1-7 「彼」と湊斗

 ひらめきのようなものは、朝食につけ合わせたたくあんをかじっているときに訪れた。

 かき込むように朝食をすませると、慌ただしく家を出る。靴下が左右で違っていることに気づいたのは、電車に乗り込んでからだった。息を整えながら、ズボンの裾をほんの気持ち程度に引っ張った。

 目的の駅に着くまでの時間は、これまでに感じたことがないほど長かった。乗り換えさえも煩わしく思う。

 駅を出ると、すぐに駆け出していた。普段、運動する習慣がないので、すぐに息が上がる。足は鉛のように重い。きつくなっては歩き、回復を見計らって走りにシフトし、そしてまた歩く。

 中学校を目印に、右折する。かけ声は聞こえなかった。人がいたかどうかもわからない。湊斗の意識は、目的地を目指すことにだけ注力されていた。新に連れられて行った「彼」のアパートも、横目で通り過ぎる。

 紺色のアパートにたどり着き、湊斗は足を止めた。こめかみから汗が滴り、顎に到達すると、そのまま地面を濡らした。Tシャツも汗で貼り付いている。顔の汗を拭ったところで、意味はないだろう。

 湊斗は階段を駆け上がりたい気持ちを抑えた。それでも最初に上がったときより、二階にたどり着くまでの時間は短かった。

 扉をひとつ見送り、次の扉の前で足を止める。

 二〇二号室——

 相変わらず扉つきポストからは、チラシがはみ出している。これ以上はもう入りきらないだろう。

 天啓のようなものを受け、一目散にここまでやってきたが、いざ扉を前にすると自信がなくなった。ポストからはみ出したチラシと同じように、湊斗の自信もはき出される。

 とはいえ、ここまで来たのだ。意を決し、二〇二号室のインターホンを鳴らす。相変わらず応答はない。少し待ってから、もう一度押してみる。やはり物音すらも聞こえない。

 預かった鍵は、なくさないようにかばんの内ポケットに入れていた。新のようにキーケースを持っていれば、そこに収納したかったが、ないものをいくら探しても仕方がない。現時点でできる最大の保管場所が、かばんのポケットだった。

 キーホルダーも何もついていない鍵を取り出す。鍵穴にはすんなり入らなかった。手が震えていたせいだ。

 左手で反対の手を押さえ、なんとか入れることに成功した。先日訪れたアパートの扉は、途中で鍵が入らなくなったが、この部屋の鍵穴には何の抵抗もなくささった。そのまま回すと、ガチャリと音を立てて開錠する。

 飛び跳ねたい気持ちを押さえ、新に連絡しようとスマホを取り出すが、電源がつかなかった。電車の乗り降りには使用している。ここに来る途中で壊れたのだろうか。もしくは充電が切れたのかもしれない。

 ここまで来て、日を改められるはずもなく、湊斗は扉に手をかけた。ゆっくり開けることを心がけたが、金属が擦れるような重たい音が響いた。

 少しだけ開けた扉の隙間から顔をのぞかせ、「すみません」と声をかける。小さな声だったが、反響して聞こえた。

 その場で耳をすませるが、やはり返答はない。「誰かいませんか」と言いながら、中に入っていく。部屋の中からはカビっぽい、湿った臭いがした。

 扉を閉めると、部屋の中は暗さが増した。とはいえ、日中なので、明かりをつけずとも視界が閉塞されることはなかった。

 様子を伺い、「お邪魔します」と、小さな声で呟いてから靴を脱いだ。玄関には靴の一足もなかった。

 玄関を入ってすぐキッチンがあり、その向かいに扉があった。短い廊下を進んだ先にもまた扉があり、湊斗はまっすぐその扉へと向かった。

 扉を開けた先にはワンルームが広がっていた。カーテンは閉められていたので、暗く感じたのはそのせいだろう。それでも明かりはつけず、カーテンにも触れなかった。

 部屋を一周見回す。整頓された部屋だった。テレビはなく、デスクにパソコンが置かれているだけ。その横には本棚もある。他には窓際に飾られている観葉植物と、ベッドがあるだけ。観葉植物は枯れかけていた。

