3-8 再びの来訪
ケトルのお湯が沸いたタイミングと同じく、トースターも音を立てて、焼き上がりを知らせる。
パンはそのままにケトルを取ると、準備しておいたドリップコーヒーにお湯を注ぐ。ケトルの口から出てくるお湯は太く、専用の機材を買おうかどうか、コーヒーを淹れる度に思う。
半分に切ったベーグルに、クリームチーズを塗る。少し多めにつけた方がおいしいと知ってからは、全体に塗ったあと、さらにひとすくいチーズを塗るようにしていた。
伊野村と会って以来、新には会っていなかった。連絡を取ったのも一度だけ。そのときに、こちらから連絡すると新が言ったので、その連絡とやらを待っていた。もうすでに一週間は経っている。
その間、湊斗は伊野村から聞いた話を思い返していた。これまでの、そして現在行われている研究。陽翔のこと。伊野村の懸念。
回想を終え、真っ先に考えたのは陽翔のことだった。陽翔は今どこにいるのだろうか。
陽翔が伊野村に言った言葉も気になっていた。自分に何かあったら——という意味深な言葉。陽翔の行方がわからなくなっているということと、湊斗が研究所を出られている状況、そして伊野村の顔色が悪くなっていたことが、すべてを物語っているようにも思えた。湊斗もまた、最悪な状況を想像する。
一蹴するように首を振った。憶測で決めつけるのはやめよう。
何かできることはないかと考え、最後に陽翔を見たときのことをもう一度思い出そうとした。前に思い出そうとしたときよりも、情報は増えている。今ならうまくいくのではないかという予感があった。
頭に浮かんだ陽翔の姿は、いつもの笑顔ではなかった。心なしかやつれているようにも見える。
陽翔は歩いていた。覚束ない足取りで、すぐにつまづいてしまいそうなほどすり足で、歩道を歩いている。時々よろけては、電柱にぶつかりそうになっていた。
見たことのない道だった。どこに向かおうとしているのか、さらに記憶をたどろうとしたところで、頭に激痛が走った。壁に手をつき、身体を支える。痛みはそれほど長くは続かなかった。
朝食を手に、リビングのテーブルへと向かう。テレビの電源を入れながら、メモ用紙をとる。先ほど見た陽翔の様子について、まとめておくことにした。そこでふと、引っかかりを感じた。気になったのは、新のことだ。新は、陽翔を探そうとしていないように思えた。連絡が取れないとは言っていたが、どこに行ったのか、真剣に探していないように感じた。心配している様子もさほど見られない。湊斗の今後については色々考えてくれたり、親身になってくれているのに、陽翔のことには触れることが少ない。
本当は、陽翔と知り合いではない可能性を考える。しかし、それはないと、すぐに否定した。陽翔との共有で新を見たことがあるので、その説はないだろう。
次に、研究所の人間ではないかと疑う。湊斗のことを見張っているのかもしれない。だが、伊野村とは初対面のようだったので、それはないだろう。口裏を合わせている可能性もあるが、伊野村のあの様子からしてかなり薄い。研究のことも、研究所のこともまったく知らない様子だったことも、説が弱い理由となった。
湊斗はベーグルにかじりついた。サクッとした食感のあとに、クリームチーズの風味が口の中に広がる。おいしさは変わらない。そう感じられることに、何だか罪悪感のようなものが心に浮かんだ。
食器を洗い終え、図書館に行こうと、かばんを取ったタイミングでチャイムが鳴った。来訪者はこれまでに一人しかいない。新だ。
モニターに映っている人物も、やはりその人だった。ずいぶん久しぶりに感じる。ただ、少し気まずさを覚えたのは、先ほど考えていたことが原因だろう。
「よお」第一声は、いつもと変わらない陽気さだった。「どっか出かける予定だったか?」
手土産を受け取りつつ、特に予定があったわけではないと伝える。
新はソファに腰かけた。朝食は食べたのかと訊くと、軽く頷いた。手土産は十時のおやつとのこと。今回はプリンだった。ホイップクリームが上に載っている。
今まで何してたんですか——そう訊こうとして、呑み込んだ。代わりに「いつも突然やってきますね」と言っておいた。
「サプライズは必要だろう」
「よくわからないサプライズですね」
新は笑っていた。何が面白いのかはわからなかった。
例に漏れず、土産のプリンを出すと、新はすぐに手をつけた。食べることに集中しているのか、何も言わない。
湊斗の方が痺れを切らし、口を開いた。
「さっき、兄のことを考えていたんです。伊野村さんから聞いた話も思い出しながら、兄を最後に見たときのことを思い出そうとしていたんですけど」
頭痛がして断念したのだと、湊斗は苦笑した。
「頭痛の原因はわからずじまいだったな。今日は気圧も低くないだろうし。病気じゃないといいけどな」
「病院に行って、脳の検査をしてもらうべきでしょうか。あ、でもその場合、埋め込まれているものの説明はどうすればいいんでしょうね」
「難しい相談だな」新は眉をしかめた。「他に考えられることはないのか? こういうときに痛くなることが多いとか」
訊かれて考えてみる。最初は、父のことを思い出しているときに痛くなっていると思い至った。しかし、先ほど父のことは考えていない。その前も、顔すら思い浮かべていない。
「兄のことを考えているときかもしれません」自信はなく、小声になった。
「でも、ちょっと痛みが違うのかな。さっきは、何かに殴られたような痛みだったような」
喋りながら考えていると、何を話しているのかも、何をどう考えていいのかもわからなくなった。違う意味で、頭が痛くなりそうだった。
新がリモコンに手を伸ばし、テレビの音量を下げた。テレビをつけっぱなしにしていたことを忘れていた。
「すみません、消してもらって大丈夫です」
しかし、新は消さなかった。むしろ、テレビ画面に釘付けになっている。
テレビでは、ニュースを伝えていた。殺人事件があったらしい。場所はわりと近くだった。
事件は夜中に起きた。帰宅中の女性が、後ろからやってきた何者かに刃物で刺されたというもの。刃物は、心臓に突き刺さっていたという。死因は、出血死だと報道された。
「いつかの事件を思い出しますね」
「模倣犯の仕業でしょうか」
「彼は、拘置所にいるはずですからね」
「それに今回は、どの現場も近接していたんですよね。大量殺人の可能性はないんでしょうか」
話を振られたコメンテーターたちが口々に語る。
ニュースが一通り終わってから、湊斗は新の方を見た。
「模倣犯というのは、どういうことですか? 前にそういう事件があったんですか?」
「ん? ああ、そうか。湊斗は知らないのか。そう、何年か前にな、心臓を刺して殺すっていう連続殺人犯が、世間を騒がせたことがあるんだよ。そいつは捕まって、裁判も終わったはずなんだが。今になって、似せた犯行をするやつもいるんだな」
新は特に何をするでもなく、適当に時間を潰すと、昼前には帰っていった。
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