2-3 被験者
電車に揺られながら、壮亮は考え事をしていた。
研究所に出るのが遅くなり、疲労感とともに乗り込んだ電車は、帰宅ラッシュほどではないが混み合っていた。乗り込んだ扉付近にそのまま陣取り、明かりが灯る景色を眺める。
篠崎から話を聞いたときにはすでに、死刑囚への意識移行は始まっていた。緑色に点滅する光は、まさに移行の最中だったのだ。壮亮は現場を目撃していた。初めてその事実を知ったとき、しばらく食欲が出なかった。
先行研究についてもそうだ。
篠崎の話はどこか浮世離れしていて、理解はできるのに、身近な話どころか、現実の話として受け入れられなかった。しかし、すべては本当に起きていたことだった。
先行研究として、機械開発のための調整に用いられていたのは、双子の兄弟だった。聞けば、十歳にも満たない時分から、被験者として研究に協力してもらっていたという。意識、人格のデータを集めるだけでなく、実際に移行までしていたというのだ。
失念していたが、意識移行には意識を共有する人物が必要となる。授受するのは死刑囚だが、彼に意識を提供するのは誰なのかと訊ねると、双子の片割れが担当するという。双子実験のときにも共有していた方かと訊くと、そうではないという返答が戻ってくる。先行研究で意識を受信していた側が、今回共有する側にまわったのだと。
本研究において、死刑囚はレシーバー、双子の片割れはセンダーと呼ばれることになった。
もともと意識を共有していた方はどうしたのかと、疑問に思う。もっともな疑問を投げかけると、行方がわからなくなったのだと、篠崎は小声で呟いた。
「身内がいなくなった状態で意識共有するとなると、平常時と違いは出ないんですか? 影響したりしないんでしょうか?」
「それは大丈夫です。今回共有する方は、片割れがいたことすら知りませんから」
壮亮は首を傾げた。あまり一緒に暮らしていなかったと聞いてはいたが、兄弟がいたことすら知らないというのは、どういうことだろう。
いくら待てども、続く説明はなかった。
もうひとつ、疑問に思うことがあった。双子実験は長い間行われていた。被験者が未成年の頃から行われている。未成年となると、親の承諾が必要となる。片方は研究所で預かっていたというのだから、驚かないわけがない。我が子を被験者として提供した親の神経を疑わずにはいられない。
篠崎は、双子の母親に会ったことがあると言った。研究の説明をしたときに顔を合わせたのだろう。
彼はそのときのことを思い出したかのように、表情を崩した。「あれは親ではありません」
自宅に帰りつき、かばんを床に下ろして洗面所に向かった。まず手を洗う。石鹸で丁寧に。外から帰ってきたら、必ず行っていることだ。
ご飯を食べようと冷蔵庫を開けてみたが、めぼしいものは入っていなかった。思えば、しばらく買い物にも行っていない。
仕方がないので、棚からカップ麺を取り出し、ケトルでお湯を沸かす。
一人暮らしの部屋には荷物が少なく、寝るためだけに帰ってきているようなところがある分、散らかることはほとんどなかったが、食生活の面からするとかなり悪い方だった。今の生活がバレたら、即実家に引き戻されるだろうなと自嘲する。
研究に参加する際に、不安なことはもうひとつあった。
場所は極秘といえど、同じ建物内で、まったく悟られることなく移動ができるのだろうかと疑問に思った。だが、それも最初の一瞬だけだった。
話を受けた翌日、出勤時、入口をくぐった壮亮は、注意深くあたりを見まわした。人の姿はなかった。エレベーターにも一人で乗り込み、一人で降りる。研究室に入ってから、やっと人影を見た。言葉も交わす。帰りも同様だった。
思い返してみれば、確かに入口で人と遭遇することはほとんどなかった。勤務形態が人によって異なるからかもしれない。
篠崎に連れられるまで、開けたこともなかった扉を開けている人を見たことがなかったのも、そのせいだろう。その扉が、かなり奥まったところにあり、そもそも人の目が届かないというのも要因のひとつだ。
ひとまず、目撃されるかもしれないという懸念は消え去った。