 再び不安に襲われた。ここに来てはいけなかったのではないか、と。

「彼」がなぜ新に鍵を渡したのか、理由がわからない。しかも、家の鍵だと伝えていたにも関わらず、新が知っている「彼」の家ではなかった。

 なぜ、湊斗に渡してほしいと言ったのか——いや、実際は「自分と同じ顔をした人物が現れたら渡してほしい」と言ったのであって、それが湊斗かどうかはわからない。

 この場所を自分が知っていることもまた、動揺を加速させる要因となった。

 落ち着かず、キョロキョロと顔を動かす。この場に誰かいたら、完全に不審者扱いされるだろう。

 帰った方がいい。いや、帰りたい——と思った。

 部屋を出ようとして、不意にデスクの上に目がいった。正しくはパソコンの横に置かれている写真立てに視線を持っていかれた。

 写真立てには、二人の人物が写った写真が飾られていた。一人は湊斗よりも少し年上の男性、もう一人は中学生くらいの男の子だった。

 男の子の方は。「彼」だ。「夢」で見るよりも、写真の方がリアルに感じられた。

 入学式と書かれた看板を背に、真新しい学生服を着て、カメラに笑顔を向けている。一緒に写っている男性は父親だろうか。

 頭に重い痛みが走った。鈍器で殴られたような痛みに、立っていられなくなる。デスクに左手をつき、反対の手で頭を押さえる。治まるまで、数分を要した。

 バランスを崩し、何とか持ち堪えたところで、左手に紙が触れた。そこには一枚の封筒と紙が置かれていた。封筒は、紙の上に重なるように置かれている。

「湊斗へ」

 封筒の表書きにはそう記されていた。

 ドクンと心臓が跳ねる。どこに触れるでもなく、どくどくと心拍が上がっていくのがわかった。

 震える手で封筒を取る。封筒は空だった。

 封筒を取ったことで全貌が見えた紙の一番上にも、封筒と同じく「湊斗へ」と書かれている。それ以外に記載はない。暗くて見えないのかとも思ったが、窓に近づき、明かりに透かしてみても、真っ白なことに変わりはなかった。

 封筒と紙に書かれた「湊斗」というのは、自分のことなのだろうか、と考える。答えはわからない。

 デスクに封筒らを戻しながら、再び写真を見た。写真立てを手に取ると、厚みを感じた。写真一枚の厚さではない。重みもある。

 誰もいない部屋の中で、誰に聞かせるでもなく断りを入れると、写真立てを開いてみた。写真とは別の紙が入っていた。封筒はなく、紙だけが折りたたまれた状態で詰め込まれていた。

 中を見てもいいかどうか、しばらく考えた。考えた末、湊斗はそれを開いた。好奇心には抗えない。

 写真立てに入っていた紙は、戸籍謄本だった。世帯主の名前に「芝浦しばうら俊郎としお」、そして「芝浦陽翔」が長子として記されている。後者は「彼」の名だ。

 湊斗が驚いたのは、そこに自分の名前があったことだ。稲森ではなく、「芝浦湊斗」と。

 湊斗は芝浦家の第二子として記録されていた。生まれた年も、月日も「彼」と同じ。二人は兄弟で、双子だった。

 写真を見る。「彼」の横に並び、嬉しそうに写真に写る男性に目をやる。と、再び頭に激痛が走った。


 静かな空間に不釣り合いな思い足音が響く。看護師に睨まれながら、陽翔は病室を目指した。

 個室ではあるが、礼儀としてノックする。力が入ってしまい、大きな音が響いたのは逸る気持ちを抑えきれなかったからだ。

 返事を待たずに扉を開けると、俊郎は起き上がり、ベッドに座ったまま外を眺めていた。

 俊郎の顔が、ゆっくりと時間をかけて陽翔の方を向く。日に日に動作が遅くなっていっていることに、陽翔は気づいていた。父の弱っていく姿に心を痛めながらも、彼は俊郎に詰め寄った。

「父さんは知ってたのか?」

 俊郎は答えず、静かに目を閉じた。陽翔の言葉に主語はなかったが、何の話か訊かないことに、陽翔が何の話をしているのか理解していると判断した。そして、この沈黙が肯定であることもわかっていた。

「父さんは知ってて、黙認してたんだね」

 陽翔がそのことを知ったのは、実家の整理をしていたときのことだ。

 俊郎の主治医から、彼がもう長くないと聞いていた。本人には伝えられていなかったが、俊郎は気づいていただろう。

 陽翔はすでに家を出ていて、実家には俊郎が一人で暮らしている。俊郎がこの世を去る前に、実家は処分することが決まっていた。本来なら自分で整理するつもりだったのだろうが、思ったよりも早く身体がいうことを効かなくなってしまったのだ。

