2-2 勧誘

 白いプレートに専用のシールを貼りながら、三好みよし壮亮そうすけはため息をついた。

 頭上から煌々と照らす明かりに、スイッチを押して、消灯したい衝動に駆られる。遮光する必要のある試薬を使用しているにもかかわらず、部屋の明かりを消すことなく、明るい室内で実験を行うことにはまだ抵抗があった。この研究所に就職してから、もう五年は経つというのに、いまだにだ。最初の刷り込みが効いているのだろう。とはいえ、明かりを浴びせた状態でも、おかしな結果になったことはないので、学生時代の恩師が神経質だったことが判明しただけだった。

 壮亮は大学では工学を専攻しており、そのまま大学院に進学している。博士号取得後、ありがたいことに母校で研究を続ける選択肢もあったが、外の世界も見てみたいと、決めた就職先がこの研究所だった。

 学生時代、攻撃性についての研究を行っていた。実際に行動観察をするというよりは、メカニズムを観るために細胞実験を行なっていた。遺伝子を欠損させたり、過剰発現させ、遺伝子発現やタンパクレベルの変化、またはさらに上流、発現を調節しているプロモーターやエンハンサーなどにも着目して実験していた。

 就職に際し、研究内容は遠くないが、実験内容はガラリと変わった。まず、メインで用いるものが細胞からマウスへと変化している。動物実験は、細胞実験と方法は違うが、遺伝子を欠損させて実際に行動を観察したり、脳波を測定することもある。

 学生時代にも動物実験には触れたことがあったが、自分が主体となって行うのはこれが初めてで、最初は戸惑いもあったが、慣れてしまえば問題はなかった。

 この研究所は、いくつかの研究チームで構成されている。研究チームごとにフロアが異なり、壮亮が所属しているチームは研究所の五階にある。

 五階フロアには実験を行う部屋と、デスクワークのための部屋——なぜか「資料室」と呼ばれている——、クリーンベンチが置かれている部屋、大きな機械などが集められた部屋がある。機械はいくつか共同利用のものもあり、別のチームの研究員とも顔を合わせることはあった。

 五階は、壮亮の所属チームの他に、もうひとつ研究チームが部屋を構えているので、そういう意味でも、同チーム外の人とすれ違うことはあった。

 動物を飼育するための部屋は、研究所の最上階、十二階にある。各一人に配布される暗証番号と、指紋認証でしか扉は開かないようになっている。たまに指の調子が悪いときには、指紋が認証されず困ることもあった。

 壮亮の研究所での行動範囲は、五階と動物研究センターの十二階、それからたまに利用する食堂だ。食堂は地下一階にある。研究所のまわりにはコンビニすらないので、出勤前に買ってくるか、もしくは家から持ってくるか、はたまた食堂に駆け込むかの三択だ。

 測定が終わったプレートを持ち、実験室を出た。データ解析のために資料室へ向かおうとしていたところで、声がかけられる。

「三好くん、順調ですか?」

 声をかけてきたのは、直属の上司である篠崎しのざきだ。四十代後半には見えないほどの童顔で、初めて顔を合わせたとき、同期かと勘違いしたほど。誰に対しても敬語という口調もまた、理由のひとつかもしれない。

 バックグラウンドは異なるが、研究者気質な篠崎とは何かと話が合った。合うと思っていた。

 訊ねられたのはどちらの研究だろうかと、推し測っていると、「まずはそちらから聞きましょうか」と、手元のプレートを指差した。すぐに合点がいく。そもそも悩む必要もなかった。こんなオープンなところで訊いてきた時点で察するべきだった。

「まだデータ処理していないので、正確なことはまた改めてということになりますが、ああ、ちなみにこれは前回の再現をみたものです。一応Ct値を見る限り、前回の結果とさほど変わらないかと」

「では、あの化合物で発現レベルが上がるという再現は取れそうだと」

「ええ、おそらく。必要であればもう一度再現を取ります。それから、別のアプローチも行なっているので、そのデータも今週中にはお見せできるかと」

 篠崎は満足そうに頷いた。

「では、もうひとつの方はこちらで」篠崎は、彼に与えられている個室を指した。

「先日」部屋に入り、扉を閉めるとすぐに口を開いた。「最終の実験を行なったあと、いつものようにカウンセリングを実施しました。感触は悪くなかったと思います。脳波も記録してありますので、お時間ある時に合わせてご確認いただければと」

