大樹さん 《葉月》
◇
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
久しぶりにふらっと大型ショッピングセンターまで足を運んでみたが、出掛けて良かったと心の底から思っている。
大樹さん…… かぁ。
すべてがどうでも良くなり、身体を売ることすらも何とも思わなくなってしまったあたし。
そんな日々を過ごしていた時に出会ったのが大樹さんだった。
あたしが働く大人のお店にやってきた大樹さん。
どうやらこういうお店自体初めてらしく、とても緊張した様子だった。
でも、その目はとても寂しそうで、かつて酷い裏切りで傷付けてしまった彼に何となく似ていて……
それであたしは何を思ったのか、普段はしないような特別なサービスをして……
『ありがとう、モミジさん』
サービスが終わった後に照れくさそうに笑う大樹さんを見て…… あたしの中で大樹さんが気になる存在になってしまった。
決して一目惚れとかではない…… けど『この人を癒してあげられないか?』と考えているうちに、すべてがどうでも良くなっていたあたしの中で何かが芽生えたような気がした。
大人のお店で働き始めたのは最近だが、以前似たようなことはしていた。
でも客に対してこんな風に『奉仕したい』と思ったことは一度もなかったのに…… どうしてだろう?
店では愛想も悪く最低限のサービスしかしないと不人気だし、この店で働く前に似たようなことをしていた時も、ある時期から『反応があまりないからつまらない』と言われていた。
それどころか、今まで付き合った人達にすら…… 『奉仕したい』とまでは思ったことはない。
色々な経験からか、それとも彼と重ねて罪滅ぼしをしている気になって楽になろうとしているのか…… 自分の事なのによく分からない気持ちになってしまった。
それでも『また会えないかな?』と思う自分がいて、二回目に大樹さんが来店した時には、つい……
ああ、今思い出しても恥ずかしい!
接客中なのに、あたしったらあんな大胆に……
大樹さんも大樹さんで凄く優しいし、それで上手だし…… あれで仕事が終わりで本当に良かった。
あたしが癒してあげるつもりが、逆に大樹さんに癒されて、でも大樹さんも『癒された』と言ってくれて…… なんか二人で傷を舐め合っていたような感じになってしまったけど、二人でいた『六十分』が凄く心地良かった。
……普通じゃないよね? ましてや大人のサービスを提供する女だよ? でも、どうして大樹さんといるとこんな気持ちになるか知りたかったあたしは、意を決して連絡先を渡した。
……なのに! 大樹さんったらいつまで経っても連絡をくれない!
……警戒したのかな? それかまた来店してもらうための営業だと思われるよね。
そして一週間経っても連絡がないし、休みで予定も無く暇だし、気晴らしに大型ショッピングセンターに足を運んだら…… そこに大樹さんがいた。
しかも可愛い小さな女の子を連れて歩いてるんだもん、ビックリしたよ。
でも大樹さんくらい優しい人だったら奥さんや子供がいても不思議じゃないよね。
だから連絡が来なかったんだ、見なかった事にして逃げようかなぁ…… と一瞬思ったけど、このタイミングを逃すと二度と会えないような気がして、気が付いたらあたしは大樹さんに話しかけていた。
大樹さんは慌てている様子で、それを見て『失敗した、話しかけなければ良かった』と思ったけど、なぜか大樹さんの娘さん、穂乃果ちゃんに気に入られたあたしは…… 食事や買い物をご一緒させてもらうことになった。
そして少し話しているうちにあたしは気付いてしまった。
大樹さんが寂しい目をしている理由に。
……詳しくは分からないけど、きっと大切な人に『裏切られた』んだと思う。
ズキッと心が痛んだけど、あたしが大樹さんを『癒してあげたい』と思う理由も何となく分かってしまった。
罪滅ぼし…… いや、やっぱり傷の舐め合いって言葉がしっくりくるかも。
大樹さんを癒す、それがあたしの癒しになる…… うん、それだけ…… きっと。
そして穂乃果ちゃんの服を選んであげている時に、昔にアパレルショップで働いていた時のことを思い出して、久しぶりに心から『楽しい』と感じた。
あたしのコーディネートで穂乃果ちゃんは大袈裟なくらい喜んでくれるし、ついつい張り切っちゃったなぁ……
張り切り過ぎて大樹さんに全部買わせてしまう形になってしまったのは後悔しているが、穂乃果ちゃんが嬉しそうに笑っていたから…… 悩んだけど買い物に付いて行って良かった。
そして大樹さん達と『また今度』の約束をしてその場でお別れ…… 一人ぼっちになって急に寂しさがこみ上げてきたけど…… 今日は久しぶりに楽しいと思える一日だった。
帰りにコンビニに寄り、お酒とおつまみを買って、一人暮らしをしている外観はオンボロなアパートに帰って来た。
……あれ? お隣さんも丁度帰って来たみたい。
「こんばんはー」
「あっ…… こんばんは」
お隣さんの女性は、あたしがこのアパートに引っ越して来た時にはもう住んでいた。
二十代後半か三十代前半くらいかな? 長いストレートの黒髪でスラッと背が高く、つり目気味でクールそうな見た目の女性。
でも、凄く美人なのに化粧っ気もなく、暗い感じがするし、朝早くから仕事に出掛けているみたいで、あまり顔を合わせる事もないし、挨拶も数えるほどしかしたことがない。
ただのお隣さんだし関わりはないけど…… でも、左手の薬指に指輪をしてるんだよねぇ……
ちょっとワケアリなのかな?
少し気になるけど、そういうあたしも夜遅く帰って来たり、派手な服装をしていることがあるから、人の事は言えないんだけどね。
そんな事より…… 大樹さんはちゃんと約束を守ってくれるかな?
コンビニの袋からいつも飲んでいる、アルコール度数の低いジュースのようなお酒を取り出しプルタブを起こす。
んっ…… 甘くて美味しい……
あっ、スマホが鳴ってる…… 知らない番号だ、もしかして……
「はい」
『あー…… もしもし…… 葉月さん? 木下ですけど……』
「あはっ! 大樹さん、約束通り連絡してきてくれたんですね!」
傷を舐め合う仲でも…… 声を聞いたら嬉しくなるのは…… 変じゃないよね?
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