2-5 三好家

 壮亮は時計を気にしていた。

 デスクにて、今日行った実験内容をノートにまとめたり、データ解析のためにパソコンに向かっていたが、さほど時間はかからなかった。今日中に終わらせるべきことは完了しており、二十分ほど前からソワソワしていた。「このあと何か予定が?」と同僚に訊かれるほど、いつもと様子が違っていた。

 確かに予定はある。デートかと茶化してくる同僚に、そのようなものだと返してはみたが、浮かれるようなものではなかった。

 約束しているのは女性だが、色めき立つようなものではない。何せ、女性とはいえ、相手は姉なのだ。

 姉のあおいは、壮亮にとって唯一の家族だ。両親はいない。幼い頃に亡くなっている。病気や事故で亡くなったのではない。殺されたのだ。

 事件は、壮亮が小学六年生のときに起きた。修学旅行から帰ってきた日のことだった。

 壮亮たちを乗せたバスが小学校へと帰り着くと、すでに保護者が彼らの帰りを待っていた。壮亮のところは両親揃って来てくれるという話だったが、二人の姿はない。予定より少し早くバスが到着したからだと言い聞かせながら迎えが来るのを待っていると、血相を変えた担任が駆け寄ってきて、壮亮に告げた。

「落ち着いて聞いてね」壮亮の肩にのせられていた手が震えていた。「ご両親が亡くなったって」

 壮亮はわけがわからないまま、連れられるままに警察に向かった。病院じゃないのかと、漠然と思った。

 警察署に着くと、そこには碧がいた。黒目に光はなく、呆然とどこかを見つめていた。

「姉ちゃん?」

 壮亮の呼びかけにも反応しなかった。それでも何度か声をかけるうちに、光の入っていない目が壮亮を映した。

「壮亮……?」

 声を発した瞬間、碧は駆け出し、壮亮を抱きしめた。

「ごめんね、壮亮。ごめんね」

 碧は謝罪の言葉を繰り返した。泣いてはいなかったが、声も、壮亮を抱きしめる身体も震えていた。

 壮亮は何が何だかわからなかった。見ない方がいいと強く勧められたので、両親の亡骸は見ていない。全身を覆うようにかけられていた白い布は、布団を被せたときの形とは違っていた。ところどころへこんでいるように見えた。

 両親の死因は、鋭利な刃物で刺されたことによる出血死だった。刺し傷はひとつではなかった。背面も前側にも複数箇所、刺し傷があったという。

 両親を殺した犯人は、壮亮の父に恨みを持つ人物だった。以前、電車内で痴漢行為をしていた犯人を壮亮の父が捕まえ、警察に突き出したことが殺意が生じた原因だったという。完全なる逆恨みだ。

 事件後すぐに犯人は捕まり、裁判の結果、実刑判決を受けている。

 残された姉弟は細々と暮らすことになった。当時、壮亮は十二歳、碧は十八歳だった。大学受験を控えていた彼女は進学を諦め、働きに出た。碧が親代わりをしていた。壮亮は、彼女に育ててもらったといっても過言ではない。

 三好夫妻は生命保険に入っていた。他に、犯罪被害者遺族に支給される給付金をもらえたと聞いているが、生活は豊かではなかった。高校卒業後、資格を取る余裕もなく仕事に就いた碧の給料では、弟と二人、養っていくには心許なかった。

 そんな姉に、大学に行きたいとは言い出せなかった。学費は自分で出すと早くから決めており、そのためのアルバイトも貯金も地道にやっていたが、肝心なところで打ち明けられずにいた。碧が諦めた大学進学を、望んでもいいのだろうかと後ろめたさがあった。

