4-11 「声」
山に行った日から、声が聞こえるようになった。道を歩いているとき、食材を買いにスーパーへ行ったとき、頻度は多くないが仕事中にも聞こえた。それだけなら、まわりに人がいるので、誰かが話しているのだろうと思えたが、家に一人でいても聞こえてきた。とうとうおかしくなったのだと思った。来るところまで来てしまったのかと。
声は、昴に話しかけているようだった。独り言のようにも聞こえたが、昴の行動に連なって喋っているようで、気味が悪かった。
「あなたは誰ですか」
意を決して訊いてみた。昴よりもほんの少し濁った声で、「お前こそ誰だ」と返ってきた。
名乗ることに抵抗を感じ、質問を変えた。
「あなたはどこにいるんですか」
——お前と同じところだ。
「同じ? この家にいるということですか?」
恐怖を忘れ、昴は家の中に人がいないか確認した。隠れられる場所は限られており、押入れ、風呂、トイレを見てまわればことはすむ。誰もいなかった。人けも感じないので、当然だ。
何より、家以外で聞こえてくる声は同じものだった。となる、同じところにいるというのは、おかしな話だ。
——お前は記憶喪失なのか?
「記憶喪失? 身に覚えはないですが」
眠っている間に何かしているということはあるかもしれないが、意識のあるうちに起きたことは記憶に残っている。
——お前と話すのは疲れる。何でもいい、早く出ていってくれないか。これは俺の身体なんだ。それなのに、お前が起きてると、自由に身体を動かせないんだよ。忌々しいことに。
「俺の身体っていうのはどういうことですか? 僕の身体のことを言ってるんでしょうか」
——それがもとは俺の身体だって言ってるんだよ。顔はちょっと違ってるけど、手なんかは俺のだ。何度も、何年も見てきたんだ。間違えるわけがない。
「声」はさらに言葉を連ねた。時折、暴言のような言葉もあった。その度に耳を塞ぎたくなるが、そうしたところで、声はなくならなかった。内側から聞こえているのだ。昴がどうしようと、声は消せない。
しかし、声の言うことも理解できないではなかった。確かに、昴自身、最初にこの顔を見たときから違和感は感じていた。違和感の正体はわからない。今でもはっきりしない。
だが、あの山へ赴き、そこにいた人物を見た瞬間、これだ、と思った。目の前にいる人物が、本来の自分の姿だと確信を持った。だからこそ、あんな珍妙な動きをしてしまったわけだが、その理由もわからずじまいだった。
——なんで俺の身体なのに、お前が主導権を握ってるんだ? おかげで自由に動けないわ、邪魔されるわで、迷惑してるんだけど。
「僕に言われても、どうにもできないと言いますか」
——お前にはお前の身体があるんだろ? そう言ってたじゃないか。
「確かに言いましたけど、でもだからってどうにもできないじゃないですか。僕だって、できることならこの身体から離れたいですよ」
こんな、知らぬ間に血まみれになっている身体なんて——
「そもそも、どうして僕が言っていたって知ってるんですか?」
——そんなの聞いてたからに決まってるだろ。そんなこともわからないのか。
鼻につく物言いが続く。
——あの辺鄙なところで会ったのが、本当のお前なんじゃないのか?
「それはわかりません。ただ、腑に落ちただけです」
——じゃあ、そうなんだろうよ。お前はお前で、別の誰かに身体を乗っ取られたんだ。
「乗っ取られてる? そんなことがあるでしょうか?」
——事実、お前は俺の身体を乗っ取ってるじゃないか。
考えてから、そうなのかもしれないと頷く。
——身体、返してもらいたくないか?
「もし、本当に乗っ取られているんだとして、返してもらえるなら、それは願ったり叶ったりですけど……そんなことできるんでしょうか?」
——奪えばいいんだよ。
「奪う?」
——ああ。奪うってのは言葉が悪いか。奪われたのは、お前の方だからな。じゃあ、何だ。ああ、そうだ。返してもらえばいい。
昴の身体を返してもらうのに、「声」が協力してくれるという。昴がこの身体からいなくなれば、「声」にとっても都合がいいのだから、そのくらいは尽力しようというのだ。
しかし、昴にはその方法がわからなかった。
——お前は、お前の身体がどこにあるのか探してくれるだけでいい。
「探す? でも、何の手がかりもありませんよ」
——何もないってことはないだろ。何でこの前は場所がわかったんだ?
「それはよくわかりません」
「声」は苛立っていた。
——何か思い出せることはないのか? ちょっとは頭を使え。
考えて、考えて、ひとつだけ浮かんだことがあった。
「家——家ならわかるかもしれません」
——家? それはどこだ?
「うーん、見た目とかは何となく浮かんでるんですけど、場所までは……あ、いや、駅名ならわかります。そこからなら、歩いていればたどり着けるかもしれません」
——行き当たりばったりだな。だが、仕方ない。それで行くしかない。
決行は、週末に決まった。
昴の心の内が安堵していた頃、人知れずほくそ笑む男がいた。
こんなに単純だと、逆に心配になるな——と、心にもないことを思う。
「声」は、身体の内側に存在した。最初は昴が眠っている間だけ出てこられたが、最近になって、声だけは昴が起きている間も出せるようになっていた。
「声」は、この身体を自分のものだと言い張っており、昴が起きている間、自由が効かないことに苛立っていた。自分の身体なのに、と。
なぜこんなことになっているのかと、考えた。おそらく、死刑が執行されると思っていたあのときに、自分の身に何かが起きたのだろう。ただ、そのときの記憶が曖昧だった。
車に乗せられたらしいことまでは覚えている。そのあと眠ってしまい、一度目を覚ましたようにも思うが、いくら探っても何も思い出せなかった。
意味のわからない、おかしな身体にされたことに、不満はあった。と同時に、もう一度表の世界に放り出してくれたことに、感謝の気持ちもあった。おかげで、またあの感触を味わうことができた。
人間の欲は深く、あと一度だけ——そう思っていても、また次、次こそ最後、最後にもう一度——その繰り返しで、際限がない。「声」もまたそうだった。
ただし、「声」には制限があった。自由に身体を動かせないがために、自由に欲を満たすことができないのだ。フラストレーションは溜まる一方だった。
それでも以前よりは、身体を動かせる時間が増えている感覚もあった。切り替わるきっかけもつかみかけていた。あと少しで、所有時間が逆転するのではないかという期待もあった。
だが、保証はない。何より、自分だけの身体に戻るのなら、それに越したことはない。
そこで「声」は考えた。どうすれば、身体がもとに戻るのか。自由を手に入れるためには、どうすればいいのか。
考えた末、ひとつの結論にたどり着いた。身体が消えれば、中の人間も消えるのではないか。
根拠はないが、自信はあった。これしかないとさえ思えた。
昴に身体を返す手助けをするなどと持ちかけたのは、昴のためなどではなかった。身体の居場所を知るために、利用したにすぎない。結局、「声」は自分のことしか考えていなかった。
昴の顔に、薄気味の悪い笑みが浮かぶ。
「どうせなら、最後に、お前の鼓動を味合わせてやるよ」
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