第四章 選択
4-1 最後に見た場所
スマホを前に、湊斗は正座をしていた。
画面には、新の連絡先が表示されている。あとひとつボタンを押せば、すぐに電話をかけられる状態だった。
しかし、一向にその先へは進まなかった。進めなかった。
湊斗は悩んでいた。陽翔を最後に見た場所に行きたいが、湊斗だけではどうしようもなかった。調べてみたが、特徴のない場所に、限界はすぐに訪れた。
相談できる相手は新しかいない。が、本当に新に話しても大丈夫だろうか。一度疑念が生じてしまうと、すべてが怪しく思えた。相談したい、信じていいのか——そんなことをぐるぐると考えていた。
スマホを前にしているのが、答えだった。「困ったことがあったら、新に相談するといい」という、陽翔の言葉に従うことにした。
電話はなかなかつながらず、湊斗の決意を削ぎにかかった。切ろうとしたところで、やっと応答した。電話口は騒がしかった。外にいるのだろうか。
「どうした?」
「緒方さん、今大丈夫ですか? ちょっとお話ししたいことがあるんですけど」
新は何か言ったようだが、聞き取れなかった。まわりの音だけが伝わってきていたが、しばらくすると静かになった。
「今ちょっと出先で、もうすぐ身体あくんだけど」
「できれば直接会ってお話ししたいのですが」
新の都合に合わせるというと、それなら、最初に会ったときに行った喫茶店はどうかと訊いた。湊斗は承諾した。
通話が終了すると、湊斗はすぐに外出の準備に取りかかった。と言っても、服は着替えているので、かばんの中身を確認するぐらいだが。着ているものを見下ろして、相変わらずモノクロだなと笑う。一度、新が服を選んでくれると言ってくれたが、丁重に断りを入れた。あの柄物のシャツを着こなす勇気はない。
喫茶店には、湊斗の方が先についた。あとから新がやってくると伝えると、マスターはいつものようにソファ席に案内してくれた。
朝方はずいぶん涼しくなったが、日中はまだ暑い。汗もじんわりと滲んでいる。
湊斗はアイスコーヒーを注文すると、かばんから本を出した。
アイスコーヒー半分、本は三分の一ほど進んだところで、新がやってきた。仕事だったのか、白シャツにスラックス姿だ。長袖を暑そうに捲り、マスターから水をもらっていた。
「飯食べていいか。昼まだなんだよ」
「そうかなと思って、僕も抜いてきました。と言いつつ、本当はマスターのナポリタンが食べたかっただけなんですけど」
ニヤリと笑うと、新も同じものを返した。「俺もナポリタンにするかな。あ、でも今日白シャツだ」
おしぼりを持ってきたマスターが、スタイをお持ちしますよ、と言った。昼食のメニューが決定した。
「それで話って?」
ナポリタンが運ばれ、一口食べるや否や、新が訊いた。湊斗は口元まで持って行っていたフォークを下ろす。
「行ってみたい場所があるんです。僕だけじゃ、それがどこかわからなくて。ただ」一度言葉を切った。「目印になるようなものが少ないので、特定できるかどうか」
「共有か?」
訊かれている意味がわからず、返答するまでに間があった。湊斗はフォークを置いて頷いた。
「すみません、任せろと言われていたのに、勝手なことをして。兄の居場所は、緒方さんに頼っています。頼りたいです。ただ、最後に兄を見た場所に行ってみたいんです」
半分嘘で、半分は本当。おかげで、つまらずに話すことができた。
「最後に見た場所?」
湊斗は、記憶をたどって思い出した陽翔の姿について話した。新は黙って聞いていたが、最後まで聞き終えると、悲しそうな、それでいて驚いたような表情を浮かべていた。かなり微細な変化だったが、湊斗には伝わった。
最後の一口を頬張ると、新は水を飲んで流し込んだ。
「いつがいい?」
「え?」
何とも間抜けな声が出た。またしても、新の言葉の意味を汲み取ることができなかった。
「連れてってやるよ。で、いつなら行ける?」
「場所をご存知なんですか?」
「いつがいい?」
それしか言えなくなったかのように、新は同じ言葉を繰り返した。湊斗の質問に答えるつもりはないらしい。
「僕はいつでも大丈夫です」
「じゃあ、明後日でもいいか? 明日は仕事でちょっと時間取れそうにないから」
湊斗は頷いて応じた。忙しいだろうに、何度も頼って申し訳ない。
約束の日当日には、新が車で迎えに来た。愛車だという車は、こぢんまりとしていた。四人乗りだと聞いて、驚くほどのコンパクトカーだ。持ち主が身につけている柄シャツとは反対に、アイボリー系のカラーと、シンプルなものだった。
車に乗るのは初めてだというと、天然記念物でも見るかのような目で湊斗を見た。そして笑った。湊斗も笑った。
乗り込むと、シートベルトの締め方から習う。ここでも新は堪えきれずに笑っていた。
