4-13 理論上

 からんと氷が鳴る音がして、壮亮はスマホを見た。約束の時間まではあと十分ある。つい先ほど確認したときから、二分しか経っていない。壮亮は緊張していた。落ち着きがないのはそのせいだ。

 人と待ち合わせをしていた。初めて会う人との約束で、その緊張もあるが、果たして来てくれるのだろうかという不安もあった。承諾してはくれたが、実際に顔を見るまで、安心できなかった。約束の時間が近づく度、心拍が上がっていくのを感じた。

 待ち合わせ場所は相手の意向で、蔵前駅から徒歩数分のところにある喫茶店に決まった。研究所から離れたところがいいのだろうと推測していたが、実際店に来てみると、落ち着いた雰囲気でコーヒーもうまく、なるほどと合点がいった。

 行きつけなのかどうかはわからないが、わざわざこんなにいい店を教えてまで、来ないという選択肢はないだろうと、自分に言い聞かせる。

 店の扉が開き、一人の男性が入ってきた。店内を見回し、声をかけた店員に会釈をする。身綺麗なサラリーマン風の男性だった。顔には疲労感が溢れていた。

「三好さんですか?」

 男性は、壮亮が座っている席まで近づいてから訊いた。壮亮は立ち上がり、「伊野村さんでしょうか」と、質問で返した。

 胸ポケットから名刺を取り出すと、壮亮の前に差し出した。名刺には確かに「伊野村まこと」と書かれている。会社名は聞きなれないものだった。同業ではなさそうだ。

 拝借しながら、「すみません、名刺を持ち合わせていなくて」と謝罪すると、「存じております」と、くたびれた笑顔が返ってきた。

 この日、壮亮が約束を取り付けていた人物は、伊野村だった。壮亮が所属している研究所の元研究員で、TCプロジェクトの先駆けとなる研究に携わっていた人物。そして、唯一センダーと接触していた人物だ。

 連絡先は、先日杉下から伊野村の話を聞いた際に、彼から教えてもらっていた。杉下は不思議そう——実際には不審そうに壮亮を見ていたが、まだこの番号が通じるのかはわからんぞ、と言いながらも教えてくれた。

 山を訪れた帰り道にダメもとで連絡してみると、つながったのだった。突然連絡した壮亮を、伊野村はあしらうことはなかった。会って話がしたいという要望にも、二つ返事で応じてくれた。

「お越しくださってありがとうございます。突然連絡してしまい、すみませんでした」

 電話でも簡単に内容は伝えていたが、改めて、以前伊野村が携わっていた研究に参加していることを話した。そのことで話が聞きたいということも、あらかじめ話してあった。

「いえ、そろそろ誰かが会いに来るのではないかと思っていたので。むしろ、連絡くださったことに安心しました」

「それはどういう意味でしょう?」

「実は先日、湊斗くんに会ったんです。偶然ね、会いまして。向こうも私のことを覚えていてくれたみたいで」

 思い出しているのか、伊野村は遠くを見ていた。その表情はどこか柔らかかった。

「センダー……稲森湊斗は、以前、意識を受け取る側だったんですよね? それで研究所にいた。その間、接触できたのは伊野村さんだけだったと伺いましたが」

「ええ、部屋の行き来や、食事を届けたり、カウンセリングなどは私が担当していました」

「伊野村さんだけだったのは、どうしてなんでしょう?」

「それに関しては、私にもわかりません。訊いたこともないですしね。訊いてもおそらく教えてもらえなかったでしょう」

 研究に係るセレクトは、すべて篠崎が担っていたという。当時、まだ大学院を出て間もない頃だろうに、ずいぶん重い仕事を任されていたものだと、何に感心したらいいのかわからず、愛想笑いを返した。

「それで、稲森湊斗に会ってどうされたんです?」

「話が聞きたいということでしたので、私が話せる範囲で研究のことを話しました」伊野村は目を伏せた。「だってね、研究に協力してくれている人に、その内容を説明しないのはおかしいじゃないですか。理解してもらった上で、協力するかどうか決めてもらうべきだと、私は思うんです」

