3-7 雲行き

 日に日に疲労感が増していった。仕事の忙しさはこれまでと変わらないのに、気力も体力も吸われていっているかのようだった。同僚からも心配されたので、気のせいではないだろう。

 原因はわかっていた。TCプロジェクトの件だ。あの計画の雲行きが怪しくなってきていることが、壮亮の頭を抱えさせた。いや、怪しいのは最初からか。

 パンを捨てていたくらいなら、息抜きに実験をしていれば心は落ち着いた。少なくとも、手を動かしている間は余計なことを考えずにすんだ。ケージ交換でマウスを移動させているときに、小さな動物に癒されることもあった。はたから見たら、おかしな光景だということも理解している。

 しかし時間が経つにつれ、悩みは増えていった。解決することもなく、問題はどんどん積み重なっていった。ストレス解消は追いつかなくなった。

 あまりにひどい有様だったのか、篠崎から呼び出しを受けた。五階にある篠崎の部屋に呼びつけられた。この部屋で、篠崎と二人で話をするのは、TCプロジェクトの話を受けたとき以来だ。

 扉をノックする前に、深呼吸した。

 ノックは三回。返事はすぐに返ってきた。

「そちらにおかけください」

 あのときと同じ席を指すと、篠崎はコーヒーの入ったカップを壮亮の前に置いた。

「三好くんの懸念事項は理解しています」

 話は唐突に始まった。篠崎の声には、ひどく同情しているような音が含まれていた。

「性格、性質を書き換えるなんて、無理な話だったんでしょうか」

「書き換える、ですか……」ぽつりと呟くと、篠崎は口を閉じた。

 しばらく沈黙したあと、篠崎が続けた。

「以前、多重人格についてお話ししたのを覚えていますか?」

 壮亮は頷いた。アレルギー試験をしている最中に、篠崎が話していた内容だ。

「では、多重人格の統合について、何か知っていることはありますか?」

「多重人格の統合ですか。少しくらいなら」

 それこそ、篠崎から多重人格の話を聞いてから、多少勉強していた。大学時代に独学で犯罪心理学を学んでいたときに購入していた本の中にも、いくつか含まれていた。積読になっていた。いかに、あの頃の自分の興味が、多重人格に向いていなかったのかということが浮き彫りになった。

 所有している本の中に、多重人格者を治療した精神科医の本もあった。その本で、統合について触れている。

「さすがですね、話が早い。では、三好くんは統合についてどう思いますか?」

「どう思うか、ですか」壮亮は頭を働かせた。「その、そもそもの話なんですけど、統合の場合、主人格というものが重要になってくるかと思うんですけど」

 主人格——もともと、その人が持ち合わせている人格のこと。一番長く表に出ている人格といってもいい。多重人格は、以前篠崎からも説明があったように、主人格とは別にその人の中につくられた新しい人格のことだ。

 多重人格を形成する時期などは多種多様で、幼いときから、いくつもの人格を持っている人もいるという。しかし、幼い時分というのは、そうでなくとも人格の区別が曖昧で、はっきりといつから多重人格が存在しているのか判然としない場合も多いのだとか。

「幼いときに二つ以上の人格を持っていた場合、本来その人が持っている人格、つまり主人格がどれかなんてわかるんでしょうか? 人格のひとつひとつに異なる名前を持つとのことですが、同じ名前の場合もあると、本で読みました。戸籍に登録されている名前と同じ名前を名乗っている場合が」

「ええ、その通りです」

「であれば、同じ名を名乗り、それでもって異なる人格を示す場合、どちらが主人格かは判断がつかないのでは?」

「色々ありますが、ほとんどの場合、主人格ははっきりしています。特徴があるんです。他の人格が出ている間は記憶がない状態となるので、多重人格であることに気づいていないことが多いとか」