 しかし碧は、そんな弟の本音に気づいていた。

 ある日、学校から帰った壮亮を、話があるといって呼び止めた。碧は仏壇の前に座っており、目の前に座るよう、ぽんと叩いて示したので、変な緊張が走った。

 碧が正座をしていたので、壮亮も合わせる。

 碧は一枚の通帳を取り出すと、壮亮の前に差し出した。通帳には壮亮の名前。

「ここに五百万入ってる。これで大学行きな」

「え?」壮亮は目を見開いた。「何、どういうこと?」

「お父さんとお母さんが貯めてくれてたお金なの。あのあとも少しずつだけど継続してて。国公立の四年制なら、これで学費くらいは払えるでしょ?」

 碧は「生活費とかはわたしが働くし」と胸を叩いた。

 壮亮は素直に通帳を受け取れなかった。喉から手が出るほど嬉しい申し出だが、葛藤は残る。

 碧は、弟の懸念をすべて言い当てた。その上で何も問題ないと、壮亮が気にすることではないと説得された。

 さらに、大学を機に一人暮らしをしてみたはどうかと提案した。驚かないわけはなかった。碧の考えとしては、一度くらいは一人暮らしを経験しておいた方がいいというもの。そうすれば、後々選択肢も増えるだろうと。

 二人だけの家族会議は、しばらく続いた。家を出たい気持ちがないわけではない。何より、離れることで、姉を解放したいと思う気持ちもあった。両親が亡くなってからずっと壮亮にかかりきりなことに、申し訳ない気持ちが生まれないはずがない。煩わしさから、壮亮に一人暮らしを提案したわけではないということもわかっていたので、なおさら決めあぐねていた。

 結局、碧の意見が通った。大学は、家からでも通えない距離ではなかったが、家族会議の決定通りに一人暮らしを始めた。家を出たあとも連絡は頻繁に取っていたし、一緒に食事にも出かけた。実家にもよく顔を出した。その習慣は、今でも継続している。

 学費に関しては、少しばかり世話になったが、生活費は自分で工面した。大変なこともあったが、一人暮らしは何かと学びがあった。何より、碧の苦労を少しでも知る機会になったと思っている。感謝の気持ちも、改めて生まれた。

 大学卒業後、研究に興味を持ち、大学院に進学した。授業料免除がもらえたので、そういう面では碧に迷惑はかけていないと思っている。ほんの少しだけ。

 就職して、自分で稼げるようになってから、少しずつ家にお金を入れるようにしていた。遅くなったが、これまで苦労をかけた分の恩返しだ。最近仕事が増え、その分もらえるお金も少しだが増えたので、その増えた分は丸っとそのまま碧に渡していた。碧はためらっていたが、ここは壮亮が押しに押した。

 就職してからも、一人暮らしは続いている。それでも会おうと思えば、いつでも会える距離にいるので、時間が合えば食事に出かけていた。実家に戻って碧の手料理を食べることもあったが、外食することも多かった。

 食べるものは、その時々で決め方が変わる。碧が人から聞いて、その店に行きたいと言い出すこともあれば、壮亮が提案することもあった。

 今日は碧からの誘いということもあり、彼女のセレクトだ。粉物が食べたくなったということで、お好み焼きを食べにいくことになっている。

「お疲れ」

 待ち合わせ場所には、すでに碧の姿があった。が、碧一人ではなかった。

 彼女の背から覗かせた顔は、見知ったものだった。弁護士の国木くにきという男性だ。最後に会った時より、髪に白いものが多く混じっている。正確な年齢はわからないが、実際よりも老けて見えるだろう。

「お久しぶりです」

「偶然お会いしたの。このあとお時間あるとおっしゃられたので、食事に誘っちゃった」

 一緒にいいでしょ? と訊く碧に、壮亮は頷いた。それは構わないが、場所が気になった。アイロンの効いたシャツにきちんとネクタイをしめ、お堅い仕事をしているこの人は、果たしてお好み焼きという庶民的な食べ物を食べにいくだろうか。

