2-4 新しい一日

 時計の針が五時をさす。それが合図となったかのように、杪谷ほえたにすばるは目を覚ました。二度寝をすることなく起き上がると、布団を畳んで押入れにしまう。服を着替えて、台所で顔を洗った。タオルで水気を拭き取ると、目の前に置いてある小さな鏡を見る。

 今日も変わらないか——

 鏡に映る自分の顔を見つめ、昴はため息をついた。なぜか、自分の顔に一向に慣れずにいた。

 この顔を見たとき、外側に新しい顔が貼り付けられているのかと思った。小さくはないが一重の目に、鼻は小さめ。顔の輪郭はどちらかというと角張っている。そんな顔の、薄いお面のようなものが貼り付けられているのだと。

 剥がそうと顎のあたりを掻いてみたが、ダメだった。

 それならば水につければ取れるだろうと洗ってみたが、効果はなかった。洗顔料を試してみたり、石鹸を使ってみたりしているが、どれも意味をなさなかった。

 なぜそんなことをしているのか、どうして顔に違和感を感じるのか、昴にはわからなかった。ただ、表に出ている顔の下に、もとの顔が隠されているはずだと、信じてやまなかった。しかし、もとの顔とはなんだ? と疑問に思う。もとの顔とやらがどんな顔だったのかは思い出せなかった。自分の顔なのに、おかしな話だ。鏡を見たことがなかったのだろうか。

 子どもの頃からずっと?

 幼少期の記憶をたどろうとしたが、何も思い浮かばなかった。

 最初こそ戸惑いを隠せなかったが、今となっては毎朝のルーティーンのように——朝食はコーヒーだけですませてから、家を出ると決めているといったように——ただ、習慣として行っているだけのことだった。

 台所横に置いてあるラックから食パンを取り、シート状のチーズを載せてトースターで焼く。インスタントコーヒーを淹れれば、いつもの朝食の完成だ。

 朝食をすませると、昼ごはん用のおにぎりをつくる。大きめのものを二つ握り、タッパーにたくあんを入れた。

 食器を洗い、歯を磨くと、トートバッグに弁当と作業服を入れて家を出た。

 職場までは歩いて行っている。歩いて三十分はかからないほどだが、その距離を毎日往復歩いていると話すと、多くの場合驚かれる。自分は歩けない、と個人の感想を返されることもあった。

 仕事は朝八時から、夕方四時まで。間に一時間の休憩がある。

「杪谷くん、おはよう」

「おはようございます」

 職場である工場につき、挨拶を交わしながら更衣室に向かう。ロッカーにかばんを入れ、作業着に着替えた。

 ロッカーを閉める手に目がいく。顔もそうだが、手にも違和感があった。潤いはなくガサガサしていて、ところどころ傷がついている。顔も、自分の感覚としてもまだ二十代くらいだと思っているが、目の前でロッカーを開けようとしている手は、どんなに見積もっても四十代のそれだった。五十代だと言われても、そうかと頷いてしまうんだろう。

 休憩中にもよく手を見ていたのか、見かねた同僚がハンドクリームをくれたことがあった。新しいものが出たら買う、ということを繰り返していたら、相当な数になったのだという。使うことはそうないらしく、溜まっていく一方なのだとか。

 ありがたく塗っているのだが、改善する気配はない。

 全員揃ったところで、ラジオ体操が始まる。そのあとに朝のミーティングがあり、本日の作業予定を確認する。ミーティングが終わり、持ち場につけば仕事開始だ。

 この工場では、瓶やプラスチック容器などの製造を行っている。製造した容器を検品、整理、梱包し、出荷するところまでが一連の工程だ。

 この中で昴は、瓶の整理と梱包の部分を担当している。ベルトコンベアで流れてきた瓶を前のラインの人が検品し、振り分けたものを種類ごとに箱に詰める。

 作業は黙々と一人で行う。仕事のことでなければ、作業中に誰かと喋ることはない。作業内容としても、必要以上に人と話さなくてもいいということも、昴にとっては楽な職場だった。勤め始めてまだ日は浅いが、苦に思うことは今のところなかった。

 正午になり、機械が止まると、一斉に休憩に入る。休憩は、工場内にある食堂か、休憩所として開放されている部屋でとることになっている。デスクを持っている部署の人間は、そこで休憩しているという話も聞いたことがあった。事務系の制服を着ている人は、外に出て行っているところを目撃したこともある。

 昴は、休憩所で昼飯を食べることが多かった。誰かと一緒に食べることはなかったが、近くにいる同僚が声をかけてくることもあった。昼はいつもおにぎりだけだという昴に、おかずを分けてくれる人もいた。

「あら、杪谷くん、また今日もおにぎりだけ?」

 斜め前の席に腰を下ろしたのは、同僚の佐々野だ。以前、昴におかずを分けてくれたのも、この女性だ。

「昨日の残り物なんだけどね、もしよかったら食べて」

 佐々野はタッパーを二つ、昴の前に差し出した。中身は卵焼きと酢豚だった。卵焼きは今朝作ったものだと、慌てたように訂正した。

「いつもすみません。いただきます」

 佐々野に対して断る方が大変だということは、最初に学習していたので、ありがたく頂戴する。卵焼きは甘めの味付けだった。

 休憩が終わると、午後の業務をこなし、定時で上がる。

 まっすぐ帰ろうと帰路についたが、食パンが少なくなってきていたのを思い出し、昴はスーパーに寄ることにした。

 そして今日もまた、一日が終わる。

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