試みるも遅きに失した感があり、最終コーナーでは進路をふさがれてしまいます。

(怪物と呼ばれる馬も、結局この程度なのね)

 幼いマーファリス様は、冷めた目でご覧になられていたと回想されます。

(直線に入って、やっと前が開いた……でも、先頭のラングーレオニーはもう抜け出して逃げに入ってる。この勝負、決まりじゃない)

 マーファリス様のみならず、観客の誰もがそう思ったはずでございます。しかし、伝説はここから始まったのでした。


 客席上部に設けられた実況席から、実況者が最後の直線の状況を伝えます。

<内からフォルリが伸びてくる、内からフォルリが伸びてくるぞ! 先頭はラングーレオニーだ、ラングー先頭だ! そしてフォルリアーグが二番手に上がってきた!>

(やっと上がってきたのね。でももう残りは二百、ここからは……)

 幼いマーファリス様の瞳に映ったのは、逃げ込みを図るラングーレオニー号と、それを追走するフォルリアーグ号。およそ競馬を知る者にとって、この態勢でフォルリアーグ号が追いつく可能性は皆無に等しいことは明白でしたが、それでも葦毛の伝説馬は、執念の走りで懸命に追いすがります。その死闘の様子を、実況者が伝声管を使って観客席に伝えていました。


<さあラングーが逃げた、ラングーが逃げた! フォルリが負けられない、フォルリが内からすくう、内をすくう!>

「……えっ?」

 マーファリス様は思わず驚きを声に出され、目を見張られました。絶対に追いつけるはずがない――そう確信したというのに、あの葦毛の駿馬は一歩、そしてまた一歩、わずかずつ、しかし確実に先頭との距離を詰めていきます。そしてついに並び、ハナ差で交わしたその瞬間が決勝点でございました。


<内か外か、わずかに内かー!>

 実況者の叫びが場内に響き渡り、観客は皆衝撃の展開に息を呑みました。闘志そのものが走っていた、と後にマーファリス様が回想されたフォルリアーグ号の壮絶な追い込み。全身がぶるぶると激しく震えた、とマーファリス様はおっしゃられます。

「……どうして……?」


<わずかに内フォルリアーグか、ラングーレオニーか! 負けられないフォルリ、譲れないラングー。この二頭の一騎打ちになりました。フォルリかラングーか!>

「どうして、あそこから勝てるの?」

 誰に問いかけるでもなく、マーファリス様は呆然とつぶやかれました。

「ううん、そもそもどうして、あの状態から勝とうとするの?」

 その問いに対するお父君の答えについて、正確な言葉は覚えていないとマーファリス様は苦笑交じりに回想されます。しかし、この魂の走りをご覧になられたマーファリス様は、はっきりと自分の中の何かが変わったと懐かし気におっしゃられます。



「その後のマーファリス様の経歴につきましては、贅言ぜいげんを要しますまい」

 わたくしが口調をあらためますと、手にした菓子を口に運ぶのも忘れて聞き続けておられたルノートル殿は、はっと我に返られました。

「もともと魔導士としての天分に恵まれておられたマーファリス様は、いかなる困難にも屈せず勉学に精励され、ついには帝国の魔導士が就ける公職として最難関の帝国軍魔導技術局に採用されました。その後も職務に打ち込まれ、異例の若さで帝国魔導技術工廠の堤理――すなわち責任者となられたのでございます」

 わたくしの説明の後、リュライア様が穏やかな微笑と共に付け加えられました。


「ちなみに姉上の執務室には、フォルリアーグ号がラングーレオニー号を交わして入線した瞬間の絵が飾られているよ。姉上いわく、やる気が必要な時は、あのレースのあの追い込みを思い出すだけでいい、ということだ」

 そしてリュライア様は、椅子に背をもたせかけられました。

「我がスノート家が、競馬の素晴らしさを伝えるためには労を惜しまない理由が、お分かりいただけたかな?」


「……はい。素敵なお話、ありがとうございました」ルノートル殿は、リュライア様に深々と頭を下げられました。「『夜明けのカラス』へのご支援、有難くお受けいたします」

「あのー、いい雰囲気のところ申し訳ないんだけど……」

 クラウ様が、珍しく遠慮がちに声をあげられました。リュライア様は表情を一変させ、高純度の殺意をクラウ様に向けられます。

「本当に申し訳ないな。お前はもう少し空気というものを……」

「当日はファルにも来て欲しいんだけど」

 リュライア様の叱責を軽く流されたクラウ様は、わたくしにすがるような目を向けられました。


「もちろん、クメルタインさんを言いくるめるのは僕がやるよ? でも、何かあったときに援護して欲しいんだ……特に、レース観戦させるのは難しいと思う。想定外に備えて、ファルがいてくれたら心強いんだけど……」

「わたくしは構いませんが……」

 しかし、わたくしがリュライア様に視線を向けるより先に、ご主人様の声が発されました。


「寝言は寝て言え、と言いたいが」リュライア様は、見ようによっては意地悪く唇をほころばせました。

「クメルタイン嬢に競馬の素晴らしさを知らしめるためだ、特別にファルを貸してやろう。お前がルノートル殿から受け取る賞金の半分で手を打ってやる」

「え」

「嫌なら、全て自分でやることだな」

「わ、分かったよ。分かったから、ファルを貸して!」


 もともとルノートル殿への賞金の半分を狙っていたところが二割だと言われ、それをさらに半分。つまり賞金の一割しか手にできないということでございますが、背に腹は代えられぬとクラウ様は潔くあきらめられたようでございます。

 リュライア様は、なおも疑わしげな目をクラウ様に向けておいででしたが、やがてゆっくりとうなずかれました。

「よし。ということでファル、すまんがこの馬鹿に付き合ってやってくれ」

「かしこまりました」わたくしはご主人様に一礼いたしましてから、胸を反らせて、いつもの言葉を申し上げます。

「何事も、このファルナミアンにお任せあれ」

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