第二章 Phase 2

2-1 お迎え

 じめじめと湿った空気は、汗をかいているわけでもないのに肌のベタつきを感じさせた。仰ぐものもなく、ただひたすら辛抱する。そんなことを感じられることに、正座で痺れた足を気にかけながら、男は苛立ちを覚えた。舌打ちが口から出そうになって、咳で誤魔化した。

 朝、特にこの時間はみな、息を殺したように静かだ。自分はここにはいないのだと、存在を消しているかのように。「迎え」に来ても無駄だと、抵抗しているかのように。

 時間が来て、重い音を立てて扉が開いた。瞬時、空間に濃縮された緊張が走る。

 足音は静か。しかし、確かに近づいてきている。一歩一歩、確実に。

 そこかしこから息を呑む音がした。

「二九〇番、潮部しおべ。出なさい」

 野太い声がこもった空気の中に響く。

 自分のの前に立たれなかった者たちは、ひとときの不安から解放されたように安堵のため息をこぼした。

 いよいよか——

 男の頭に浮かんだ言葉は、ただそれだけだった。

 男の人生は長いものではなかった。生を受け、四十年も生きることなく生涯を終えようとしていた。しかし、男を知る者で、同情する者はいないだろう。与えられた刑罰に満足している者がほとんどだろう。

 男は殺人犯だった。殺したのは一人、二人ではない。男を捕まえたときにはすでに、その数は二桁を超えていた。大量殺人犯ではない。一人ずつ、いろんな場所で、年月をかけて殺していったのだ。

 裁判の結果、男が受けた判決は死刑。

 男の弁護にあたった国選弁護士は、彼に同情的だった。少しでも刑が軽くなるよう奮闘した。精神鑑定も受けさせ、拘置所にも何度も足を運んだ。再審請求の要請も勧めたが、彼は取り合わなかった。判決に不満はなかった。

 刑務所での生活は、男にとって苦ではなかった。表の世界とそう変わらない。むしろここでの生活の方が豊かだとさえ思えた。窮屈で、自由はなかったとしても、罵倒を浴びせられることが日常だったとしても、辛いと思ったことは一度もなかった。

 死ぬことすら怖くはなかった。同じように死刑判決を受け、執行を待っている人間は、男とは違う反応を見せた。鉄扉の前に立たれた者は声を失い——ときには「助けてくれ」などと声を荒らげる者もいた——その後、身動きが取れないのか、服が擦れる音すら聞こえなくなった。代わりに、異臭を漂わせていた。

 彼らとはもう二度と顔を合わせることはないのだと悟った。彼らはどこへ行ったのか。地獄か、それとも——

 死ぬことは怖くはないが、心残りならある。たったひとつだけの心残り。それは、もう二度と感覚を味わえないということ。生きていて、一番幸福を感じる瞬間を、もう二度と感じられないということだけが、悔やまれることだった。

 男が殺人を犯すとき、使用するものは決まっていた。ナイフだ。ナイフは短いものではいけない。二十センチ以上の長いものが好ましい。しかし、長ければいいというものでもない。長すぎると、今度は安定しなくなる。ちょうどいい長さ、形のものに出会えたときには、宝物を発見したかのように嬉しくなった。

 ナイフで狙うのは、背後だ。前ではいけない。

 後ろから身体の左側を目がけて突き刺す。肉を通り過ぎ、肋骨にぶつかって軌道がずれることもあるが、その場合は刺したまま刃をずらして、心臓を目指す。心臓に突き当たったところで、手首をひねる。そうすると、直に心臓の感触を味わえるのだ。

 肋骨のせいで少し窮屈ではあるが、限られた空間の中、ナイフ越しに触れるあの感触が何よりも好きだった。一発で心臓に直撃したときは、より幸福感が増した。

 男に知り合いはほとんどいなかった。友達なんてものはいたこともない。

 それでも、同類のような人間が声をかけてくることがたまにあった。その中の一人が、男に銃を勧めたことがある。せっかくだからと試しに使ってみたが、実際に得られる感触は振動だけだった。男が好きな振動ではない。

 やはり刺殺に限ると、改めて認識させられただけだった。

 凶器として使用したナイフは警察に回収されたらしいが、銃のことは訊かれていない。隠した覚えもないが、殺害方法から凶器は刃物だと当たりをつけていたのだろう。そうなると、銃には目も向けないのかもしれない。隠していないとはいえ、大っぴらに置いてはいないので、見つからなかったのかもしれない。

 長らく過ごした独居房を出る。男があまりに平然としているため、「最後までクズだな」とぼやく声があった。耳には届いていたが、気にはならなかった。

 手錠をかけられ、腰には紐を携えて、引かれるままに足を動かす。目隠しもつけられているので、当たり前だが視界は遮断されている。導いてもらえないと、すぐに壁にぶつかってしまうだろう。

「座れ」と言われ、従う。座った状態で執行されるのか、という疑問が浮かぶが、顔には出なかっただろう。

 死刑執行の前日には、最後の晩餐というものがあるらしい。と、拘置所に入るまで男はそう思っていた。死刑が確定したとき、最後の晩餐には何が食べられるのか、好物がいいな、なんてことを考えたりもした。ただ、自分の好物が何なのか、そもそもそんなものが存在するのかどうかまでは、考えに至らなかった。

 死刑執行が執行日当日の朝に告知され、そのまま午前中に執行されるようになったと聞いたのは、拘置所に入ってからのことだった。「最後の晩餐」は日本には存在しないらしい。前室に生菓子が置かれ、それが実質「最後の晩餐」になるとのこと。

 唯一の楽しみと思っていたものを取り上げられ、男は愕然とした。

 男は、はてと思った。最期の食事は用意されていないのだろうか。何人殺したのか覚えていない人間には、そのような高貴なものは用意されないということか。最後の食事をするに値しないということか。

 扉が閉まる音がした。人の気配は相変わらずそばにある。首元に紐をくくりつけられる様子はない。

 エンジンの音が聞こえたかと思うと、振動が身体を揺さぶった。

 ——これは車だ。車に乗っているのか?

 車に乗っているという状況はわかっても、なぜなのかまではわからない。処刑場は施設内にあるのではないのかと、疑問に思う。思ったところで、正確な答えを持ち合わせているわけではない。無駄な疑問だろうと、男は目を閉じた。

 どうやら眠っていたようで、気づいたときには座っている姿勢ではなく、横になっていた。

 手錠は外されているようだが、変わらず自由は効かない。目隠しもされたまま。

 頭に違和感を感じる。何かかぶっているのか、もしくはつけられているのだろう。

 そんなことを考えていると、情景とともに何かが流れ込んできた。そのまま再び眠りについた。

 結局、生菓子は食べられなかった。

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