「不服そうですね」篠崎は笑った。

「不服、ではないですよ」

 口ではそう言ってはみたが、完全に不満がないかと問われたら、素直に頷くことはできないだろう。


 あの日も篠崎に呼ばれ、彼の部屋に案内された。

 篠崎の部屋は、デスクトップパソコンが置かれたデスク、衝立を挟んで来客用のテーブル。テーブルは左右に二脚ずつ椅子が置かれている。テーブルを挟んで本棚があり、反対側には五十型のテレビが設置されている。

 篠崎はデスクに座り、壮亮にも座るよう勧めた。目の前にはコーヒーの準備があった。ありがたくいただく。

「早速なのですが、三好くんに新しい仕事をお願いしたいと思っています」

「新しい仕事ですか」

「はい。ただ、申し訳ないのですが、承諾いただけてからでないと具体的な話ができないんです」

 そんな卑怯なことはないと思いますが、と眉を下げた。

「ひとつ言えることとすれば、三好くんも興味がある分野だと思います」

「仕事って、研究のことですよね?」

「ええ、もちろん」篠崎はさらに眉を落とした。「研究のことではありますが、今やってもらっている内容とはかなり異なります。その研究をする際には、部署も変わると思っていただいた方がわかりやすいかもしれませんね。ああ、いえ、現在の所属は変わりません。今の仕事もやってもらいながらになるので、負担は増えてしまうかもしれません。とはいえ、新しい仕事の方は三好くんだけでなく、何人かで取りかかってもらう予定ですし、時間に余裕はあると思います。考えていただけませんか」

「それは、急いで答えを出す必要がありますか?」

 篠崎は困った顔のまま笑った。

「時間を差し上げたいところなのですが、こちらも緊急でして……実をいうと、前任者が急に辞めることになり、慌てて新しいチームを編成しているところなんです」

 できるなら、今ここで返事をしてほしい。言葉として出ていたものではないが、そう感じさせる圧力があった。

 質問はできないのだろうと考えていると、「あともうひとつ」と、篠崎が言う。

「これは後出しすると卑怯なので、あらかじめお伝えしておきます。この研究は強力な守秘義務が課されます。外部にはもちろん、研究所の人間にも漏らしてはいけません。研究チーム以外には、携わっていることも悟られないようにしてください」

 不安そうにしていたのか、「大丈夫、三好くんにとって難しいことではないと思います」と励まされてしまった。

 研究に携わる者として、研究内容を他言しないという基本は心得ている。同じチームであれば別だが、たとえ同じ研究所の人間だったとしても、発表していない研究結果を別のチームの人間に話すことはない。しかし、それは結果であって、どのような研究をしているか、話すことはある。今、壮亮が行なっている研究に関しても、他チームの研究員であっても、おおよそのテーマくらいは知っているだろう。

 携わっていることすら悟られてはいけないというのは、かなり特殊だ。前任者がいたということだが、秘密裏に行われている研究があるなど、聞いたことがない。それだけ、内部における管理が行き届いていたということだろう。もし仮に、所属している研究チームの中に前任者がいたならば、壮亮はひっくり返って驚くだろう。

 壮亮は迷った。何かを決めるとき、あまり悩むことはないタイプだが、このときばかりは迷っていた。

 もちろん断ることもできた。返事をしてからでないと、具体的な話を聞けないという点がやはりネックだった。それでも頷いていたのは、興味がある分野だと言われたからだろう。好奇心には抗えない。

「ありがとうございます」篠崎は顔を綻ばせた。「三好くんなら、了承してくれると思っていました」

「それで、どんな内容なんですか?」

「順に説明します。まずは、こちらをご覧いただきましょうか」

 篠崎はテレビをつけると、パソコンの画面を映し出した。すでに用意していたのか、全画面表示になっているスライドが表示される。一枚目にタイトルと機械の画像が載っている。文字はすべて英語だ。英語の論文を読むことは日常的にあり、国際学会にも参加したことがあるので、ある程度の英語能力はある壮亮だが、目の前の画面には見慣れぬ単語が並んでいた。

 担当している研究と内容はかなり異なると言っていたが、専門外とまでは考えていなかった。

 壮亮は急に不安に駆られる。

「三好くんは、BMIというものはご存知ですか? ブレイン・マシン・インターフェースの方のBMIです」

「脳波などを読み取って、その人が考えていることとかの情報を取り出す機械という程度なら」

「十分です」篠崎は満足そうに頷いた。

「実際は、BMIと同じものではないんですが、うちでも似たような機械を開発しています。具体的には、意識共有、もしくは共通感覚を共有するとでもいいましょうか。他者の意識を、別の人に移行させる機械になります」