「お二人の時間に割って入ってしまって」国木が眉を下げる。

「お気になさらず。姉が無理に誘ったんでしょうから」

 聞けば、行き先も了承済みらしい。壮亮の懸念は無駄に終わった。気を遣われているだけかもしれないが。

 碧に連れられてやってきた店は、昔ながらといった佇まいだった。ガラス戸は白いペンキか何かが吹き付けられているのか、中が見えなくなっている。

 暖簾をくぐり、中に入ると先客が散見された。飲み会終わりの二次会に利用されることが多い店だという。夕食の時間帯なら穴場の店なのだと、碧は自信ありげに言った。

 お好み焼きと焼きそばをいくつか頼み、シェアすることになった。

 焼きそばは店の人が焼いてくれるということで、お好み焼きのタネを混ぜ合わせながら、改めて軽い挨拶を交わす。

「ご無沙汰しております」

「先生の方はお変わりありませんか?」

「はい、おかげさまで。それにしても、会わない間にずいぶん大きくなりましたね——って、そんなふうに言ってしまうのも失礼でしたかね」

 国木に初めて会ったのは、壮亮が十二歳の頃だ。もっと正確にいうと、小学校に上がるかどうかという時分に会っているのだが、壮亮の方には記憶がない。

 国木は、父が捕まえた痴漢事件のときに、被害者側の弁護に立った弁護士だ。そのときは、さほど関わりはなかったのだが、彼とは後に再会することになる。喜びの再会ではなかった。彼と二度目に顔を合わせたのは、両親が亡くなったあとだった。壮亮ら姉弟は、国木に何度も助けてもらっている。

 まだ幼かった姉弟に、親戚たちは誰も救いの手を差し伸べてはくれなかった。むしろ生命保険が入ったのだからと、金を無心してくる人もいた。当時の壮亮にはわからない話で、相手はすべて碧が請け負っていた。だが、碧もまだ若く、ひとりでは到底太刀打ちできなかった。

 そんなとき助けてくれたのが、国木だった。

「よく頑張りましたね」

 国木が家にやってきたとき、彼は最初にそう言った。眉も目尻も垂れ気味で、目尻にはしわも携え、温厚そうな雰囲気そのままに、穏やかな口調だった。

 国木は、親戚の前でも強い口調を出すことはなかったが、あっさりと追い返してくれた。二度と無心に来る者はいなかった。

 お金に関しては、もうひとつ請求できるものがあった。両親を殺した犯人に対して賠償金を求めるものだ。しかし、碧は賠償請求を行っていない。そのことは後に、国木から聞いた。

 裁判費用がかかることもだが、ほとんどの賠償金は被害者遺族に支払われることはないという。犯罪を犯した者に、支払い能力がない場合が多いからだと。

 国木は碧にそのことを説明し、どうするか一緒に悩んだという。心身状態を見ても厳しそうだからと、結果、請求しなかった。代わりに、国から遺族給付金をもらっている。

 基本的には、国木との話し合いは碧が担当していたので、壮亮が彼と顔を合わせることはほとんどなかった。高校を卒業したあとは家も出たので、なおさら減少した。今でも関わりがあるかどうかも、今日国木と会うまで知らなかったし、考えもしなかった。

 三好家の暗黙のルールとして、あの事件に関する話はお互い触れないようにしていた。碧も話題にしなかったし、壮亮も持ち出すことはしなかった。触れられるはずがなかった。壮亮は見ていないが、碧は両親の悲惨な現場を目の当たりにしている。彼女が第一発見者だったのだ。

 碧が壮亮の前で取り乱したことは、一度だけだった。警察に連れて行かれ、対面した際に謝罪の言葉を繰り返していた、あの一回だけだ。涙を見せたこともない。おそらく、一人になったときに泣いていたのだろう。そのことが、大人になった壮亮をひどく痛めつけた。