呑気な空気のまま進んでいくかと思われたドライブは、一転、静かなものだった。二人の間に会話はなく、車内に流れている名前も知らない洋楽だけが音を奏でている。それでもやはり、気まずさは感じなかった。
国道を離れ、車の数はどんどん減っていく。そのうち歩道もなくなった。
現在地がどのあたりなのかはわからないが、陽翔の家からは近くはないように思った。駅も見かけない。陽翔はどうやってここに来たのだろう。
湊斗の家を出てから、一時間半ほど走っただろうか。車はとある駐車場で止まった。
「ここからは歩きだ」
扉を開けた新に続き、湊斗も車を降りた。目の前には山が広がっていた。駐車場も、一応形をなしてはいるが、土の上にロープを張り、場所を区切っているだけだった。
山道を歩く心積りはしてきたので、格好もそれなりに動きやすいものを選んだ。登山用の靴を持ち合わせていないので、靴はいつものスニーカー。
見ると、新も長ズボンを履いていた。靴もサンダルではなく、スニーカーだ。
新の後ろをついていく。新は懐中電灯のようなものを持っていた。まだ日は高く、こんなに明るいというのに。
だが、理由はすぐにわかった。山の入り口に立った途端、その先にあるものは暗闇だった。
入り口といっても、登山用の山ではないため、明確な入り口があるわけではない。看板も立っていない。それでも、この山に入る人たちはここから入っているのであろう、人が踏み込んだ跡が残っていた。獣道のような道が続いている。
見覚えがあった。最後に陽翔を見たのは、確かにここだ。
「どうして緒方さんはこの場所を知っていたんですか? 兄と来たことがあったとか?」
新は答えなかった。黙ったまま、山道に足を踏み入れる。
不意に見えた新の顔に、汗が滲んでいるような気がした。心なしか顔色も悪いように見える。体調が悪いのだろうか。だから、静かだったのかもしれない。
もし本当に体調が悪いなら、日を改めることもできる。もしくは、新には車で待っていてもらい、湊斗一人で山に入ってもいい。
声をかけても、新から返事は得られなかった。戸惑いながらも、新のあとを追った。
奥に進むにつれ、あたりは暗くなっていった。新が懐中電灯をつける。明かりが必要なほどの暗闇ではなかったが、念には念を、ということなのだろう。
歩いているうちに、記憶はどんどん鮮明になっていった。確かにこの場所だ。
陽翔は、湊斗たちほど軽快には歩いていなかった。どちらかというと、ふらふらと、今すぐにでも倒れそうな足取りだった。
なぜ陽翔はこんなところに来たのか。ここに何かあるのだろうか。
新に訊ねようとして、やめた。訊いたところで、答えてはくれないだろう。
木々がざわめく。ガサガサとどこからともなく音がなり、その度に湊斗は肩を跳ねさせた。
急に不安に駆られた。まわりには人っこ一人いない。
今すぐ回れ右をし、来た道を戻りたくなった。けれど、振り返ることすら怖かった。後ろには明かりなどない。暗闇が広がっているだけだ。
前には懐中電灯を持ち、迷いなく進んでいく新。なぜこんな山道を戸惑いもなく進んでいけるのかわからない。来たことがあるのだろうか。陽翔がここを訪れた際に、新も一緒だったのだろうか。しかし、湊斗の記憶では、陽翔は一人だった。二人で登山を楽しんだというわけではなさそうだ。
湊斗は同じ速度で歩いていた。一度でも速度を緩めてしまったら、もうどこにも行けないような気がした。
この道はどこまで続いているのだろう。どこまで進むのだろう。
湊斗の記憶は途中で途切れていた。この山に入っていった陽翔が、その後どこまで行ったのか、どうなったのか、下山したのかどうかは知らなかった。
「緒方さん」たまらず声をかけた。新は止まらない。
「どこまで行くんですか? あんまり奥まで行くと戻れなくなるんじゃ」
そのとき、背後から物音が聞こえた。鳥が飛び立つ音でも、木々が風に揺れる音でもない。
反射的に湊斗は後ろを振り返った。しかし、そこには何もない。何もいない。暗闇が広がっているだけ。
思った以上に暗かった。本当に帰り道がわからなくなりそうだった。
湊斗は前に向き直ろうとした。直後、頭に鈍痛のような痛みが走る。これまでにも何度か頭痛が生じたことはあったが、比ではなかった。まるで何かに殴られたような痛みだった。
声は出せなかった。立っているのも辛く、支えを求めてふらふらとあたりを探った。だが、思った以上に道幅は狭かった。踏み出した右足は、宙に浮いていた。何が起こったかわからないまま、左足を踏ん張ることもできず、湊斗の身体は山の斜面へと投げ出された。意識を失う前に最後に見えたのは、新の顔だった。
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