3-6 不可解なこと

 記憶の欠落は、一度や二度ではなかった。ここ数日で、ほぼ毎日起きた。そのすべてが一時的なものだった。

 それと関係があるかはわからないが、最近、眠っていることが増えた。気づけば眠っている、というようなことが多くなった。眠った記憶はないまま、知らない場所で目を覚ますことも、一度ではない。眠ることも怖かったが、それ以上に起きることに恐怖を感じるようになった。眠りから醒め、目を開けるまでの時間がどんどん長くなっていった。

 昴は目を開けた。ゆっくりと——慎重に、重いまぶたを開いた。

 最初に目に映ったものは、見慣れたものだった。もう何度も見ている自宅の天井だ。寝室はない部屋なので、リビングともダイニングとも呼べるような空間に、布団を敷いて眠っている。その部屋の天井だった。昴は安堵のため息とともに、身体を起こした。

 いつものように顔を洗おうと、台所へと向かう。そこで初めて、服を着替えていることに気づいた。昨日の朝、布団を片付けるときに投げ捨てていた寝巻きを着ている。寝巻きといっても、Tシャツに短パンと、簡単なものだ。

 顔を洗いながら、昨日のことを思い返そうとした。ここ数日、何度も行っている作業だ。

 昨日、仕事が終わってからの行動を振り返る。が、職場を出た直後までの記憶しかない。どうやって戻ってきたのかも、いつ帰ってきて、着替えたのかも覚えていない。こんなことも、今となってはめずらしくはなかった。

 酒を飲んでいるわけでもないのに、記憶を失うことが多すぎる。酒は飲んだことがないので、記憶を失うほど飲むという感覚もわからないのだが。

 記憶がないことが増えているというのは、それだけで不可解で、恐ろしかった。さすがに、病院に行った方がいいかもしれないと考え始めていた。ただ、昴は病院に行ったことがない。どのくらい費用がかかるかもわからない。もし脳に問題があったとして、それを見つけるために大がかりな検査が必要になった場合、費用を賄う自信はなかった。

 記憶を失っても、家に帰ってきているなら、まだいい。昴が不気味に思っているのは、目が覚めたときに見知らぬ場所で、多くは屋外で倒れていることだった。

 誰だって怖いだろう。何か事件に巻き込まれたのではないかと疑いたくなる。

 しかし、怪我はしていなかった。金を盗まれているということもない。盗まれるだけの金を持っていないだけかもしれないが。ただ人けのないところで眠っているだけだった。

 具合が悪くなって倒れてしまったのかもしれない——そんなことも考えたが、職場と家の間ではなく、少なからず、離れた場所で倒れていることに、納得がいかない。しかも大抵の場合、これまでにいったことのない場所で倒れて——いや、眠っているのだった。

 事件に巻き込まれているでもなければ、ただ眠っているだけ。それでも、このまま放置できることではない。このようなことを繰り返していることも、だんだん頻度が増えていることも気がかりだった。

 しかし、一人で考えていても、理由も解決策も何も思い浮かばなかった。顔を洗い、すっきりしても頭は冴えなかった。やはり、無理をしてでも専門家に頼るべきか。

 顔を洗ってさっぱりすると、身体のベタつきを感じた。着替えてはいるが、風呂には入っていないのかもしれない。いつもより少し早く起きたので、出勤までにまだ時間はある。

 昴は服を脱いで、そのまま洗濯機の中へと投げ入れた。が、すぐに洗濯機を覗き込み、洗う前の衣類を取り出した。先ほど入れたTシャツではなく、昨日着ていた服だ。

 白いTシャツだった。柄もワンポイントもない無地のTシャツ。

 Tシャツにはシミがついていた。シミは赤く、腹の部分に斑点のようなものがいくつかついている。赤いもの——ケチャップか何かを食べただろうかと考えるが、朝はいつものトーストにコーヒー、昼は仕事着の上に汚れてもいいような布を被った状態で食べているので、食べたものをこぼしていたとしても、このTシャツが汚れることはない。夜は記憶がなかった。