 直接の関わりはなくとも、あの事件を想起させる人物と関わることは、碧にとって負担はないのだろうか。

 伺うように碧を盗み見るが、彼女は笑いながら、国木と会話を楽しんでいた。またしても無用な心配だったのかもしれない。

 碧がお好み焼きにソースを塗っているところに、焼きそばが運ばれてきた。塩ベースのソースは、お好み焼きとは違った香ばしい香りを漂わせている。どちらも空腹を増長させた。

「壮亮くんは研究者なんだってね」

 碧さんから聞いたよ、と顔を綻ばせる。壮亮は苦笑いで返した。できれば、その話題には今は触れてほしくなかった。

 壮亮の願いが届いたのか、国木のスマホが鳴った。着信らしい。国木は一言断りを入れると、立ち上がり、店の外へと出て行った。

「姉ちゃん、国木先生と会ったりしてたの?」

「ううん、今日は本当にたまたま会っただけ」

「そうなんだ」お好み焼きを一切れ取り、皿にのせてマヨネーズをかけた。「てっきり、何か相談でもしてるのかと思ったよ」

「相談って?」

「いや、わかんないけど。何か国木先生じゃないと話せないこととかがあるのかなって」

 碧は首を傾げた。壮亮も自分が何を言っているのかわからなくなっていた。

 眉を下げ、戸惑う壮亮に、碧はくすっと笑った。

「壮亮、今迷ってることがあるでしょう」

「え、何?」

「壮亮が何を話していいか、何を話しているのかわからなくなってるときって、だいたい何かに迷ってたり、困ってるときなの」

 知らなかった? と、なぜか得意げな顔をしていた。

 確かにそれは、知らない一面だった。今までにもそんなことがあっただろうかと思い返してみるが、何ひとつ記憶にない。

「迷ったときは、興味がある方。もしくは楽しいと思える方に、だよ」

「何それ」

「わたしの名言。正しいかどうかは、結果が出てみないとわからない。なら、やりたいこと、楽しいと思えることをした方がいいと思わない?」

 自分で名言だと言ってしまうところに、笑ってしまう。二人して笑っていると、戻ってきた国木が不思議そうな顔を浮かべていた。


 食事を終え、碧を送り届けてから、壮亮は国木と二人、肩を並べて歩いていた。方向が同じだからと、断る理由を見つけられなかった。

 国木は小柄な男性だった。壮亮もさほど背が高い方ではないが、それでも彼の顔を見るのに目線を下げなければならなかった。

 小さく、温厚そうな表情で、クセのある親戚たちを追い払った国木。この男はどんな人物なのだろう。壮亮が見ていない、奥底に秘められた何かがあるのだろうか。

「私の顔に何かついていますか?」

 無意識のうちに、視線を向けすぎていた。壮亮は慌てて弁解する。国木は笑っていた。気にしている様子はなかった。

「壮亮くんとは一度、ゆっくりお話ししたいと思っていたんです」

「僕と、ですか?」

「ええ、訊きたいことがありましてね」

 国木と壮亮の共通の話題といえば、あの事件のことしかない。国木の話というのも、やはりそのことだった。

「蒸し返すようで申し訳ありませんが」と前置きしてから始めた。「壮亮くんは、ご両親の事件に関する判決について、納得されていますか?」

 壮亮は言葉に窮した。考えたことがなかったからではない。明確な答えを持たなかったからだ。

 両親が殺害された事件の被告は、第一審で死刑判決を受けた。すぐに控訴したが、覆ることはないだろうと言われていた。被害者は二名だったが、殺害理由、犯行の計画性などから極刑に値すると、裁判が始まる前から騒がれていたからだ。

 しかし、被告側についた弁護士は、とても優秀だった。その優秀さは、みなの予想を裏切った。最終的には、一審よりも減刑された形で結審した。

「正直なことをいうと、わからないです」

 無理もないというように、国木は頷いていた。おかしな質問をして申し訳ないと、眉を下げた。

 しかし、壮亮がわからないと言ったのは、違う理由だった。被告が受けた刑は、無期懲役だ。法律や厳罰に詳しくない壮亮は、その二つの違いがよくわからない。生死の違いだろうか。わかるのは、どちらももう二度とあいつと顔を合わせることはないということだった。

