2-11 通勤路

 午後四時になり、終業のチャイムが鳴った。

 ベルトコンベアはキリがいいところで動きを止め、下流にいる昴たちも流れてきたものを箱に詰めて、業務を終えた。

 片付けや掃除を行い、終わったところから更衣室へと向かう。工場内は冷房が効いているが、作業着の中はやはり暑い。じんわりと汗をかいている。作業着を脱ぐと、昴はタオルで汗を拭いた。そうしなければ、よれたTシャツを着ることもできない。

「更衣室にも、クーラー入れてほしいよな」

「ほんと、扇風機だけとかきついですって」

 同僚たちが交わす会話に、人知れず昴も相槌をうった。

 ふと、横目に同僚たちを盗み見る。上下につながった作業服の上だけを脱ぎ、袖の部分を腹のところに巻きつけ、同じように汗を拭いている。中に着ていたタンクトップも脱ぐと、替えのものに着替え、作業服を脱ぎ捨てた。すぐに、朝履いてきたであろうズボンに足を通す。

 昴は目線を落とした。下着一枚になって汗を拭いている自分の身体を見つめる。

 昴の他にも、下着一枚になり十分に涼んでから着てきた服に袖を通している人もいた。恥じらいもなく、恥じる必要もないと言わんばかりに、酒のせいか、運動不足によるものか、立派な腹をさらけ出し、ロッカーに置いているうちわで涼を得ていた。

 昴の腹は出ていない。むしろ、あばらが浮き出そうなほどに痩身だ。歳の頃も、替えのタンクトップをいそいそと着ている人たちの方が近いだろう。

 着替えのときは、裸を見られても恥ずかしいという気持ちがない昴だが、一転、手洗いになるとそうはいかない。人がいようがいまいが、必ず個室に入る。大小は関係ない。人が近くにいると落ち着かないというわけではない。ただ、個室のありがたみを強く感じていた。

 家のトイレはもちろん個室で、それでなくとも家には昴一人なので、鍵を閉めなくても、もっといえば扉を開けていても問題がないといえば問題はない。が、扉も鍵も必ず閉めた。そうできることに喜びのようなものを感じていた。ただ、理由はわからなかった。

「お疲れ」

「お疲れ様でした」

 仕事が終わる時間は同じだが、帰路に立つ時間は人によって異なる。着替えが終わったら、速やかに帰る人もいれば、一時間ほど話し込んでから、やっと工場を出る人もいる。

 帰る方法もさまざまだ。徒歩、自転車、原付バイク、電車にバス。職員用の駐車場はないため、車を使用する場合、各自月極駐車場などを探さなければならない。そのせいか、車通勤をしている人は少ないという。

「お疲れ様でした」

 工場の出入り口前で井戸端会議をしていた同僚に声をかけ、帰路につく。

「杪谷くん、どこ行くの?」三歩も進んでいないうちに、引き止められた。「家、反対方向じゃない? こっちの方が近いわよ」

 昴が足を向けている方とは逆方向を指差す。

「あら、寄り道して帰るのよ。ね?」先に引き止めた人とは別の同僚が軽口を叩く。

 寄り道をしている気はなかった。予定があって、家とは反対方向に進んでいるわけでもない。

 同僚がいうように、家に帰るなら、足を向けている方とは反対方向に進んだ方が早い。が、昴がその道を通って帰ることはなかった。行きも帰りも、少し遠回りをしながら、反対側をぐるっとまわって通勤していた。

「こっちの道といえば、犬がいたわよね、確か。よく吠える子」

「小さい子よね。ほら、なんていったかしら」

 ポメラニアンだ、と思った。茶色い毛のポメラニアン。

 昴も犬がいることは知っていた。よく吠える子だということも。

「交番の前のお家で飼われてる子よね。まるで番犬みたいだって、言われてるらしいわよ」

「小さな番犬ね」

 続く会話を邪魔しないように、「失礼します」と告げると、足早にこの場を去った。

 いつもの帰路を歩きながら、どうしてわざわざ遠回りしているのだろうかと考えた。歩くことが目的なのだろうか。

 最初から今の経路を選んでいるわけではなかった。一度だけ、順路とでもいうのか、最短ルートで職場まで行こうとしたことがある。初めて出社する前の日のことだ。

 道に迷ってはいけないからと、下見がてら経路を確認しようと家を出た。あらかじめ頭に入れておいた道順をたどり、歩いていると、騒がしい音が聞こえてきた。何かが鳴いている。いや、吠えていた。犬だ。きゃんきゃんと、高い声で吠えている。

 音の出所を探していると、一軒家の出窓のレースカーテンから顔をのぞかせた子犬が、道行く人に向かって吠えていた。威嚇しているような顔ではなかった。遊んでほしいというような声でもなく、吠えている意図はわからない。

 人が通る度に吠えているのだろうか。喉が強いのか、犬の声帯は人とは違っているのか。

 自分でもよくわからないことを考えながら歩みを進めようとしたとき、踏み出そうとした足が止まった。金縛りにあったかのように動けず、しばらくその場に立ちすくんでいた。

 金縛りが解けると、昴はまわれ右をして、もと来た道を戻っていった。

 抜け道を見つけ、犬が吠えていた場所を避けるように、職場にたどり着いたのだった。

 犬は怖くはないし、嫌いでもない。どうしてあの道を避けるのか、昴には理由がわからなかった。

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