2-6 喫茶店で
氷が溶け、からんと音を立てる。
心地よいクラシック音楽をBGMに、湊斗は本を読んでいた。時間を潰すにはちょうどいい。
湊斗は、人と待ち合わせをしていた。相手は新だ。相談したいことがあると連絡したところ、初めて会ったときに行った店で待ち合わせようということになった。
やはりあの喫茶店は、新の行きつけの店だった。六十代くらいの男性が一人で営んでいる喫茶店だ。表通りから一本裏道に入ったところにある、知る人ぞ知るといったような店だ。
店内はコーヒーの香りが漂っている。コーヒーはマスター自ら豆の買い付けを行い、焙煎しているのだと、注文をするときに教えてもらった。
一番人気のオリジナルブレンドは、人によって異なるコーヒーが提供されているのだそう。その人にあったブレンドを、マスターが淹れているのだ。長年接客業をやっているからことできる技か、マスターの能力かはわからない。
あれからたまに、陽翔の家に足を運んでいた。部屋の換気と、枯れかけていた植物に水をあげるのが目的だった。品種を調べたところ、モンステラという観葉植物だった。それに合う肥料を与えたところ、葉は徐々に復活してきている。
帰り道でパン屋にも寄っていた。時間に余裕があれば、喫茶店にも足を運んだ。
マスターも湊斗の顔を覚えてくれているのか、カウンター席に通された際には、色々話をするようになった。自宅でコーヒーを淹れていると話すと、おいしく淹れるコツを教えてくれた。
「おう、湊斗」
ドアベルが来客を知らせるのと同時に、待ち人が顔を見せる。やはり目を引く、派手な柄のシャツを着ていた。
湊斗に向かって手をあげ、簡単に挨拶をすませると、席に来る前に「マスターいつもの」と告げた。
「湊斗、飯食べた?」
テーブルの上にあるアイスコーヒーを横目に、新が訊く。
「緒方さんが来てからにしようかと」
「食べられないものとかは? アレルギーがある食材とか」
「苦手なものはありませんが、えびにアレルギーがあるみたいです」
ちらりと何かを見て、大丈夫だなと頷く。「じゃあ、ホットサンドがおすすめ。一回は食べてみた方がいいぞ、うまいから」
うまいというのは理由にはならない。この店の料理はすべておいしい。料理もマスターが作っている。
「本日のおすすめホットサンドは、照り焼きチキンとだし巻き卵になっております」
マスターが、湊斗の前にメニューを差し出した。見るまでもなく、ホットサンドに決めた。新に勧められたからというわけではないが、まだ食べたことがないメニューだったので、食べてみようと思った。
「連絡もらったときも言ったけどさ、苗字呼びやめろって。その顔でよそよそしくされるの、慣れないんだけど」
「そう言われましても……僕だって慣れていないので、そちらにも譲歩を見せていただきたいんですけど」
新に電話した際、彼は湊斗のことを名前で呼んだ。あまりに突然のことで、用件が吹っ飛んだ。
初対面のときからフランクな人だと思っていたが、まだ二度しか会っていない人間に対して、こんなふうに距離を縮められるのかと、驚くしかない。
「俺に求めてることと、湊斗に頼んでることじゃあ、そっちの方が簡単だろ。名前呼ぶだけだ。知ってるだろ、名前。ほら、呼んでみ?」
「強要しないでください」
笑い声がした。両手に皿を持ったマスターが、「失礼」と断りを入れる。
「マスターからも言ってくれよ。名前くらい呼べるだろって」
「人との距離感の詰め方は、人それぞれですから。ひとまず休戦して、昼食をどうぞ」
三角に切られたホットサンドが二つ。それぞれ、おすすめの照り焼きチキンとだし巻き卵が入っている。皿はワンプレートで、他にサラダがついている。スープカップを置いて、マスターはカウンターへと戻っていった。
「俺も連絡しようと思ってたんだよ」
スープカップを持ち上げ、口をつけながら新が言う。
「そうなんですか?」湊斗が訊くと、新は頷きながら「都合がよかった」と笑った。
「鍵どうしたかなと思ってさ」
返事を急がないとでもいうように、新は食事を続けた。スープカップを置くと、サラダに手をつける。顔を上げると、
「あったかいうちに食べな。話はあとにしよう」
と、言った。
お言葉に甘えて、食事をとろうと、おしぼりで手を拭いた。何から食べようかと考えて、だし巻き卵のホットサンドへと手を伸ばす。
一口頬張ると、口の中にだしの香りが広がった。パンにはマヨネーズも塗られている。だしが溢れ、水っぽくなるのではと心配したが、無用だった。マヨネーズがパンを守っているかのように、どの部分もケンカすることなく、それぞれのよさを壊していない。