 両親の死を経験し、壮亮は犯罪——特に人を殺す行為に及んでしまう心理に興味を持った。どうして人を殺してしまうのか。殺したいと思う心理とは。なぜ、両親は殺されなければならなかったのか。

 本当のことをいうと、大学で犯罪心理学を学びたいと思っていた。専攻もその分野を選びたかった。が、いざとなると、碧の顔がチラついた。碧にそのことを言えるのかと、内なる壮亮が問いかけてきた。答えは「ノー」だ。それでなくとも、事件のことは禁句だというのに、弟が事件のことを引きずっているなどと思われたら、姉はより深く傷つくだろう。

 結局、壮亮は工学の道に進んだ。研究者の道を選んだ。

 趣味として、専門書を読むくらいは許されるだろうと、犯罪心理につながる著書はそれなりに読んできた。だからだろうか。犯罪者の意識を書き換えるなどという研究に携わることになったのは。何の因果もないとは思えないが、考えすぎなようにも思う。篠崎も意味深なことを言っていたが、壮亮が犯罪心理に興味を持っていることなど知らないはずだ。碧はおろか、誰にも言っていないのだから。

「僕も、先生に訊きたいことがあるんですけど」

「何でしょう?」

「あの人から、謝罪の言葉はあったんでしょうか?」

 国木の表情が翳りを見せた。暗くてはっきりとはわからないが、見間違いではないだろう。

「一応、謝罪の言葉はあったとされています」

 その言い方に含みを感じる。

「彼の謝罪は、減刑のために、彼の弁護士が言わせたものでしょう。そこに心なんてものはこもっていない。彼は非常に怒っていましたからね。だから刑期がある判決には至らなかったのですが」

「怒ってた? 判決に対してですか?」

 国木が壮亮を一瞥する。「壮亮くんは、いくつになりましたか?」

「歳ですか? 今年で三十二になります」

「それなら、もう聞いても十分でしょうか。あまり耳にいい話ではないですが、聞かれますか」

 ここまできて、聞かないという選択肢はない。

「彼はね、正当なことをしたんだと主張していたんです。自分を不幸に陥れた人間に、罰を与えたんだと」

「それは、父が痴漢事件を起こしたあの人を捕まえて、警察に引き渡したことを言ってるんですか?」

 国木は頷く。「彼はそれ以来、世間から白い目で見られるようになったそうです。肩身の狭い思いをしなければならなくなった。三好さんが見逃していたら、今でも普通の生活が送れたのに、と」

 自分勝手な主張です、と苦々しく口にする。

「いじめも似たようなところがありますよね」

 国木の話を聞きながら、ふと昔、碧が父に泣きついていたことを思い出した。あれは碧が中学生の頃だったろうか。学校から帰ってくるなり、碧は自室にこもってしまった。夕食もいらないという。こんなことは初めてだった。

 何かあったときに、碧が相談するのは父だった。もちろん、父に相談できないことは母に話していたのだろうが、基本的には父が宥める役だった。

「中学の時、姉のクラスでいじめがあったらしいんです。標的は女の子一人で、対して相手はクラスの女子ほぼ全員。姉が仲良かったグループは特に関与していなかったそうなんです。そのいじめられていた子とも、いじめている親玉みたいな子とも、さほど仲良くはなかった。でも、その子がいじめられているのはわかったらしいんです」

「無視されているというだけでも、クラスメイトは気づくものですからね」

「姉は何度かいじめられている子に話しかけようとしたらしいんです。でも、できなかった」

 碧は小学生の頃、同じようにいじめられている子がクラスにいた。その子へのいじめは、無視するというものだった。父親に似て正義感の強かった碧は、いじめられている子にも積極的に話しかけたし、いじめている子たちにも向かっていった。そんなことやめなよ、と。そして大人にも頼った。