麺をすすりながら、先日見た映像を頭の中で反芻した。
新しく研究に携わることになり、被験者となる人物の資料にはあらかじめ目を通していた。
被験者の名は、潮部あたる。三八歳。高校までの成績は悪くなく、大学もわりと名の通ったところに進学するも中退。仕事は長くは続かず、転々としていた。親しい友人はいない。学生時代のクラスメイトに話を訊くと、潮部は同級生だけでなく、教師を前にしても見下しているようなところがあったという。物言いも上からで、不快感を感じることが多く、自然と人が離れていくタイプだったと語っている。
父親は金融会社に勤めていた。子育てには一切関与せず、大学中退に際し、世間体を気にして縁を切るなどと豪語したらしい。母親はそんな夫に頭が上がらず、すべては自分のせいだと嘆くだけで、何もしなかった。悲劇のヒロインを気取っているタイプだと、逮捕当時、話を聞いた刑事がメモを残している。
潮部が最初に事件を起こしたのは、大学を中退して間もない頃だった。
電車を乗り継ぎ、一時間以上離れた見知らぬ土地で、見ず知らずの人間を刺し殺している。刺された箇所は二つ。一箇所は向かって心臓の左側、もう一箇所は肋骨を削りながら心臓に到達していた。
その次の事件も、またその次も、彼が起こした事件ではもれなく心臓が狙われている。
それでも連続殺人であり、犯人が同一人物だと絞り込まれたのは、最初の事件が起きて一年ほど経ったあとだった。
資料の中には、取り調べや裁判の映像などもあった。被験者は殺人犯であり、死刑囚だ。事件が起きたとき、容疑者として浮上したとき、逮捕されたとき、死刑が決まったときには世の中のほとんどの人が大騒ぎしていた。テレビや週刊誌などでも大きく取り上げられていたが、報道される情報は当たり前だが第三者が伝えたものだ。写真を見たことこそあれ、喋っているところを見たことも、聞いたこともなかった。報道で「謝罪の言葉は一切なかった」と言われていたとしても、それも伝聞に過ぎない。
しかし、取り調べの映像は違う。裁判もだ。声がある。潮部が動いていて、喋っている。
映像は、報道から得られる情報よりも刺激的で、見るに耐えない箇所もあった。
潮部は、殺人を犯した動機について、「心臓を刺すのが好きだから」と言った。
取り調べを担当していた刑事が言う。「それなら肉塊でも刺していればよかったじゃないか」
潮部は刑事に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「あなたは人を刺したことはないでしょう? 人じゃなくてもいい。生きているもの、心臓があるものを刃物で刺して、その鼓動を感じたことはないでしょう?」
潮部の目の前に座っている刑事が、苦虫を噛んだような顔になる。
「やったことがない、あの感覚を味わったことがない人に、あの感動はわからない」
何より、と潮部は開き直ったかのように、微かに笑顔を見せた。
「殺すつもりはなかったんですよ。俺は、あの感覚を味わいたかっただけなんです。ただ不思議なことに、ナイフを刺すとね、振動が弱くなっていくんですよ。どくどくと伝わっていた振動がね、段々鈍くなってきて、ゆっくりになるし、微弱になってそのうちなくなってしまう。あれほど虚しいことはない」
「そりゃあ死んだら、拍動しなくなるだろうよ。出血もひどいし、心臓に直に刃を立てりゃあ、動かなくなるのは当然だ。殺すつもりがなかった? バカ言ってんじゃねえ。お前が殺したんだよ!」
「誤解しないでください。言ってるじゃないですか、殺すつもりはありませんでしたよ。あの振動を感じたかっただけなんです」
取り調べをしていた刑事が前のめりになり、今にも掴みかかろうとしていた。その後ろから別の刑事が割り込み、潮部の方に伸ばされた腕を止めた。
興奮状態の刑事を下がらせ、間に入った刑事が取り調べを代わる。
「殺した相手は、全員知らない人間か? 顔見知りは一人もいなかったか?」
「いません。自分に顔見知りなんて人間いませんから」
