第3話 麻と母

 …………それは、とても美しい夢だった。


 薄らと開けた瞳で、天井を見上げた麻は、この世の終わりを願っていた。



 ゆるゆると真白いセーラー服に袖を通した麻は、洗面台の鏡に映る、自分の青白い顔に苦笑いを浮かべた。

 今年で十五になる麻は、エスカレーター式の女学校に通っている。そう、ただ通っているだけ。目的もなく、ただ惰性で。

 胸の黒いリボンを結び終えると、麻は自室を出た。代わり映えのしない自身の部屋に、ぐずぐずいても仕方がない。もしそうしていたとしても、変わらなかっただろうから。

 廊下に出ると、さぁと頬を撫でた冷気に、妙な納得をした。あんな夢を見たのは、幼い頃の幸せだった日々を見たのは、きっとこの景色のせいだ。足が重いのもすべて、そう。

 麻はそう結論付けると、歩を進める。

 

「あっ………」


 麻は、いつもなら俯きながら通り過ぎる中庭へ通ずる、たった一つの突っ掛けを見咎めて、思わず立ち止まった。

 ここからいつも、姉の結の元へ向かった。それが昨日のことのように、思い起こすことが出来るのに、どうしてだろう。足が向かなくなって、五年も経つのに。

 大して理由はなかったように思う。でも、姉の方へ向かうのを母に見つかって、すごく怒られてそれで、行かなくなった。そんな理由で行けなくなって、ずるずると来てしまったのだ。


(情けない)


 背中の中ほどまで流れる髪が、麻の顔を隠す。そこで浮かべる表情がどんなものであるからさえも、全てから覆い隠してどれほど経つだろうか。

 麻は根が生えてしまったようにそこへ、いつまでも立ち止まっていたかった。姉が姿を見せてはくれないかと、万に一つを願っても意味がないとは、分かっていても。


「お姉さま」


 縋り付きたい気持ちが、口からこぼれ落ちる。今更すぎる。こんな都合のいい妹を結は許してはくれない。

 麻は、一度上げた顔を再び伏せて、居間に歩を無理矢理進めた。動かさなければならない。今、ここで立ち止まってしまったらもう、立ち上がれなくなる。

 這うような気持ちで居間に、辿り着いてもそこには、給仕をする女性が一人いるだけだった。いつもの光景だが、やはり悲しかった。


「奥様はお仕事で先に行かれました。旦那さまも、ご一緒です」

「そう。ありがとう」


 毎日、同じ台詞に飽くことなく聞いて、答える自分を滑稽だと笑う人間は、ここにはいない。

 自分の席に腰を下ろし、目の前に置かれた目玉焼きとウィンナーとポテトサラダ。ほかほかと湯気を立てる味噌汁とご飯。それを見ただけで、胸焼けがする。けど、麻は箸を取った。

 縫宮家は神から与えたチカラによって、祓いを主として海外への輸出を手がけていた。

 しかし大病をして体を悪くした父に代わり、麻の母が事業を任されることになった。それが転機となり、母の手腕は父が苦手とした対人関係を克服し、瞬く間に上客を捕まえ、そこからネットなどを駆使して、家を建て直した。

 そして、主に手縫いで手染めが主だったものを、機械と少しの手作業を加えることによって、安価で大量に作ることに成功した。

 成功した母は、そこで得た資金で会社を興し、自身が社長となった。業績は右肩上がり、国内トップの企業へと進化を遂げた。

 

「ごちそうさまでした」


 両手を合わせて、麻は椅子から立ち上がる。一度部屋に戻って鞄を取ってくる。それまで、誰一人として彼女に声をかける人間はいない。

 興味が無いのだろうと思う反面、実は彼女たちが本当に声をかけて、世話をしたいのは。

 玄関へ向かいながら、ふと顔を上げた先に映ったのは昔からいる女中だった。結い上げた髪を一つに結んだ和装姿。

 彼女の足が若干、ウキウキしているのが分かる。


「も、申し訳ありません!注意してきます」

「いいの。必要ないわ」


 自分と違って、好きに姉へ会いに行ける彼女を、心底羨ましいと思った。どうして、こんなにも隔ててしまったのだろう。幽閉している訳でもないし、姉がこちらへ来たければこれるようになっているのに。

 母に止められているのは、知っている。だから、姉も来ないのだ。


(こんなところまで、似てしまったのね)


 自嘲気味に薄く笑うと、麻は学校へ行く重い足取りを、玄関へ向けた。

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