食事を進めながら、湊斗はどう説明しようかと考えていた。ここに来るまでにも何度か試行錯誤したが、結局何も思い浮かばなかった。
あの日——陽翔の家を初めて訪れてから、しばらく一人で考えていた。悩んでいた。陽翔のことを思い出そうともした。けれど、思い出されるのは、「夢」で見ていた陽翔だけで、一緒に暮らしていた頃の彼を思い出すことはできなかった。
陽翔の家に残されていたのは、あの手紙だけではなかった。研究のことが記されているノートも見つかった。そこに記載されていたものは、「夢」の中で見た陽翔と俊郎の会話内容も含まれていた。
「意識共有」のための機械。頭に埋め込まれた金属片。被験者としての湊斗。
研究所でのことを思い返しながら、自分がされてきたことを理解しようとした。照らし合わせようとした。
すべてではないが、研究に利用されていたことは、すんなり自分の中に落ち込んだ。腑に落ちた。けれど、だからこそ研究所を出て、自由の身になったことに理解は及ばなかった。厄介払いになったと思っていたが、機械が完成したということだろうか。
陽翔が残したノートの最後に、「困ったことがあったら、新に相談するといい。彼ならきっと手を貸してくれる」とあった。まるで、湊斗がノートを見ることを想定していたかのようだ。
悩んだ末、湊斗は新を頼ることにした。
湊斗は、鍵を使ったことを話した。鍵は、以前陽翔が住んでいた場所から数分歩いたところにある、アパートの一室のものだった。中に入り、陽翔の家で見つけたものの話もした。陽翔とは双子の兄弟だったことも伝える。初対面のときに知らないと言ったのは、記憶が欠落していたからだと弁明する。新は疑っているそぶりを見せず、時折質問を投げながら、湊斗の話を聞いていた。
幼い頃、両親が離婚し、陽翔は父親に、湊斗は母に引き取られたのだと付け足す。とはいえ、母のもとで生活はしておらず、研究所にいたと話すと、新は「研究所?」と、怪訝そうに顔をしかめた。
「兄と僕は、とある実験の被験者だったんです。兄の意識を、僕に伝えることが目的だったようです」
研究所での生活も簡単に説明した。意識共有の機械。陽翔から受け取っていた記憶。
起きているときは、何を見たのか話したり、映画を見たり、テストを受けたり——湊斗は、一通りの説明を行った。
「俺と最初に会ったときにはまだ、陽翔と双子だってことは思い出してなかったんだよな? というか、あいつの存在自体もはっきりとは知らなかったんだろ? それなのに、なんであの鍵で開けられる場所がわかったんだ? 意識共有がどういう仕組みかはわからないけど、そもそもこの街に来たのも、単なる偶然か?」
「それが意識共有かはわかりませんが、映像が見えてました。映像だけじゃなく、嬉しいとか楽しいって感情も流れ込んできてました。兄の感情はいつだって、そういったものでした」
「この街のことも映像で見てた、と」
「はい。実は、緒方さんと初めて会った日の少し前に、一度来ていたんです。電車に乗って、何だか懐かしい感じがして、この駅で降りて。街を歩いてみたんですけど、何も思い出すことはなかったんです。ただ、僕の顔を見て、兄と間違えた人がいたんですよ。その人が、兄がこの街に住んでいることも教えてくれました。だから、この街は兄と関係があるんだと。って、そのときは兄とはわかってなかったんですけど、同じ顔をしている人がいるというのは、『夢』で見ていたので。それで、何か自分のことを知る手がかりを見つけられるんじゃないかって、もう一度訪ねたときに、緒方さんに会ったという感じですかね」
「ふうん」と、興味なさそうな声を出す。
呟いたあと、しばらくの間、新は黙り込んだ。何か考えているようなそぶりをしていたので、話しかけないようにした。
「湊斗は、その研究所ってところを出たことは?」
「ありません。正確にいうと、ありませんでした」
すると、新は何かを納得したように頷いた。
「最初に公園で会って話したとき、世間知らずなやつだなって思ったんだよ。自分が夢だと呼んでるものの中で陽翔を見たことがあるとか言い出すし。天然というか、なんというか。俺、こいつと喋ってて大丈夫なのかって、正直心配してたんだ」
笑う新に、湊斗もつられる。「顔には全然出てませんでしたけどね」
「驚いてたんだろうな。なんだこいつって思うよりは、俺このままここにいて大丈夫か? ってさ」
二人は食後に、アイスコーヒーを頼んだ。湊斗は本日二度目のアイスコーヒーだが、一杯目とは味が違っていた。どちらも異なるおいしさがある。
