3-9 赤

 身に覚えのない血汚れがTシャツについていたことに気づいてから、そういうことが何度か続いた。量に差こそあれ、いずれも飛び散るようについていた。どれもやはり身に覚えはなかった。

 相変わらず怪我をしている様子はなく、何かの拍子に誰かの血がついてしまったのかもしれないと考えた。血だという確信はあるが、間違っている可能性もある。

 ただ、そう呑気に考えていられる時間は長くはなかった。

 ある日、またしても知らぬうちに気を失っていたかと思うと、昴の手は真っ赤に染まっていた。両方の手のひらに、肌の色が見えないほどべったりと血がついていたのだ。大変だ、大怪我をしていると、慌てて台所へと走る。赤いものをすべて洗い流しても、そこに傷はなかった。

 洗い落としてから落ち着いてみると、怪我をしていた場合、洗い流すのは危険だったことに気づく。しばらく血は止まらなかっただろう。

 そんな奇妙な出来事もまた、一度で終わらなかった。毎日ではないが、数日おきに、両手を赤く染めていた。

 昴は恐ろしくなった。頭がおかしくなりそうだった。

 しかし結局、病院には行けずにいた。病院の前までは足を運んだのだが、どういうわけか中に入ることはできなかった。病院側に拒否されたわけではない。足に根が生えたかのように、動けなくなってしまうのだ。

 怪我をしているわけではないのに、大量の血がついているというのは、どういう状況だろう。服についていた血痕もそうだ。それも一度や二度ではない。

 昴は考え、すぐに思考を停止した。いっそ、大きな傷のひとつでもあればいいのに、と思った。

 すっかり日は暮れていたのに、お腹は空いていなかった。それでも喉は渇いていたので、お茶でも飲もうかと冷蔵庫を開けた。

 さほどものが入っていない冷蔵庫は、一目で様相が違っていることに気づいた。あまりの衝撃に、一瞬そこに何が入っているのか理解できなかった。いや、入っているものよりも、最初に目に飛び込んできたのは色だ。

 内部を照らす明かりのオレンジ、内装の白ではなく、視界に入ってきたのは赤だった。しばらく視界に入れることすら疎ましい赤色。庫内が真っ赤に染まっていた。

 無意識のうちに、昴は冷蔵庫の扉を閉めていた。信じられない光景に、その場で何度も瞬きをする。

 冷蔵庫の表面は白だ。間違いなく白で、目もきちんとその色を認識している。冷蔵庫から目を離し、電子レンジに移動させた。全体の色はこちらも白だが、扉部分、中を覗けるようになっている部分は黒だ。黒もわかる。他にも、手拭きにしているタオルがあった。タオルはもらいもので、薄い緑色の生地に黒い文字で企業の名前が刻まれている。どちらも色を認識することができた。視覚は異常を起こしてはいないようだ。

 昴は再び冷蔵庫を開けようとした。開けようとして、手が止まる。先ほどは気づかなかったが、冷蔵庫を開ける部分——少しへこんでいて、手をかけやすくなっている部分に、赤い跡が残っている。指紋の形のように渦巻いていた。

 ティッシュを取り、力を入れて拭いた。しかし、固まっているのか、赤い跡は残ったままだ。

 ティッシュに水を含ませ、再度挑戦すると、今度は成功した。拭き取ったティッシュを鼻の近くに寄せると、微かに鉄の匂いがした。嫌な予感がした。

 震える手で扉を開ける。恐る恐る覗き込む庫内は、やはり赤く染まっていた。見間違いではなかった。

 恐ろしい光景はそれだけではなかった。冷蔵庫の中に赤が広がっているだけでなく、そこには通常、冷蔵庫には入っていないものが置かれていた。包丁だ。包丁もまた赤い色を纏っていた。刃先から持ち手の部分まで、赤が広がっている。

 冷蔵庫内に赤を持ち込んだ元凶がその包丁だとわかるまで、しばし時間を要した。

 冷蔵庫の扉を閉じ、再び開ける。何度か繰り返した。開閉の際はへこんでいる部分ではなく、下の角を利用した。包丁は変わらず、赤い色を全体に染めつけて存在した。

 昴は冷蔵庫を背に、テーブルまで向かった。力が抜けたように腰を下ろし、自分に問う。

 あの包丁はなんだ? それにあの赤いものは……あれは、おそらく血だ。また、血だ。何だというのか。どうして血がついている包丁が冷蔵庫の中にあるのだろうか。

 冷蔵庫が赤を纏っているのは、あの包丁のせいだろう。手のひらが血まみれだったのもそのせいか。手のひらが赤く染まっていたことを思い出し、冷蔵庫のに赤がついていた理由が呑み込めた。開けたときについたのだろう。

 昴は、いやに冷静に分析していた。しかし、冷蔵庫が赤く染まっている原因についてわかっても、包丁がなぜ冷蔵庫の中に入っているのかまでは、理解が及ばない。そこに血がついていることも。

 昴は立ち上がると、再び台所へと歩いていった。流しの下の棚を開け、側面についている包丁差しを見た。この家には、包丁はひとつしかない。その包丁は確かにそこにあった。取り出して見てみても、見慣れたもので間違いない。

 では、冷蔵庫に入っている包丁は一体どこからやってきたのか。

 包丁が赤く染まっていることも、その包丁がどこからやってきたのかも、冷蔵庫に入れた記憶もない昴は、誰かが家に入り込んだことを疑った。しかし、完全に疑いきれないのは、ところどころ記憶が抜け落ちていることがあるからだった。自分がやっていないとは言い切れない。確信はないが、確認しようもない。

 血がついた包丁。そして、服に飛び散った血。血まみれの手。

 まさか、魚や肉を捌いているわけでもあるまい。畜肉も魚も捌いたことはないのでわからないが、魚であればマグロなど、大きなものでない限り、服に飛び散ったり、手のひらの肌の色が埋め尽くされるほど血は出ないだろう。何より、がない。腹の中に入っているとして、満腹感は感じられない。

 では、他に考えられることは——

 昴は右手で反対側の腕をさすった。鳥肌が立っていた。

 警察に相談すべきだろうか。考えてすぐに打ち消す。それだけは嫌だ。

 次に考えたのは、包丁をどうするかだった。このまま冷蔵庫に入れておくわけにもいかないし、処分するにしても、人目につかない方がいい。家の中に隠すか、外に捨てるか。

 外に捨てるとなった場合、場所を考えなければいけない。ゴミとして捨てるのはリスクがある。

 場所が決まったところで、外に持ち出すにはリスクが生じる。かなり高いリスクだ。職務質問されたら、その時点でアウトだ。

 そうなると、家に置いておく方が安全か。しかし、目につくところにあるのは落ち着かない。

 昴はタオルを持ち、冷蔵庫を開けた。触るのもおぞましかったが、タオル越しにそれを取り出すと、丁寧に巻きつけた。その上からチラシをかぶせ、封筒に入れる。封筒が見えなくなるまでガムテープを巻くと、その辺に放置していた靴の箱に入れ、押し入れの奥の方へとしまった。いや、と思い直す。箱を取り出すと、封筒の上に不要なチラシ類をのせて、箱のふたを閉めた。さらにガムテープを重ねてから奥へと追いやった。

 何度か深呼吸をした。鳥肌はずっと肌の上にあった。

 息を吐く代わりにため息をつくと、怯えながらも、冷蔵庫の清掃に取りかかった。

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