 表情は暗いが、言葉には重みがあった。声も抑えてはいるが、熱を感じた。

 話を聞きながら、壮亮は思った。伊野村が研究所を辞めた理由——噂になっていた理由は正しいのではないか。

 ——研究内容を外部に漏らしたらしい。

 そして、その漏らした相手が誰なのかも想像がつく。

「伊野村さんは、最近、稲森湊斗のお兄さんにも会われたんじゃないですか?」

 伊野村は目を見開いた。「ええ、会いました。彼は私に会いに来たようでした」

「彼にも研究について話されましたか?」

「ええ。彼もまた湊斗くんと同じく、自分が関わっている研究のことを知りたがっていました。当然のことです。そして話を聞くのは、当然の権利です」

 伊野村は、センダーの兄にも研究のことを話したという。悪びれるような雰囲気はなかった。

「話したのは研究のことだけですか?」

「陽翔くんは、湊斗くんについても訊きました。彼が今どうしているのか、ということから、今後どうなるのかということまで」

「伊野村さんが芝浦陽翔に会ったとき、研究はどこまで進んでいたんですか?」

 伊野村は少し考えてから答えた。「意識共有の装置が完成し、次の段階に進められるというところまで行っていました。被験者も決まっていた。私はその詳細については知りませんけど」

「じゃあ、彼には、引き続きセンダーとして研究に携わってもらうことを話しましたか?」

 伊野村は頷いた。汗をかいているように見えたが、気に留めなかった。

「伊野村さんは、機械開発を進める段階で、この研究がうまくいっていたと思いますか?」

 装置をつくっている段階で、おかしなところはなかったのか。無理はなかったのか。壮亮はずっと心に秘めていた疑問をぶつけた。

「どうでしょう。今となっては、わからないとしか言いようがありません。ただ、湊斗くんは、私の顔色を窺っているようにも見えました。私の業務にはカウンセリングなども含まれていたと言いましたが、見たものを訊いたり、感じたことを話してもらっていました。最初はもちろん、湊斗くんが感じたままの答えが返ってきていました。共有が進んでも、初めの頃は何も変わらなかったんです。回数を重ねてもダメで——どうやら私は、顔に出してしまっていたようなんです。ああ、またダメだったのかと」

 センダーはその表情を見ていたのではないかと、伊野村はいう。変化は突然現れた。あるときから急に、当時のセンダーのような性質を見せ始めたという。

「学力のテストも行っていたんです。陽翔くんは文系が得意でしたが、湊斗くんは理数の方が好きなのか、そちらの科目の方が、いつもいい点数を取っていました。実際、彼もそう言っていましたしね」

 ところが、ここでも伊野村はをした。それ以来、急に文系科目の点数が伸びたのだという。今まで難なくこなしていたように見えた理数科目は、みるみる悪くなったのだと。

「それだけではありません。いろいろなものを見てもらい、どう感じたのか確認する試験があったのですが、答えたあとに私がホッとする様を見て、安心していたように思います。最初は気づきませんでしたが、肩の力が抜けているのを見たことがあります」

「他の人たちは気づかなかったのでしょうか?」

「チーム内には、そのままの結果を伝えていました。みな喜んでいたので、なんだか言い出しにくくなってしまって」

 伊野村は身体を縮こませた。隠していたことは、彼の後悔のひとつなのだろう。

「でも、篠崎さんは気づいていたと思います」

 その言葉には何の確証もない。だが、壮亮も篠崎なら気づいているだろうと思った。気づいていないわけがない。

 にも関わらず、研究を続行してしまったしわ寄せが、今まさに目の前まで来ている。

「芝浦陽翔の意識は、稲森湊斗に共有はされていたんですよね?」

「湊斗くんが話していることには、具体性がありました。作り話にしてはできすぎている。小学生の頃から研究所にいて、世間を知らないはずなのに、湊斗くんは小学生では知り得ないことまで知っていた。何より、陽翔くんが通っている高校や大学、就職先まで知っていましたからね。間違いないです」

「となると、稲森湊斗の中に芝浦陽翔の意識は存在している、と考えても差し支えないでしょうか?」

「それは、少なからずあると思います。でも、完全に陽翔くんに寄るには、双子の特性が邪魔をしたんだと、私は考えています」

「双子の特性ですか」

「はい。湊斗くんと陽翔くんは、一卵性双生児として生まれています。一緒にいた時間はさほど長くはありませんでしたが、その期間に、同じ顔、同じ年齢だという理由で、間違えられることも多かったでしょう。実の親でも間違えることもあると聞きます。その中で、お互いだけは、お互いを間違えることはありません。当然ですよね、別の人間なのですから。別の個という感覚を強く持っているんです。しかし、それとは相反して、同じ個という感覚も持ち合わせている。他人からは理解されない、できない。双子にしかわからない感覚です。だから、湊斗さんは陽翔さんの意識を受け入れられる反面、それは自分であり、自分ではないと感じていた。そういう意味では、拒絶していたんだと思います」