「じゃあ、選んだ理由はなんだ? わざわざいろんな場所に足を運んで、殺す相手を見繕ってたのか?」
「理由? そんなものは特にないかな」潮部は悪びれもなく、しれっと答える。「場所も特に考えてないし。強いて言うなら、刺しやすそうだったから?」
刑事が眉根を寄せる。
「肉肉しいやつはだめ。心臓に到達する前に、ナイフが足りなくなる。肉の感触も好きじゃないしね」
映像は、研究チーム全員で視聴した。チームとはいえ、壮亮、篠崎を入れて六名と少数だ。
「人を殺める前に、犬猫を手にかけていたこともあるみたいです」メンバーの一人である関本が説明を加える。「でも、それだけじゃ物足りなくなった。だから」
そこで言葉を切った。あとに続く言葉は、聞かずともわかった。
視聴が終わり、どう思ったのか訊ねられ、各々好きに答えていく。残忍だ、サイコパスだ、と同じような言葉が並ぶ。
意見を求められ、壮亮はずっと思っていたことを口にした。
「最初の事件が起きたときは知らなかったんですけど、いくつか事件を起こして、こっちでもテレビで報道されるようになってから気にかけていたんです。最初の印象は『犯行に派手さもなければ、巧妙でもない』でした。それなのに、どうしてこんなに人が殺されるまで捕まらなかったんでしょう? 犯行は一貫しているのに、連続殺人だと気づくまでにも時間がかかっているし、人付き合いはさほどなかったようなので、匿っていた人がいたとも思えませんが」
「最初は、通り魔殺人だと考えられていたようです。いずれも人通りの少ない場所で、しかも夜に犯行に及んでいたようですから。背後から刃物を刺しているという点も、なんら特別なことはない。これが、刺したあとに何かマークをつけているだとか、指を切断しているだとかの特徴があれば、また話は違っていたのかもしれませんがね」
そんなものだろうか、と思った。
「ただ、三好くんが言うように、確かに犯行を行っている現場を見る限り、計画性は感じられませんね。実際、本人も場所などは適当に選んでいたようですし。頭は悪くはないと思いますが、人を殺すということに関しては、本能の方が強く現れているように思えます」
篠崎は立ち上がると、壮亮の方を見た。
「なぜ捕まらなかったのか、という疑問に関して私の見解を述べるなら、彼は隠れるのがとてもうまかった。その一点につきます」
隣でペンを走らせる音がする。壮亮は続くことができなかった。
映像はいつでも見ることができた。実験の合間に五階を抜け出し、地下に降りて行っては、何度か見ている。回数を重ねるうち、嫌悪感も蓄積していった。
研究のやり方に不満は残るが、被験者が、意識共有により更生できるのか興味はあった。篠崎からも、興味がある分野だと言われていたが、まさに、という感じだった。ただ、このことは誰も知らないはずなので、篠崎が言っていた理由は別のところにあるのかもしれない。
第一段階の最終フェーズは終了している。やつが世間へ解き放たれるまで、もう時間はない。
本日行われたカウンセリング結果を思い起こす。現在のレシーバーは、資料で見た映像のような態度は示すことはなかった。下を向いていることが多かった。見下すような話し方ではなく、口調は穏やか。ぼそぼそと喋る声は、ときに聞こえないこともあったが、根気強く聞こうと思えるものだった。
演技なのではないかと言う者もいたが、壮亮はそう思わなかった。期待する気持ちが強いからかもしれない。
それでも、やつを解放することに、自信を持って大丈夫だと言い切ることはできなかった。
「名前も顔も変えて、新しい人生か」
おまけに職場も用意されて、と静かな部屋でポツリと言葉を落とす。響くこともない。
もとの名前を参考に新しい名前を決めたのだと、メンバーの一人が語っていた。考えるのに一晩かかったと聞いて、その時間の使い方を理解することはできなかった。
食事の手が止まっていた。早く食べてしまおうと口に入れた麺は、すっかりのびてしまっていた。
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