 よくよく見てみると、赤いシミのもとはケチャップではなかった。いちごやスイカの果汁でもない。血だ。微かに鉄の匂いがする。

 やはりどこか怪我をしているのか。

 服を脱いで、あらわになっている上半身を見下ろした。相変わらずあばらが浮いている。筋肉など影もない。

 傷はなかった。古傷もない。念のため、腕や見える範囲で背中も確認してみるが、血が出るような傷は見当たらなかった。

 Tシャツを持ったまま、昴は台所へと向かった。排水溝にふたをし、水を溜める。風呂場には洗面台がないので、水を溜められるのは台所だけだった。

 漂白剤を買った覚えはないので、洗濯洗剤を流し入れ、汚れている部分を擦り洗う。水に溶け出す赤を見て、やはり血で間違いないと思った。これは、ケチャップではない。

 怪我はしていないのに、服に血をつけているというのはどういうことか。

 Tシャツの血を流しながら、このわけのわからない悩みも、水に流れていってくれればいいのに、と思った。


 休憩時間に入り、昴は昼飯を持ってきていないことに気づいた。今朝はイレギュラーなことが多くあり、おにぎりを握る余裕がなかった。外に買いに行くか、食堂に行くか悩んでいると、例に漏れず佐々野が声をかけてきた。

「杪谷くん、どうしたの? お昼食べないの?」

「ちょっと寝坊してしまって、用意できなかったんです」

「あら、めずらしい。でも、それならちょうどよかったわ」

 佐々野は、ランチバッグから弁当を取り出した。ランチバッグも弁当箱も、いつも彼女が持っているものよりも、ひとまわり大きかった。

「よかったらこれもらって」

 そういって、二段弁当を昴に渡す。戸惑いながらも受け取ると、ずしりと重さを感じた。

「これは?」

「息子のなのよ。間違えてわたしのお弁当を持っていっちゃったみたいで。捨てるわけにもいかないから、こっちは私が食べようと思って」

 どう間違えたら、わたしのお弁当を持って行くことになるのかわからない、と言いながら佐々野は笑った。

「でもそれなら、佐々野さんのお昼がなくなってしまうんじゃ」

「わたしは予備のカップラーメンがあるから平気。それに、よくよく考えなくても、こんな量私は食べきれないし。食べてもらえた方が、フードロス削減にもなって助かるの」

 だからもらって、と強引に押し付けた。昴もありがたく頂戴することにした。

「それにしても寝坊だなんて、夜更かしでもしたの?」

「いえ、そういうわけではないのですが」

 昴は言葉に窮した。隠したいわけではないが、何と説明すればいいのかわからなかった。

「プライバシーの侵害ですよ」と、同僚の近江おうみが佐々野を窘めるように言うと、佐々野は申し訳なさそうに謝った。申し訳ない気持ちがさらに増した。

「あの」話題を変える。「知らない間に服が汚れてた、なんてことってありますか?」

「服? 何かあるかしら」

「あたしはありますよ」近江が手をあげる。「よくご飯粒とかつけてます。口が緩いのか、食べながらスマホ見たり、テレビ見たり、散漫だからなのか、食べてる最中に落ちちゃうんでしょうね」

 気づいたときには乾燥しきっているのだと、苦笑した。

「わたしはパッとは思い出せないわ。ぶつけた記憶もないのに、あざができてるなんてことはしょっちゅうなんだけどね」

「それもわかります」同意したのは、やはり近江だ。

「あざですか」心なしか、昴の身体が前に出る。「それはどうしてなんでしょう? ぶつけてなくても、あざができるということなんでしょうか?」

 佐々野と近江は顔を見合わせた。どちらからともなく、笑い出す。

「ごめんなさい、笑っちゃだめね」そう言いながらも、笑いは止まらない。

「もしかすると身体の内部の問題で、あざができることもあるのかもしれないけど、わたしたちの場合は単に、知らない間にぶつけてるのよ。ぶつけたことを忘れちゃってるのよね」

「あたしはちゃんと思い出しますよ。ああ、これあのときぶつけたやつだって」

「あら、そう? 近江ちゃんはまだ若いのねえ」

 実際、近江は佐々野より二十は若いだろう。それでも二人で張り合っている姿を見ていると、よくある話なのかもしれないと思えた。

 知らない間に血がついていることもあるのだろうか。身に覚えのない切り傷をつくり、服についてしまったのかもしれない。血がついたあたりしか確認していないが、傷口を触った手で、服に触れてしまったのかもしれない。家に帰ったら確認してみよう。

 二人の会話をBGMに、佐々野の息子が食べるはずだった弁当に手をつけた。

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