「では、まったく関係のない、赤の他人を相手に共有された場合はどうなるのでしょう? 芝浦陽翔の意識がわずかでも存在した状態で、その意識が他の人に移ったとしたら、移行した意識は二つ存在すると思いますか?」

 伊野村は考えていた。口を開く前に、一度頷いた。「理論上の話でしたら、可能だと言えるでしょう」

 予想通りの答えだった。こう答えるしかないこともわかっていた。

 駒田の説が、より濃くなる。

「他に、芝浦陽翔に話したことはありませんか?」

 不意に、伊野村の表情に翳ができた。

「陽翔くんは、自分を責めているようでした」

「責める? 何をでしょう?」

「陽翔くんは知らなかったんです。自分が研究に携わっていることを。もちろん、湊斗くんのことも。二人が研究の被験者になったのは、彼らが小学生の頃です。しかも低学年。記憶も曖昧でしょう。そして、その頃に両親が離婚して、必然的に兄弟は離れ離れになる。湊斗くんとはそれっきりで、どこにいるのかも聞かされていなかったんだと思います。ずっと研究所で暮らしていると話したら、それはそれは驚いていましたから。そして、悲しそうでもあった」

 伊野村は口を閉ざした。壮亮も黙っていた。

 しばらくして、伊野村が小さく話し始めた。

「湊斗くんも、お兄さん——陽翔くんのことを知りたがっていました。やっぱり双子なんだなと思いました」

「稲森湊斗には何と答えたんです?」

「陽翔くんが会いに来て、湊斗くんのことを知りたがっていた、ということを話しました」

「芝浦陽翔は今、行方がわからなくなっているというのはご存知ですか?」

 伊野村は息を呑んだ。知っているようだ。そして、その原因についても何か思い当たることがあるのだろう。

 壮亮は黙っていた。伊野村が口を開くのを待つ。

「先ほども申しましたように、今後の研究について話したとき、センダーは今のまま陽翔くんになることを伝えました。湊斗くんは変わらず研究所で暮らすことになると。陽翔くんは黙って聞いていましたが、最後にこんなことを訊いたんです。『もし自分が何らかの理由で意識が供給できなくなったとしたら、どうなりますか?』と」

「どうしてそんなことを?」

「わかりません。私も、笑い話にもならないと言ったんです。そしたら、たとえばの話だと笑っていました。そのあと、私は何も答えませんでしたが、陽翔くんは追及することなく、帰って行かれました。その背中が何かを物語っているようで、怖くなって、『変なことを考えないように』と言ったんです。陽翔くんはやはり笑っていましたが、湊斗くんが研究所を出られたということは、その……」

 壮亮は頷きながらも、伊野村に言葉を返さなかった。

 センダーが研究所を出られたのは、偶然ではない。センダーの兄によってつくられた必然だ。

 彼は身を挺して、弟を外に出そうとしたのではないか。自分がいなくなれば、彼が外に出られると思ったから——

 だから、山へ行ったのか? 山で事故に遭ったのは、果たして偶然なのか。

 壮亮は、やつれた状態で山に入っていく彼を想像した。どんな気持ちだったのだろうかと、いくら考えても、推し量ることはできない。

 何かの音がして、壮亮の思考は止まった。音の正体が電話だと気づくのと同時に、スマホが鳴っているのだとわかった。伊野村がどうぞと勧めたので、断りを入れてから離席しようとした。が、立ち上がったままの状態で、壮亮は動きを止めた。

「もう一度いいですか?」

「センダーが刺されました。刺した相手は、レシーバーです」

 スマホが手からこぼれそうになる。壮亮は口を開けたまま固まっていた。電話の声が聞こえたのか、伊野村もまた目を見開いていた。

 再びまわりの声が聞こえるようになると、壮亮は真っ先に今日のモニターは誰なのか問いただしたくなった。何を見ていたのだと。なぜ気づかなかったのかと。

 責める一方で、そんなことをしても意味はないこともわかっていた。気づいたところで、止められなかっただろう。間に合うはずがない。

 センダーは無事なのか。聞けば、容体などの状況は何もつかめていないという。

 壮亮は自分のことも責めた。そんなこともまた、意味をなさないということもわかっていた。

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