 画面に表示されている機械が、それに当たるという。機械の開発はすでに終わっている、とも言った。

「目的としましては、まあ端的に言いますと、意識共有により人の性質を変えられるのか、という検証です」

 話を聞きながら、気づけば眉間にしわが寄っていた。壮亮の訝しげな表情を違う方に解釈したのか、「もっとわかりやすく説明するとですね」と続けようとしたので、慌てて遮った。理解ができなかったわけではない。いや、その目的はにわかに理解できるものではなかった。

「何のために……何より、そんなこと可能なんですか?」

「可能かどうかは、これから検証していくんです。とはいえ、可能性としては高いと思っています。こちらをご覧ください」

 スライドが進む。画像ではなく、二段の表だった。表には性別、年齢などの特徴が記載されている。

「彼らは双子で、幼い頃から本研究の被験者として実験に関わってもらっています。双子を選んだ理由としては、共通感覚の相互作用の相性がいいだろうと考えたことと、双子特有のテレパシーやシンパシーを利用したかったこと、その情報を入手したかったという三点です」

 キーボードを押し、さらにスライドを進める。続いて表示されたのは、波形だった。見覚えがある波形だ。おそらく脳波だろう。こちらも左右に二つずつ表示されている。

「こちらは二人の脳波を測定したものです」

「二人?」思わず大きな声が出た。予想通りの反応だというように、篠崎は満足そうに笑った。

「三好くんが驚くのも無理はありません。私も最初に見たときは、同じ反応をしました」

 嘘だと思った。篠崎は予想外なことが起きても、目に見えて驚くことはないし、何よりこの結果は彼には想定内だったに違いない。

 脳波は、脳内で発生する電気活動のことをいう。そのときの状態により、周波数や振幅に変化が出る。たとえば、眠っているとき。周波数は高く、振幅は緩やかになるが、覚醒時には振幅の間隔が短くなる。運動をしているときや、ストレスを感じている際には周波数は低く、振幅は一定ではなく、短いスパンのときもあれば、ピークが読みづらい部分もある。

 人によって個性もあると聞いたこともあり、もっといえば、同じ人間であっても年齢などでも変わる。

 スライドに表示されている脳波が別の人物のものだというのは、信じられなかった。まったく同じだったからだ。

 いや、完全に一致しているわけではない。多少のずれは存在する。しかし、これは誤差範囲内だろう。有意差検定をしたところで、差はないはずだ。

 スライドに示されている脳波は、いろんなパターンのものが表示されていたが、いずれにしても

「双子だと、ここまで似るものなんですか?」

「似ることもありますが」篠崎はさらに口角を上げた。「この二人は双子とはいえ、最初はまったく別の波形を示していたんですよ。性格が真逆と言っていいほど、違っていたんです。一緒に生活していた時期も短いですしね。それをここまで一致させたのは、意識共有による成果なのですよ」

 篠崎は得意そうに言った。壮亮の理解が追いつく前に、篠崎の言葉はさらに続く。

「片方は遠隔で脳波を測定しているので、多少の誤差はあるかもしれませんが、この結果から見て、無用な心配だったかなと」

「それで、僕は何をすればいいんでしょう?」疑問は一旦呑み込み、壮亮は自分が選ばれた理由を訊く。「僕は工学部出身とはいえ、機械に強いわけではありません」

「三好くんにお願いしたいのは、機械に関することではありません」

 機械の作製およびメンテナンスは、外部に委託しているという。

「その機械ができていて、移行できるという確認も取れているなら、次は何をしようと考えているんですか?」

「ここからが本題になります」篠崎はより一層笑みを深めた。「次に我々が行おうとしている実験は、まったく関係のない人間に、他者の意識を移し込むというものです。双子でも兄弟でも親子でもない、赤の他人の意識を移し、性質が変わるかどうかの検討を行いたいと思っています」

 嬉々として語る篠崎を前に、壮亮の頭にはまたしても疑問が生じた。双子の実験の時点で、気づくべきだった。

「それは実際に人で実験をするということですか? そんなことできるわけが」

「三好くんの懸念が被験者にあるとするなら、その問題は解決済みです。だから、君を呼んだんです」

「解決済み? 被験者がいるとでも言うんですか?」

 篠崎ははっきりと頷いた。ここにきて信じられないことがさらに増えた。

「被験者が誰なのか知れば、三好くんも興味を持つと思いますよ。君にとって、ここが一番のポイントですから」

「どういうことですか?」眉をしかめたまま訊いた。

「百聞は一見に如かず。見てみた方が早いでしょう」

 篠崎に連れてこられたのは、研究所の地下だった。

 地下三階。

 地上階以外は、地下一階にある食堂にしか足を運んだことはなく、まして地下三階など来たこともなければ、存在自体知らなかった。通常使用しているエレベーターには地上十二階、地下は一階までしか表示がないのだから仕方ない。