 けれど、すべて無意味だった。そのことに気づいたのは、自分が無視されるようになってからだった。驚くことに、碧がかばった子も口をきいてくれなくなったという。

 そんなことがあり、碧は臆病になった。声をかけようとするが、声が出ない。重しを持っているかのように、その場に立ちすくんで動けないのだ。

「姉は自分を責めていました。見て見ぬふりをしているのと変わりない。いじめている子たちと、何も違わないって」

「それは違うと思います。確かに、見て見ぬふりをして、何も行動しなかったら非難されることもありますが、碧さんの場合は、またそれとは違う」

「僕もそう思います」壮亮は弱々しく笑った。

「父もそのようなことを言って慰めたんです。でも姉は『お父さんだったら、見て見ぬふりなんてしないでしょ?』って」

 壮亮は碧のことが心配で、部屋の前で二人の話を聞いていた。父が何と返すのか、気になった。

「父は、そのいじめられている子には申し訳ないけど、碧が傷つけられるのは見たくないって言いました。ない方がいい勇気もあるんだって。でも、逆の立場なら同じことは思えない。だから、本当はいじめ自体がなくなればいいんだって。いじめられている子に対してどうこうしようじゃなくて、いじめている側をどうしたらいいのか、そっちの対応をもっと考えるべきなんだって」

「日本を離れると、そういう考え方もあるんですけどね。現状、日本だと弱い者が逃げないといけなくなる。守っているつもりでいて、何の助けにもなっていない。私自身も身に染みます」

「弱い者に味方した人に対しても、風当たりが強いですよね。僕も……父たちのことがあって、考えたことがあるんです。父さんは間違ったことをしたのだろうか、と。だから、殺されてしまったのだろうか、と」

 答えはすぐに出た。否、だ。そんなわけはない。そんなこと、あってはいけない。間違っているのは、自分が犯した過ちを認めず、逆恨みの結果、人を殺してしまう人間の方だ。

「父さんは間違ってない。たとえ、その結果殺されてしまったとしても、恥じるようなことは何ひとつない」

 正義感なんて出さなければよかったのにね、と陰口を叩かれたとしても。

 そんな人はいないだろうが、もし仮にいたとして、碧の耳にそんな心ない人の言葉が届かなければいいなと思った。

「不条理な世の中ですからね」

「割り切れません」

 国木の言葉には重みがあった。壮亮よりもやりきれない状況を経験しているのだろう。不条理なんてものは、彼の界隈では常なのかもしれない。

「碧さんにも」独り言のように、国木が呟く。「同じことを訊いたことがあるんです。判決について」

「姉は何と?」

「判決には納得しているとおっしゃっていました。死んでほしいと思ったことがないといえば嘘になるけど、親の仇を取りたいと考えたこともないと。薄情かもしれないけど、と」

 そのときの碧の表情を想像した。

「あの人が死んだところで、両親が戻ってくるわけじゃないですもんね」

 国木は笑った。「碧さんも同じことをおっしゃっていました。許せないけれど、許すとか許さないとかも考えたくない、と。ご両親が生きていたらということは何度も——今でも考えてしまうと言っていましたけどね」

 それは、両親がいなくなる状況は同じでも、壮亮がいなかったらと、壮亮が考えているのと似ているような気がした。自分がいなければ、両親があのタイミングで殺されてしまったとしても、碧だけなら、彼女は大学に進学できただろう。楽ではないかもしれないけれど、望んだ道に進めたかもしれない。

「碧さんはこうも言っていました」

 壮亮は隣を見下ろす。国木は前を向いたままだ。

「『壮亮がいてくれてよかった』って」

 壮亮の心のうちを読んだわけではないだろうが、あまりにタイミングがよすぎる言葉に、壮亮は不意を突かれた。じわじわと涙が込み上げてくる。

 暗闇でよかったと思った。この涙は、人知れず置いていきたかった。

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