 なるほど、と相槌をうつ。とはいえ、完全に納得できたわけではない。

「ええと、すみません。話が脱線してしまいましたが、どうして統合の話を? 今回のことと、統合は違うもののように思うんですけど」

「そうですね。多重の統合の場合、残るのは『主人格』です。しかし、我々の研究においては、主人格——もともとの人格をなくし、新たな人格で上書きして、そちらを残そうとしています」

 壮亮も意図せず話を逸らしたが、篠崎が持ち出した話題もまた、直接的には関係がないように思えた。

「三好くんは当初、人格を消すことは、その人物を消すことと同義だというようなことをおっしゃっていたかと思いますが、統合はどうでしょう。賛成ですか? それとも、あくまでひとつの人格なのだから、消してしまうことに反対ですか?」

 被験者を知ったときに話したことを言っていることはわかったが、ひとまず置いておくことにした。統合の話に集中する。

「僕は本でしか読んだことがなくて、又聞きもいいところなんですけど」

 壮亮は最近読んだ本のことを思い出した。実際に医師が診た症例をもとに、患者と医師の会話文になっている内容が記載されたものだった。

 書かれている内容はとても具体的だった。病院に来た経緯、誰につれてこられたのか、症状は、どんな人格がいて、どんなときに現れて、それぞれの名前について、そしてそのすべての人格と会話した内容が書かれていた。人格の呼び出し方、もとに戻る方法なども簡単ではあるが記載されていた。

「賛成とも反対とも言えるし、言えません」

 曖昧な答えに苦笑していると、篠崎は顔色ひとつ変えずに続きを促した。

「彼らは一人ひとり、意志を持っているように感じました。多重同士で会話をすることもできるみたいだし、何より、主人格を取り巻く環境に応じて現れるわけじゃないですか。一人の人間と変わらない」コーヒーで口の中を潤してから続ける。「僕が読んだ本の中で、荒っぽい性格が副人格として現れた人が出てくるんです。その人は幼い頃、父親から暴力を受けていました。主人格はいつも怯えていた。怯えながら、耐えていた。そんな主人格を守るために現れたのが、その人格でした。主人格は女性でしたが、副人格で現れた人は男性だった。彼は父親の前だけでなく、大人の男性を見て、主人格が怯えたときにも出てくるようになりました。その人格は、口調が荒っぽかったんです。主人格はそのことをよく思ってなかった」

「主人格が統合を拒否したんですね」

 篠崎が先回りして答える。その通りだった。

「主人格はおとなしい性格の人でした。気が弱いというか、荒っぽさは少しもなかった。父親から受けた虐待のせいか、強い口調の人も苦手としていたんです。だから自分の中に、自分が嫌悪しているタイプの人格が存在することが許せなかった。それも自分の一部だということを、受け入れられなかったんです」

 やるせないです、とか細い声が落ちる。

 主人格を守ろうとしてできた人格なのに、実際に守ってくれていたのに、拒絶されるなんてあんまりだと、本を読みながらひとり憤慨していたことを思い出す。とはいえ、壮亮のこんな意見も勝手なものなのだろう。自分が同じ立場になってみなければわからない。想像と現実は違う。

「『泣いた赤鬼』のようですね」

「『泣いた赤鬼』ですか?」壮亮は首を傾げる。「人間と仲良くなりたい赤鬼が、お菓子とかを用意してい招待する準備をしているんだけど、鬼だからという理由で怖がられているっていう」

「そうです。それを友人の青鬼に相談するんです。そしたら、青鬼が手を打ってくれて、人間のところで暴れる。そこに赤鬼が参上し、青鬼を窘める。一発お見舞いするんでしたかね? 赤鬼はすごく怒りました。仲良くしたいと相談していたのに、そんな人間にひどい仕打ちをするなんて、と」

 結果としては、青鬼の行動は赤鬼の望みを叶えることとなった。助けてくれた赤鬼は、一躍ヒーローだ。赤鬼が怖くないということを理解してもらえた。用意していたお菓子を振る舞い、赤鬼は人間たちと仲良くなるのだった。