「ちょっと疑問なんだけどさ」ストローで氷をまわしながら、新が言う。「湊斗は今までずっと、陽翔の意識とやらを受け取ってたわけだよな」
黙って頷く。
「それを研究所の人間に伝えてた。察するに、きちんと装置が作動しているのかどうかを確認するのが目的だろう。でもそれって、陽翔の方にも話を聞かないとわからなくないか? 見たこととかなら、カメラを取り付けてればなんとかなるのかもしれないけどさ。感じたこととかは無理だろ? そもそも、映像を見てたって言ったけど、撮影されたものとかってことか?」
映像については情報がなく、説明はできなかった。ただ、陽翔に話を訊くという点については、なんとなくわかることがあった。陽翔に確認を取らずとも、彼の意識が湊斗に伝わっているかどうか調べるのに、湊斗の話を聞くだけで事足りるだろうことは、察しがついていた。
「緒方さんはもうおわかりかと思いますが、僕と兄は性格が違っています。真逆と言ってもいい」
湊斗の言葉に、新は納得したように黙り込んだ。頷くことはしない。
明るく、人懐こい性格の陽翔に、大人しく、引っ込み思案の湊斗。楽観的に物事を捉えられる兄に対し、取り越し苦労ばかりしてしまう弟。
「性格だけじゃなく、得意科目も違いました。兄は文系でしたが、僕は理数の方が好きだった。研究所で、テストを受けたりしてたって話したと思うんですけど——そうです、国語とか算数とかのテスト。文系科目の点数が悪いと、あからさまに嫌な顔をされました。実際言われたこともあります。『算数よりも国語の点数が悪いですね』と。それで、ああそれじゃあダメなんだと、わざと算数の点数が低くなるように解答したこともあります。その時は何も言われなかったので、それ以降は彼が喜ぶような点数を取る癖はついてましたね」
自分ばかりが話していたことに気づき、湊斗は気まずくなった。紛らわすように、陽翔について質問する。先日は、二人の関係性について簡単にしか話を聞けなかったので、新から見る陽翔がどんな人だったのか訊ねた。
陽翔はとにかく明るい人間だったという。いつでも周りに人が集まってくるタイプだった。彼のまわりはいつも笑顔で溢れていた。人見知りもせず、いろんな人に声をかけては、友達の輪を広げていった。新に声をかけたのも、陽翔からだったという。
「前にも話したけど、陽翔とは大学の同期なんだよ。俺、こんな見た目だし、口調もきついせいか、人が寄ってくるなんてそうそうなくてな。別に、大学行ってまで仲良しこよしするつもりもなかったから、一人でもよかったんだけど。陽翔はそういうのほっとけなかったみたいで」
同情的な扱いに、最初は突き放していたと、新は言った。他にいくらでも友人がいて、自分と付き合うメリットは何もない。適当にあしらっていれば、他の人間同様、そのうち離れていくだろうと踏んでいた。
しかし、陽翔はしつこかった。大学一年の頃、同じ学科とはいえ、全学共通の授業はほとんどかぶっていなかったにも関わらず、廊下ですれ違う時には必ず声をかけてきたし、昼食も何かにつけて同席するタイミングを図っていた。
最終的には陽翔の粘り勝ちだった。
「拒否するのも疲れんだよ」そのときのことを思い出しているのか、辟易したようにため息をついた。「何より腹立つのは、あいつ、引き際がしっかりしてんだ。これ以上踏み込んできたら許さねえってところには、絶対に入ってこねえんだよ。わかっててやってんだろうな」
今でもムカつくわ、とこぼす。口調こそ苛立ちを含んでいるのに、表情は今までで一番穏やかだ。
「何にやついてんだよ」
初めて会った頃の新を思い出していると、自然と顔が緩んでいたようだ。ソファに深く腰かけ、背もたれに体重をのせてくつろいでいる新を見て、リラックスしてくれているのだなと、緩んだ口元を隠すようにアイスコーヒーを口にした。
「単純な疑問なんだけどさ」ストローで氷をつつきながら、目線を落とす。「湊斗が研究所を出られた理由はなんだ? 説明はあったのか?」
「詳しい説明は特に……気づいたら今の家にいて、メモが残されてました。『自由に過ごしていい』って」
新は訝しそうに眉をしかめると、上の方を見た。
「装置ができたってことか? それでもうお払い箱に?」
湊斗はかぶりを振る。「わかりません」
「そうだよな」新は背もたれに体重をのせ、天井を仰ぐ。が、すぐに戻ってきた。「何もわからんけど、ひとつだけわかったことがある」
「なんですか?」
「その研究所の人間は、自分勝手だということだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます