2-7 日常
上下つながっている実験衣を脱ぎ、マスクを取ると、勢いよく空気が身体に触れるの感じた。
チューブをのせたラックを手に、入ってきたときと同じように暗証番号と指紋認証を通過して、壮亮は動物実験施設を出た。
五階の実験室に戻り、採取したマウスのしっぽからDNAを抽出できるように処理を行う。処理といっても、ボイル後、試薬を入れ、遠心機にかけるだけなので、難しいことはない。
さらに別のチューブで試薬を混ぜ合わせ、それを0.2mLのチューブに入れ、先ほど調製したDNAを加えたら、機械にかけてしばらく待つ。
待っている間、このあと使うものの準備に取りかかる。今は、実験に使うためにマウスを作製しているところで、いわば「待ち」の時期なので、さほど忙しくはない。解析もこまめにやっているので、溜まっている仕事もなかった。時折、篠崎から急遽仕事を振られることはあったが、それもおおよその場合、一日で終わる。
忙しいときは、朝から晩まで分刻みのスケジュールをこなすこともあった。昼飯を食べる時間だけでも確保できたら御の字で、与えられている休憩時間を丸っともらえるときには、逆に落ち着かないこともあった。
篠崎から新しいプロジェクトを任されるまでは、毎日をそんなふうに過ごしていた。忙しくても、充実した毎日だ。
けれど、日常は一瞬のうちに消え去った。少しでも異常が混入すると、もはや日常とは言えなくなる。普通なら取り除けばいいだけの話だが、この異物はそれができなかった。馴染むまで待つか、異物を異物と認識した上で、耐えながら過ごしていくか。二つにひとつ。
意識移行、書き換えのプロジェクトは、英語の頭文字をとって「TCプロジェクト」と名付けられた。
TCプロジェクトは、地下三階で打ち合わせなどを行う。簡単な話なら、篠崎の部屋ですることもあったが、基本的には話が漏れないよう注意を払っている。デスクも、地下三階にメンバー分用意されていた。
研究にはお金がかかる。実験するには最低でも、試薬や機器類、消耗品などを購入する必要があるし、人を雇えば当然、人件費もかかる。光熱費も必要だ。
研究するための費用は、いろんなところが基金を提供している。求めている人全員に与えられるわけではなく、申請書として研究計画書を出さなければならない。審査を行い、授与する人を選ぶというわけだ。
研究計画は、研究が実行可能かどうか、プロジェクトリーダーの能力なども審査の対象となる。行う実験について、各委員会を通しておかなければならないものもある。動物実験や、遺伝子組み換えなどがそれに当たる。倫理審査が必要な場合もある。その点で、TCプロジェクトは間違いなく、今の段階で公になることはない。
となると、募集がかけられているような基金に応募はできない。移行は終えていて、現在観察期間に入ってはいるが、それなりに費用はかさむ。試薬等は今のところ必要ないが、モニター用の諸経費は随時かかってくる。だが、その費用を賄う手段がない。これまでにも機械の開発や、人を用いた実験をしていたということで、謝礼などの費用もかかっていたはずだが、どこから捻出された金が使われているのか、壮亮は知らなかった。
今現在、センダーには生活に困らない程度の自由な金が与えられているということも聞いたことがある。それに対し、チームメンバーの一人が、
「働かなくても何不自由なく暮らしていけるとか、羨ましいな」
と、僻みっぽく口にした。
「でも、それと引き換えにプライバシーはないですよ。本当だったら知られることのない奥の奥の方まで、他人に筒抜けになってしまうんです。その代償がお金なんて、ちょっと侘しいです」
同僚は「確かに」と頷いた。
「でも、もう一人の方はどちらかというとギリギリの生活だよな。そんなに給料も多くないだろうに、フルで働いてるし、住んでる家を見ても大きな差を感じる」
「僕もそれは気になっていました。やはり、供給する側のセンダーには、何不自由なく生活してもらう方がいい、ということなんでしょうか。反対に、レシーバー側はより普通の、もとの彼が過ごしていたであろう生活様式をそのままにする目的があるのかもしれません」
「それがすべてじゃないとは思うけど」同僚はため息をついた。「事件が起きる背景を垣間見た気がするよ」
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