3-3 遭遇

 パソコンを前に、慣れない手つきでキーボードを押す。使い方は新に教わった。器用に、しかもさまざまな指を使ってキーボードを打つ新の姿は、かっこよく見えた。キーボードに目を落さずに打ち込んでいる姿を、湊斗は羨望の眼差しで見つめていた。

 湊斗と同じように、パソコンを利用している人は他にも何人かいた。キーボードを叩く音は湊斗の何倍も早い。人差し指で慎重に、押す場所を確認している姿を誰も見てくれるなと、音も聞こえていなければいいなと、無用な心配をしていた。

 湊斗は図書館に来ていた。新に教えてもらうまで、図書館という存在を認識していなかった。建物すら、視界に入っていなかったかもしれない。わりと大きな建物なのに、気づいていなかったことに少し羞恥を覚えたほど。

 図書館は四角い建物だった。五階建てで、全体が窓になっているかのように、ガラス張りになっている。利用者が立ち入れるのは二階までで、三階から上は書庫などがあるようだった。

 二階には本棚だけでなく、パソコンの利用が可能な区画がある。申請すれば誰でも利用でき、一回二時間という制限はあったが、調べものを目的としている湊斗にとっては、集中力的にも妥当なタイムリミットだった。

 新は本の貸出カードをつくる手続きもしてくれた。これで本を借りることができる。一人十冊、期限は二週間だ。

 カードはその日に発行され、当日から貸出可能だった。せっかくなので、いくつか借りて帰った。それもすぐに読み終え、返しては借り、借りては返してを繰り返していた。

 家から近いということもあり、頻繁に通っていた。その都度、パソコンも利用している。本もいいが、ネットで調べられる便利さは、魅力のひとつだ。

 湊斗は主に、意思の共有や脳科学について調べていた。本もいくつか読んだが、理解が及ばない部分もあった。独学の限界を感じた。

 新には止められたが、研究所の手がかりについても調べようとしていた。「意識」「共有」「脳」などを入力し、それらの研究をしている人、機構を検索する。いくつかヒットしたが、決め手に欠けた。湊斗が研究所にいた頃、対応してくれた人は一人だけ。名前はわからない。ただ、これまでに検索でヒットしたものには、研究者の名前と顔写真が載っていることが多かった。その中に、見知った顔の人物はいなかった。

 収穫はほとんどなかった。パソコンをシャットダウンし、席を立つ。専門書や小説をいくつか見繕い、貸出手続きをして、図書館を出た。

 図書館を出て間もなく、声をかけられた。新だった。向かいから歩いて来ていたのに、まったく気づかなかったのは服装のせいだ。ボタンを全開にして着られたいつもの柄物のシャツではなく、詰襟のシャツにスラックスを履いている。靴もきっちりとした革製のものだ。

「図書館行ってたのか」

「はい。緒方さんは……」

「仕事だ」暑苦しそうに、上から三つ目のボタンまで外す。「打ち合わせがこの辺であってな」

 湊斗は目を見開いた。「お仕事されてたんですね」

 口に出してみて、失言だったことに気づく。新は気にしていないのか、大きな口を開けて笑った。

「すみません。初めて会ったのも平日でしたし、家にいらっしゃったときも……なのでてっきり」

「基本在宅だし、自由業みたいなもんだから。時間はあるんだよ」

 ところで、と新は腕時計を見た。

「昼飯は食ったのか?」

「まだです。帰ってから食べようかと」

「なら付き合え」新は歯を見せて笑った。「うまいハンバーグ食わせてやる」


 新に連れられてやってきた店は、湊斗の生活圏内にあった。商店街に向かう途中にあるレトロな店だった。入り口の扉は、枝や葉のアーチで囲まれ、その中に「KUSUNOKI」と、木製の切り抜き文字でつくられた看板が飾られている。

 そこだけを切り取ると、異様な空間だった。そこだけ森の中に店を構えているかのようだ。しかし、不思議と周囲に馴染んでもいた。住宅街に森がポツンと佇んでいたなら、とても目立つだろうに、「KUSUNOKI」はそこに溶け込んでいた。

