3-5 知らない場所

 頬に冷たいものを感じ、昴は目を開けた。

 あたりは暗かった。目に見える範囲で何かないかと凝らしてみるが、何もなかった。暗くて、何も見えないというだけではないだろう。

 わからない状況に身を置いているにも関わらず、昴は冷静だった。慌てる余裕もなかったのかもしれない。

 肌に触れる感触は、土のそれに似ていた。地面に横たわっているようだった。

 倒れているみたいだ。しかし、どうして倒れているのだろう。

 考えてみたが、答えは出ない。頭を使っても何も浮かばなかったが、痛みもなかった。殴られたわけでもなさそうだ。

 次いで、身体全体に意識を向けるが、やはりおかしいところはない。横たわっているということ以外には。

 そのままの状態で、見渡せる範囲で誰かいないか確認した。まわりに人がいる気配はない。

 やっとのことで、昴は身体を起こした。街灯もなければ、雲が覆っているのか月明かりすら届かない地上で、何とか暗闇に目を順応させると、改めて身体を確認した。服は汚れているが、傷はなさそうだ。湿り気を感じていたので、出血を想像したが、単に土が揺れているだけのようだった。確かに、今朝まで雨が降っていた。

 顔や服についた泥をはたいて落とすが、なすりつけただけだった。今着ている服は、処分することになるかもしれない。

 ここはどこだ?

 状況もだが、見知らぬ場所にいることも不思議だった。

 仕事が終わって、家に帰ろうとしていたはずだ。定時に上がり、いつものようにどこにも寄らず帰路についたので、そのときはまだ日も高かった。しかし、あたりは真っ暗闇だ。日の入りしてから、かなり時間が経っているだろう。

 時間を確認しようとして、腕を見た。が、そこには何もなく、一部を除いて日焼けした肌があるだけ。日焼けから肌を守っていた腕時計の姿はない。数日前から見当たらなかった。職場を出る際につけたところまでは覚えていたが、翌日つけようとしたときには、どこにも見当たらなかった。外した記憶もなく、家の中でも見つからなかったので、どこかで落としたのかもしれない。

 少し離れたところにかばんがあった。かばんは口が閉まらないタイプで、地面に着地した衝撃のせいか、中に入れていた仕事着が顔をのぞかせている。慌てて持ち上げたが、袖のあたりに泥がついていた。汚れていない部分につかないようかばんの中には入れず、汚れている部分は外に出したまま肩にかけた。

 家に寄らずに、ここまで来たのだと思った。かばんはこれ以外には、財布しか入らないような小さいものしか持っていないので、普段出かけるときにも、同じものを使用している。ただ、職場に行く以外で、仕事着を持ち歩くことはなかった。出かけるといっても、生活に必要な買い出しくらいだが、家に一度戻ってから出る場合、仕事着は洗濯機の中に放り込んでから出るようにしていた。

 しかし、肝心の帰路の記憶がない。思い出そうとするが、職場を出てからの記憶がない。順にたどろうとするが、信号を渡ったあたりで喪失した。

 どうしてこんなところにいるのか。自分の意思でここまで来たのだろうか。

 立ち上がり、見渡せる限り見回してみるが、建物らしきものは見当たらない。

 昴は明かりを目指して歩き始めた。人けのない道を、手探りに進む。虫の鳴き声と、風に揺れる木々の音しか聞こえない。

 足元で何かが跳ねた。蛙だった。虫の音だと思っていた声は、蛙のものだったのかもしれない。

 だんだん足が重くなってきた。雨で濡れた土は泥と化し、それが靴にくっついたまま離れず、錘になっているのかもしれない。もしくは、どこかもわからない場所にいること、そして無事に帰れるのかという不安から、精神的に疲れてきているのかもしれない。

 しばらくして、今まで聞こえていたものとは違う音が聞こえてきた。耳をすませる。微かではあるが、何かが走っている音だ。

 車だ。

 そう思ったときには、駆け出していた。ぬかるみに足を取られながら、必死に前へと進む。進むにつれ、明かりも見えてきた。

 いつの間にか大通りに出ていた。音の正体はやはり車だった。数は多くないが、確かに走っている。

 車のライトもあったが、街灯や建物の明かりもちらほら見えるようになってきた。

 最初に遭遇した車の進行方向と同じ方に足を進める。歩道と呼べる歩道はなく、車に轢かれそうになりながら路側帯を歩いていた。しばらく歩いて、さらに車通りが増えてくると、道にも街にも見覚えがあるような気がした。

 さらに道なりに十分ほど進むと、ようやく現在地がはっきりした。そこは、自宅から一キロも離れていなかった。

 何だ、近くにいたのか——と、安堵のため息がこぼれる。一安心したところで、肩に重みを感じた。思えば、いつもよりかばんが重いような気がする。ずしりと肩に食い込むような重みを感じる。

 思っている以上に疲れているのだろうか。

 早く帰ろう。

 気持ちが急くように、足並み早く歩く。

 なぜあんなところに倒れていたのか、考えるべきことはあったが、家に着くまでは意図して何も考えないようにしていた。

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