 就職してから五年経つが、これまでに開けたことも、入ったこともない扉の中に入ると、エレベーターが一台あった。それは地下三階まで行くためだけにつくられたのか、「1」と「B3」のボタンしかなかった。

 エレベーターを降り、廊下に出ると自然と明かりがついた。明かりは飛び飛びにしか配置されておらず、薄暗い雰囲気だった。

 廊下は行き止まりまで、まっすぐ一本に伸びていた。左右どちらにもいくつか部屋があり、扉はすべて互い違いになっている。ドアノブはなく、真っ平。扉の横にタブがついていた。カバーを外すと、おそらく中はキーボードになっているのだろう。研究所の入り口にも同じものが設置されていて、休日に訪れた際は暗証番号を入力して入ることになっている。とはいえ、壮亮が知っている番号では、ここにあるどの扉も開くことはないだろう。

 そもそも、地下三階ここは何のためにあるのだろうか。見た方が早いと連れてこられたということは、被験者がここにいるということか。

 エレベーターから四つ目、左側にある扉の前で篠崎は足を止めた。タブのカバーを開き、真っ黒なボードをタップすると、オレンジ色の数字が表示された。数字は0から9まで。

 篠崎は慣れた手つきで数字を押していく。壮亮はほんの少し目を逸らした。

 音もなく扉が開く。中は真っ暗だった。廊下の明かりも微々たるものなので、部屋の全貌を映し出せるほどの明かりが漏れ入ることはない。目を細めてみたが、中に何があるのか見ることはできなかった。

 篠崎が先に部屋に入り、スイッチを押す。豆電球のような明かりがひとつ灯る。部屋の広さは、ワンルームの玄関ほどしかない。ものひとつ置かれていなかった。

 そこには誰もいなかった。肩から力が抜ける。少なからず緊張していたことに、壮亮は一人可笑しくなった。いや、笑っている場合ではない。

「あの、被験者はどこに?」

「そこです」

 篠崎が指差したのは暗闇だった。部屋の奥、明かりの届かない、空間が広がっているのかどうかもわからない場所だ。

 覗き込むような仕草をする篠崎に、疑念は残りながらも従う。明かりをつけられない理由があるのだろう。

 一歩、足を中へと踏み入れると、すぐに壁のようなものにぶつかった。目を凝らすと、微かだが光が目に入る。光は白やオレンジといったものではなかった。信号機の緑のような色だ。緑色の光は、小さな点になって点滅している。点はひとつではなかった。

 光は何かを囲んでいた。光が形作っているものは、人型のように見えた。人が横になっているような形だ。

 まさか、あれが被験者なのだろうか。

 徐々に目が暗闇に慣れていく。光が灯ったタイミングで、顔が見えた。目を瞑っていて、眠っているようだったが判別はできた。

 壮亮はその人物を知っていた。

 光に囲まれ、眠っていたのは、多くの人の命を奪い、死刑判決を受けた死刑囚だった。世情に疎い壮亮も、彼のことは知っていた。

「やはり、ご存知でしたか」

 事件が起きたときにも、そして彼が逮捕されたとき、死刑判決が決まった際にもメディアが大騒ぎしていたのだ。知らない人の方が少ないだろう。

 しかし、彼がなぜ被験者になりうるのか。壮亮は真っ向から疑問をぶつけた。

「どうして彼が被験者に? そもそも、なぜ彼が今ここにいるんですか?」

「きちんと許可はとっています。むしろ、からの要請ですから」

 気にはなったが、経験上「あちら」がどちらなのか訊かない方がいいだろうと判断した。訊かずとも、おおよそ推測はできる。彼を外に出せる人間は限られている。

「私たちの実験に興味を持ったらしく、打診があったんです。打診がある時点で問題なのですが、それはまあ置いておきましょう」

 この件も深くは追及しない。

「被験者になってもらう代わりに、死刑は免除になるとのことです」

「免除?」

 壮亮はこれ以上刻まれることはないというほど、眉間のしわを深くした。

 被験者になる代わりに死刑が免除?