「でも、青鬼は出ていってしまうんですよね」

 篠崎は頷いた。彼が言わんとすることが壮亮にもわかった。

 子どもの頃にしか読んだことがなかったが、あの頃は確か赤鬼に感情移入していたように思う。大事な友達を失った悲しみ、自分のためにやってくれたことを理解できずに怒ってしまった無情。

 赤鬼の涙に、同じように泣いたこともあったかもしれない。

 けれど今なら、青鬼に思いを寄せるだろう。いや、「赤鬼、お前はバカだ」と、叱咤するかもしれない。

「そもそも人間と仲良くしたいと思っているところが、人間の創作物っぽいですよね」

 冗談めかしていう壮亮に、篠崎は笑った。

 笑いながらも、多重の統合の話と、現在進行している研究に関しては、まったく別物だということも理解していた。壮亮が読んだ多重の症例は、荒っぽいというだけで実質的な害はない。人も殺していない。

 さらにいうなら、研究ではひとつの身体に存在する意識を統合しようとしているわけではない。篠崎も話していたように、もともとあったものを消し去り、新しく書き換えようとしているのだ。容易なことではない。

 そう、問題は何ひとつ解決していなかった。ことはより一層、深刻さを増していた。

 TCプロジェクトのメンバーが緊急招集されたのは、これで二度目だ。一度目は、最初に変化の兆候がみられたとき。あれから、何度も変化は起きていた。

 すべては映像に記録されている。楽しくない鑑賞会では、息を呑む音がそこかしこから聞こえた。

 異変はいくつもあった。まず、男は家に帰ると腕時計を外した。そこまではいつもの動作と変わりなかった。彼は、帰宅後すぐに腕時計を外し、手を洗うことを習慣としている。

 外した時計はテレビ台の上に、家の鍵と一緒に置いていた。が、このときは掻きむしるように時計を外すと、バンド部分を力一杯引きちぎった。はさみを取り出し、復元不可へと追い込むように、ズタズタに切り刻む。時計の部分も持ち手部分で叩き割ると、そのままゴミ箱に投げ入れた。

 さらに、仕事終わりによく出かけるようになった。今までは、まっすぐ帰るか、職場から家までの道のりの途中にあるスーパーに寄るくらいだったが、最近では家に寄ることなく、外をうろついていた。

 出かける場所は一定ではなかった。目的地も不可解なところが多かった。不可解といえば、途中で意識を失ったように倒れることも、頭を抱える出来事のひとつだった。

 男は倒れたあと、目を覚ますと、自分が置かれている状況がわからないというように、あたりをキョロキョロと見回していた。立ち上がり歩く様は、迷子のように足取りは覚束ない。

「まるで徘徊老人のようですね」

「でも、自力で家までは帰れていますよ」

 脳に異常があるわけではなさそうだった。脳波もおかしいところはない。

「気になっているのは、ここです」

 モニターのリモコンを持っている駒田こまだが、映像を止める。駒田は壮亮と同年代の、若い研究者だ。

 男は仕事が終わると、職場からの帰路を外れ、国道も外れて奥へ奥へと歩いていった。歩道は途中でなくなったが、山道に入っても、足取りは変わらない。迷いなく歩いていく。山道に入ってから、あたりは一層暗くなった。暗視野に対応しているカメラとはいえ、解像度は高くなかった。

 山に入ってから三十分ほど経った頃、男は足を止めた。目の前には何か物体があることはわかったが、それが何かまでははっきりとしない。男はそこで何かを取り出したように見えた。何かに包まれていて、中身はわからない。男はすみやかに、かばんの中にその何かをしまった。