 湊斗がその店を知らなかったのも、理由のひとつはその溶け込み具合による。いや、店の存在自体は知っていた。ただ、何の店なのかは知らなかった。店だということも、飲食店だということも、新に教えてもらって初めて知った。

 洋食店だという。オムライスも有名だが、まずはおすすめのハンバーグを食べてみろとのこと。抗うつもりもなく、二つ返事で了承した。

 ハンバーグの前に、サラダとスープが運ばれてきた。新はまずスープに手を伸ばした。以前、彼の行きつけの喫茶店で食事した際にも、先にスープを口にしていた。彼なりのこだわりがあるのかもしれない。

 次いで運ばれてきたハンバーグは、鉄板の上に載っていた。おいしそうな匂いに、じゅうじゅうと音を鳴らしながら運ばれてくる。付け合わせにはマッシュポテト、にんじんのグラッセ、インゲンのソテーが添えられている。別皿にパンが置かれ、テーブルにすべての料理が揃った。

 ハンバーグを一口サイズに切る。レア寄りの焼き加減で焼かれたハンバーグは、付け合わせと一緒に置かれたペレットで、自分の好みに合わせてさらに火を通すことができる。ソースはココットカップに入れられており、かけても、つけて食べてもいいということだった。

 新は最初にソースをハンバーグ全体と、マッシュポテトにかけていた。湊斗は、とりあえずつけて食べてみて考えることにした。

「ちなみに陽翔は、よく焼いて食べてたな」

 今まさに火を入れようとしていた矢先の言葉に、湊斗は照れ隠しのために笑った。

「兄ともこのお店に来たことが?」

「いや、違う店だけど。俺がレアで食べてるの見て、悲鳴上げてた」

「緒方さんはいろんなお店を知ってるんですね」

「仕事でいろんな人に会うからな。教えてもらったりして、徐々に拡大してってる感じだな。食べたいものがあったら、何でも訊け? 連れてってやるから」

 頼もしい限りだ。

「食べられないものとかは? 前にえびがダメだって言ってたな」何かを思い出したかのように、そういえば、と続ける。「陽翔もカニだったか、えびだったかがダメだったな」

 アレルギーも同じなのかと、不思議はなかった。

 店を出るとすぐ、湊斗は恐縮した面持ちで新の前に立った。

「本当にご馳走になっていいんですか?」

「いいよ、これくらい。俺から誘ったんだしな」

 言うが早いか、新は財布をポケットにしまった。

 自分の分は出すと主張したが、受け取ってもらえず、好意に甘えることにする。

「ごちそうさまでした。今度何かお返しさせてください」

 気にするなと言っているのか、了承の意味なのか、新は手をひらひらとさせた。

 二人は何ともなしに、駅の方へと向かった。新が家に帰るには電車に乗る必要があるだろうし、湊斗の家もそちらの方向だ。会話は特になかったが、嫌な沈黙ではなかった。

 駅までの道のりはあっという間だった。湊斗の家はその途中にあったのだが、ぼうっとしていて通り過ぎてしまっていた。新も駅が見えてきて初めて気づいたかのように笑った。

 じゃあ、と言いかけたとき、新の肩越しに見知った顔を見た。湊斗に知り合いはほとんどいない。唯一とも言える知り合いの新は目の前にいるので、そうなると、ほとんど皆無だ。

 目が合った。湊斗を映した男性の目がどんどん見開かれていく。

「あの」

 湊斗が呼びかけるが早いか、相手が駆け出したのが先か。

「ちょっと待ってください」

 新を置いたまま、湊斗も走り出した。男性もさほど足は早くなかったが、ほとんど運動をしてこなかった湊斗が追いつけるはずもなく。

 しかし、こちらには新がいた。状況は把握していないだろうが、彼は湊斗を追いかけるように走り出すと、最も簡単に逃げた男性を捕まえた。二人が息を上げている中、一人、涼しげだった。

 近くに来て、改めて男性の顔を見て納得した。研究所の人だ。カウンセリングなど、湊斗が唯一接していた人だった。少し痩せたように感じるが、間違いない。

「お久しぶりです」

 男性は湊斗の方を見ようとはしなかった。代わりに「出てこられたんですね」と言った。

 出てきてしまったんですね、と言われているような気がした。

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