 そんなことあっていいのだろうか。確定したことが、しかもそれが犯した罪を償うための刑なら尚更、免除されていいはずがない。

「意識移行のあとはどうするんです?」

「性質が変わったと確認できたあとは、普通に生活していただく予定です」

「正気ですか?」大きな声が、室内に響く。「うまくいくかどうかわからない段階で決行するには、リスクが大きすぎませんか。倫理審査が通るとは思えないし、何より」

「三好くんの懸念はわかります。倫理に関しては問題ありません。それは君が心配することじゃない。もうひとつの懸念については——移行がうまくいかず、もしくは彼の意識がわずかでも残っていて、途中で復活するようなことがあった場合、世に放たれた状態でそんなことになったら、とお考えなんですよね?」

 壮亮は黙ったまま頷いた。被験者として——とはいえ、死刑囚が野放しになることを問題視しない方がおかしい。

「被験者を提供してきた人たちは、それも織り込み済みだと思います。そもそも私たちが行っている研究のことをどれほど理解しているのか、疑わしいですが」

「じゃあ、余計に危ないじゃないですか! 犠牲があるのは仕方がないって、最初から考えてるみたいだ。そもそも死刑囚とはいえ、許可なく利用するなんて……本人の許可はとってるんですか?」

「おそらくとっていないでしょうね」

 篠崎の口調は淡々としていた。悪びれていないところに、依頼してきた人間たちと同じ冷酷さと無責任さを感じる。

「死刑囚というのは、死刑判決を受けた時点で、世間から切り離されます。会えるのは、弁護士と家族の一部だけ。いわば、彼はすでに、この世にはいないものだと考えても差し支えないのですよ」

「だから、好き勝手してもいいと?」

「三好くん」穏やかな口調の中に、圧を感じた。「成果を得るには、犠牲はつきものなのですよ」

「それが人の命ででもですか?」

「人間は昔から、生命の犠牲の上に成果を上げてきたじゃないですか。三好くんも恩恵を受けているでしょう? 特に医学の分野に関しては。麻酔や手術など、いろんなところで非情な実験が行われていた。現在でも非難はされていますが、得られた成果は利用しているのだから、おかしな話です」

 暗闇の中で、篠崎の目が光る。

「それに、三好くんは先ほど、『人の命』とおっしゃられましたね。人以外ならいいのでしょうか。人以外の動物の生命は平気で奪えるのに、そこには抵抗がないのに、人の生命だけは別だと考えているんですか? その考えは傲慢です。人間の醜い部分だと、私は思います。自分たちが最も高等な生き物だとでも思っているのでしょうか」

 篠崎の言葉は、壮亮に向けられているものではないようだった。目線もどこか遠くを見ている。

 壮亮は、何も言い返せなかった。それでも、篠崎がやろうとしていることには、簡単に賛成できなかった。篠崎も被験者を提供してきた人物たちも、死刑免除というところに頼りすぎているように思えた。しかし実際は、免除されるわけではない。壮亮はそう思う。

 篠崎の説明によると、別の人間の意識、感覚を、目の前の死刑囚に移し込もうとしている。彼のまわりに設置されている機械を見る限り、もうすでに実験は始まっているのかもしれない。

 もし万が一実験がうまくいき、意識を移し替えることができれば、身体の持ち主の意識、人格はなくなる。それは自分自身が消えてしまうことと同義であり、死ぬことと変わりはないのではないか。

 壮亮は篠崎に疑問をぶつけた。

「三好くんも、脳の方が優位だと思っているわけですか」

「優位? どういう意味ですか?」

「脳と身体はどちらが主体かということですよ。界隈では、脳派が大多数を占め、ほとんど結論が出ていると考えているようですが」

 呆れているかのように、篠崎は肩をすくめると、ため息をこぼした。

「視点を変えてさまざまな検討を行い、それでもやはり脳の方にコントロール機能があるなら、それならそれでいいんです。それを知るために、実験を行うんですから」

「本当の目的はそこにあるんですか?」

「いいえ」篠崎は迷いなくかぶりを振った。「目的は、先ほどお話ししたとおりです。その点に違いはありません。私が今言ったことは、実験の中で得られる副産物としての成果です。ひとつの結果から、結論がひとつしか出せないというわけではありませんから」

 壮亮は後悔していた。しかし、いくら悔いても、何も知らなかった数分前の自分にはもう戻れない。

「どうして、この研究に僕を誘ってくださったんですか?」

「三好くんを選んだ理由は、君が適任だと思ったからですよ。いろんな意味で」

「どういうことですか?」

「それは、君自身が一番わかっているんじゃないでしょうか」

 そう言って、篠崎は被験者の方へと視線を送った。

 壮亮にはわからなかった。篠崎がそう言った理由も、彼が何かを知っているのかどうかということも。

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