2-9 確認試験

 研究所にて、潮部あたる——もとい杪谷昴が表の世界に出ていく前、意識の移行が行われたかどうか、性質が書き換えられているかどうか確認するために、いくつかの実験が行われた。

 そのひとつに、アレルギー反応を観る試験があった。

「じゃあ、次はこれ」

 地下三階。

 薄暗い小さな部屋の中、一人分の小さな机の上に、豆皿程度の皿が載せられている。皿には、そこに載せられるだけの量、食べ物が置かれていた。彼がそれを食べ、観察した後、また次のものが置かれる。わんこそばのように、延々と続いていた。

 食べ物はすべてアレルゲンがあるもの。

「今のところ問題はないですね」

「確か被験者には牛乳アレルギーがあるんでしたっけ?」

「最初の検査結果はそうですね。牛乳にだけアレルギー反応がありました」

 紙を挟んだバインダーを篠崎に見せる。アレルギー項目が記載された紙は、これまで確認した食品にチェックマークが付けられている。残っているのは、大豆、えび、牛乳だ。牛乳はリストの最後に入っている。

 実験を行っている部屋の隣室で、ガラス越しに様子を見ていた。取り調べ室のようなつくりだった。中の声は、スピーカーから聞こえている。

 アレルギー反応が出ても大丈夫なように、プロジェクトメンバーの一人である、本間ほんまが近くでスタンバイしていた。医療行為を行える資格を持っているのだという。メンバーの専門は聞いたことがなかったので、驚きだった。

 医療班が待機しているとはいえ、かなり無茶な確認方法だと、最初に実験計画を聞いたときから、今でもずっと思っている。荒療治とはまた違うが、そんなイメージだ。

 そもそも意識移行の確認のために、アレルギー試験が必要なのかどうかも謎だった。意識移行により、目的としているのは性格や性質の変化であって、身体的な変化を求めているわけではない。

 そういう意味で、壮亮はTCプロジェクトの本質をわかっていなかったかもしれない。

「三好くんは、多重人格について何か知っていることはありますか?」

 不意をつかれ、思わず首を横に振った。篠崎は気にせず話し始める。

 篠崎は多重について説明した。多重人格とは、主人格とは別の異なる人格のことをいう。異なる人格が現れるきっかけは様々で、虐待を受けている子どもが、虐待に耐えるために、人格をつくり出すなどが知られている。何も感じない「無」の状態になれる忍耐強いタイプや、攻撃的なタイプ、誰にでも好かれようと媚びを売るタイプなど様々。

 新たに生まれた人格は、身体はもちろん主人格と同じだが、名前は違っている。人格ごとに名前を持ち、性格が異なり、性別や喋り方が違っていることもあるという。日本語しか喋れない主人格の中に新たに生まれた人格が、流暢な英語を話せることもあるのだとか。

「体質が変わることもあるらしいんですよ」

「体質、ですか」

「そう、体質です。主人格にはなかった金属アレルギーが別人格に現れて、知らない間にアクセサリーの類を全部外されていたり、とか」

 篠崎の話には正直、驚いた。外見は変わらないのに、いや、外見だけではない。内臓や筋肉、身体を構成するものは同じものなのに、性質が変わるというのはどういう理屈なのだろう。脳がそれらの人格をつくり出しているのなら、そういった体質変化も脳が生み出しているということか。

 現在行っている実験は、意識の移行を確認するためのものだという。カウンセリングや脳波なども確認しているが、体質変化を観る指標として、アレルギー試験を行っているのだと説明を受けた。

 アレルギー実験は今回が初めてではなく、意識移行前にも実施されている。アレルギー検査だけでは物足りないと、篠崎が言い出したからだ。

「人によって症状は様々です。それに私自身、アレルギーの専門家ではありませんから、彼がどんな症状をみせるのか、実際に見てみたい。今後の実験の参考にもなりますし」

 もちろん本間は止めたが、篠崎は聞かなかった。

 最初の実験では、彼の持つアレルギーの源である牛乳のみ用いられた。潮部には目隠しがあてがわれ、何を口にするかわからない状態で牛乳を飲んでもらう。症状は、摂取後二時間を少し超えた頃に湿疹として現れた。全身を駆けるように一気に広がった。咳などはなかったが、湿疹は身体の内部にまで至っているのか、苦しそうに顔をしかめていた。