 もと来た道を戻ろうとしているところで、男は倒れた。

「あれは何だったんでしょう?」

「解析していますか?」

「私が担当しています」と、杉下。「ただ、特定は厳しいかと」

「中身を明らかにする必要があるかどうかもわかりません。さほど重要なことでなければ、執着する必要もないかと」

「中身がわからないままでは、判断しかねます」

 意見は四方から飛んだ。みな苛立っていた。

「もっと他に重大な問題があるでしょう」本間が、駒田が持つリモコンを奪った。

 映像を早送りする。日にちも変わり、それでもやはり暗い中の映像に、その衝撃は映っていた。

 人通りの少ない夜の道。視点は、男に取り付けられたカメラ。

 映像の前方には、歩く人物の姿がひとつ。後ろ姿からは男性か、女性かはわからない。仕事帰りなのかもしれない。右手でスマホを持ち、耳にはイヤホンをしているのかもしれない。後ろから近づいてくる影にも気づかない。

 映像の中で、前の人物との距離が縮まった。あと少しで追いつくといったところで、距離はぐっと狭まり、ゼロになった。

 前を歩いていた人物は、一瞬仰け反ったように見えた。しばらくゼロ距離を保ったあと、その人は足から崩れるように画面から消えた。

 壮亮は目を逸らした。気分が悪くなり、離席しようかと考えたが、なんとか堪えた。

「恐れていたことが起きました」

 恐ろしい映像を前に、本間の声は変わらない。

「取り調べの映像から、犯行の手口は理解していたつもりですが、目の当たりにすると現実感が増しますね」

 そう言ったのは、駒田だ。好奇心を隠せていない。

「対応を考えなければいけません。一度連れ戻し、再度共有実験を行う必要も検討しています」

「中止にはならないんでしょうか? このまま同じことを続けても、結果は見えています」

「中止を決めるのは我々ではありません」篠崎の声が部屋の中に響く。「ストップがかかるまで、やれることをやるだけですよ」

 責任はあちらが負ってくれるでしょう、と付け足す。冷淡な音が含まれていた。

「警察に通報するような事案ですけどね」

「通報したところで、彼らが動くことはないでしょう」

「こちらで、どうにかすることはできないんですか? どんな方法を試すにしても、一度連れ戻した方がいいと思うんですけど」

「連れ戻したところで、もう一度同じように意識を移行させても、結果は変わらないと思います」

 四方から意見は飛ぶが、具体的な解決方法は何ひとつ上がらない。普通の実験であれば、それなりのプロセスがあり、こうなった場合にはこうすればいい、というような流れがあるが、今回のことに関してはまったくもって前例がない。いわば全員が素人であり、同じような研究をしている人もいない。情報がまったくない状況なのだ。

「本筋とは関係ないかもしれませんが」重たい空気が占める中、壮亮が口を開く。「腕時計を壊したのはなぜなんでしょう? 双方に金属アレルギーがあったわけではありませんし、何よりレシーバーがつけていた時計は金属製ではないですよね。理由はわかっているんですか?」

 篠崎は微かに表情を緩めると、壮亮の方に顔を向けた。「それは簡単です。手錠ですよ」

「手錠?」

「ええ。一度手錠をかけられたことのある人間は、腕に何かをはめることを嫌うんです。思い出してしまうんでしょうね」

「そんな繊細な人間だとは思えませんけどね」本間の言葉には棘があった。

「意識しているわけではないのかもしれません。恐怖というものは、自覚していなくても、奥底にその感情が宿っていることもありますから」

 映像を提出したあと、「続行」の指示が返ってきたと報告された。不服そうな顔を浮かべる人、何も感じていないようにただ与えられたことをこなす人、興味深そうに先の結果を待ち望んでいる人。チームにはいろんな人がいた。もし全員この研究に前のめりであったなら、壮亮はこの夢からいち早く醒めていたであろう。狂気を感じ、慄き、今すぐにでも退職願を出していたかもしれない。だが、この空間には多様な人がいた。全員が異なる考えを持っていた。だからこそ、まだこの中にいても大丈夫だと、思ってしまったのかもしれない。

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