 そんな様子を見ているからこそ、今回の実験で牛乳を与えるのは正直怖かった。

 チェックリストに記入しながら、篠崎に伺いを立てる。「残りはこの順番で問題ないですか?」

 壮亮は、大豆、えび、牛乳の順で、篠崎に提示した。

「いえ、次は牛乳をお願いします」

 壮亮は耳を疑った。

「正気ですか?」言葉を選んでいる余裕もない。

「意識の移行ができていたとして、体質変化が起きている確証はないんですよ?」

 同じ部屋にいたプロジェクトメンバーの関本が、怯えながら壮亮を見る。

「それを確かめるための実験です」

「もし体質が変わっていなかったら、そのあとの実験は行えません」

 それでもいいんですか? と、視線で訴える。

「それはそれで、また移行を進めるだけです」

「体質の変化はあくまでひとつの指標でしょう? それがなくても、他の検討もしているわけですし」

 本間も頷いた。彼にはこちらの声も届いている。

「三好くんの言いたいことはわかります。ですが、なんというんでしょう、予感、みたいなものがありまして」

「予感ですか?」

 篠崎のわりに、非科学的なことを言う。「予感」とは一体何なのか。

 結局、の判断には逆らえない。篠崎の指示のもと、皿の代わりに潮部の前にコップが置かれた。中身は白い液体。牛乳だ。

 彼はこれまでそうしてきたように、コップを手に取ると、ためらいもなく口をつけた。牛乳が喉元を通って流れ込んでいく。

 牛乳を口に含んだタイミングで、ストップウォッチがスタートする。食物アレルギーは即効型の場合、摂取してから症状が出るまで、二時間程度かかる。しばらくは観察だ。

 ストップウォッチの数字がカウントアップしていく度、緊張が走る。

 変化なし。鬼門の二時間が経った時点で、本間が彼の腕や腹などを確認する。湿疹は出ていない。

「摂取してから三時間が経過しました。症状出ませんね」

 壮亮の声色は、どこか不満げだ。

「次に進みますか? 残りは大豆とえびですが」

「大豆を次に。最後はえびでお願いします」

 牛乳のコップが下げられ、大豆が運ばれてきた。彼が食べたのを確認し、またしばらく観察する。大豆も変化なし。

 最後はえびだ。えびはセンダーが持っているアレルギーの源だ。

 潮部にあった牛乳アレルギーは発症しなかった。だからといって、えびアレルギーに変換されたというわけではない。性質変化が成功していたとしても、えびアレルギーが出るとは限らない。それでも、牛乳のときと同じくらい、いやむしろ牛乳の結果を受け、壮亮はより緊張感を増していた。

 えびが口の中へと運ばれる。ストップウォッチを押す手が震えていた。

 篠崎を横目に見ると、表情ひとつ変えず、彼の様子を観察していた。先ほどよりも少し前のめりに見えるのは、気のせいではないだろう。

 一時間が経過する。何も起きない。彼は喉を潤すために水を含む。

 二時間が経つ。変化はない。本間が動き、これまでと同じように肌の状態を確認していく。隈なく観察したあと、問題なしを合図した。その時だった。彼の体制が崩れ、皿が台から滑り落ちる。ぱりんと皿が割れる音がし、次いで苦しそうに咳き込む彼の声が届く。

 本間は迅速に対応を始めた。壮亮も部屋を飛び出し、隣室へと急ぐ。近くで見る彼の首筋には、蕁麻疹のようなぶつぶつが溢れていた。熱を持っているかのように、赤く染まっている。

 壮亮は慌てていたが、本間は落ち着いていた。遅れてやってきた篠崎も冷静に見守っている。

「篠崎さんの予想通りということですか?」

 症状が治まり、安静のため眠りについた彼が別室に運ばれたことを確認してから、壮亮は切り出した。

「予想通りというと、少し語弊がありますが。仮説は実証されたということでしょうか。とはいえ、準備が整っただけです。本当の検証はこれからですよ」

 長時間の実験が終わり、デスクに戻って腰を下ろすと、自然とため息が出た。全体重を椅子に乗せるように、身体から力が抜けていく。

「お疲れ様でした」

 篠崎が、コーヒーの入ったカップを壮亮のデスクに置く。壮亮は礼を言い、軽く頭を下げた。

「本間さんはデータ回収、関本さんは帰りました」

「三好くんも、今日はもう帰って大丈夫ですよ。長時間お疲れ様でした」

 挨拶をすませたあとも、二人は動こうとはしなかった。

「篠崎さんは」今日のことに触れられたくなかったので、先んじて話を振る。「どうして他人の意識を、他の人に移行しようと思ったんですか? もともとそういうことにご興味が?」

「そうですね、興味はありました」

「それは、どういう人に、どういう意識を共有したいと考えていたんですか? 今回のようなケースですか?」

 篠崎はカップをデスクに置くと、そのままデスクにもたれかかった。

「三好くんは、世界中にいる人々がみな優しい人ばかりだったとしたら、世界は平和になると思いますか?」

 質問に質問で返され、少し不満に思いながらも考える。

「すごく単純で、理想的といえば理想なのかもしれませんが……そう簡単にはいかないでしょう」

「その心は?」

「働きアリの法則、ですかね」

「2:6:2の法則というやつですね」

 壮亮は頷いた。「十匹の働きアリがいたとすると、その中で六匹のアリは普通に働く。二匹は優秀で、残りの二匹は仕事をせずにサボり出す。二匹だと少ないですが、十倍にして、二十匹の優秀なアリを別のグループとして、新たに集団をつくると、その二十匹の中からまた同じ法則が生じる」

「二十匹ですから、四匹ですか。もとは優秀な働きアリだったものから、サボるアリが出てくるというものですね」

 篠崎の言葉に、壮亮は再び頷く。

「三好くんの言いたいことはわかりました。優しい人たちの集団があったとしても、みな心根は優しいんだろうけれど、そのうちそこからよからぬことを考える人が現れるのではないか。そう考えているのですね」

「優しい人っていうのも、100%優しさだけで構成されているわけじゃないですからね」

「それです、それ」篠崎は興奮したように、声が高くなった。「単に穏やかだとか、優しいという性質を入れるだけなら、ロボットでもいいんです。優しいロボット、落ち込んでいたら励ましてくれるロボット、いつも前向きな言葉をくれるロボット。しかし、人間はそう一辺倒ではありません。そんなに単純ではない。だからこそ、生身の感情を、生身の人間に入れることに意味があると思っているんです」

「それが理由ですか?」

「理由は……三好くんと同じですよ」

 それだけ言い残すと、篠崎は先に失礼するといって、研究室をあとにした。

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