 申し訳ないという謝罪とともに、実家の整理の依頼が来たのは最近のことだった。淋しい気持ちを堪え、実家に戻った際、入ったことのない父の書斎で古ぼけた封筒を見つけた。

 中を見ると、契約書が入っていた。さらに詳しく中を見ようと思ったのは、その資料に自分の名前を見つけたからだ。

 契約書は、とある研究の被験者になることを承諾するものだった。被験者は陽翔。そして、もう一人——幼い頃、両親の離婚により離れ離れになった弟の湊斗だ。

 契約者は、産みの母親だった。

 契約書には、詳しい研究内容は書かれていなかった。ただ、身体に金属片——チップと書かれていた——を埋め込まれ、その情報を授受することを許可する旨の内容が記載されていた。

 生活面に縛りはなく、普通の生活を送ることができるということ。身体に害はないということ。研究遂行に伴い生じるデメリットは、一切書かれていない。

 これは陽翔側の内容であり、湊斗については被験者になるということ以外、何も書かれていなかった。

 陽翔は契約書を俊郎に突きつけ、説明を請うた。

「俺は」

 掠れた俊郎の声が、静かな病室に落ちる。注意していないと、聞き漏らしてしまうほど小さいものだった。

「俺は反対したんだ。だけど、あいつが……お前の母親が勝手に決めてた。俺が知ったときにはもう、お前の身体には訳のわからないものが埋め込まれていた」

 そのときのことを思い出しているのか、俊郎は眉を歪ませた。

 俊郎が、我が子が研究の被験者となったことを知ったのは、出張から帰ってきてからのことだった。一週間ほど家をあけていた間に、ことはすべて終わっていたという。明らかに確信犯だった。

 それでも俊郎は、身体に害はない——という説明を仕方なく受け入れ、研究に協力しても陽翔に負担はないからと、泣く泣く諦めたのだという。何より、知ったときには、すでに手術によって身体は傷つけられており、それを取り出すためにもう一度身体にメスを入れることの方が懸念に思えて、なす術なく沈黙した。

 俊郎が離婚を決意する決め手となった原因がこれだ。その前から、俊郎は離婚を考えていた。そんな中、金に目が眩み、よくわからない研究の被験者に息子を差し出した母親に激怒し、陽翔だけを連れて家を出た。

 俊郎は、長子である陽翔さえ無事であればいいと思っていた。湊斗のことは正直、どうでもよかった。母親のもとに置いておけば、まともな育児は受けられないだろうとわかった上で、放置した。見て見ぬふりをした。

「あなたはそれでも人の親なのか」

 俊郎から「お前」と、「お前たち」ではなく一人だけ、陽翔のことしか触れていない物言いに、震える手を握りしめた。この人は、陽翔が大切なわけではない。陽翔が選ばれた理由は、長子だからだ。ただそれだけ。湊斗が先に生まれていたら、湊斗を選んだだろう。それだけの理由で、湊斗は見放されたのだ。

「僕は湊斗に顔向けできない……」俊郎を責める言葉を吐きながら、陽翔は自分のことも責めていた。

「湊斗は今どこにいるんだ?」

 俊郎は首を振る。陽翔の眉間にしわが寄った。

「あの人の連絡先は?」

「あいつに連絡したところで無駄だ」

「無駄ってどういうこと?」

「あいつと湊斗は一緒に暮らしていない。離婚してからずっとな」

 陽翔はさらに顔をしかめた。どういうことだ? と、視線で俊郎に訴える。

 両親が離婚したのは、陽翔たちが小学二年生のとき。父に引き取られた陽翔は、父に連れられるまま、住んでいた家も街も離れた。時折、湊斗のことを訊ねると、「元気にしてるみたいだ」と返された。「会いたい」という言葉には、彼らもあのあと引っ越したらしく、遠くにいると聞いていた。仕事が忙しいという父に、一人で行ってくると言っても聞き入れてもらえず、幼い時分の陽翔は父に従うしかなかった。大学生になって、さすがに一人で行けるようになった頃には、今はどこにいるのかわからないと言われる始末だった。探す術も見つからず、地団駄を踏んでいた。

 しかし、それはすべて嘘だった。

 嘘をつかれていたことに、ショックと憤りを感じながらも、まったく疑うことのなかった自分の間抜けさに、自嘲するしかなかった。

「どういうこと? どうして父さんはそのこと知ってんの?」

「離婚したあと、一度だけあいつに会ったんだ。必要に駆られてな」言い訳がましい口調だった。「そしたら、もうすでに男と一緒に暮らしていると言っていた。二人で暮らしているんだと。湊斗はどうしたのかと訊けば、研究所の人間が預かっていると、そう話していた」

 母親の無責任さを責めなかったのかと、陽翔は俊郎を問い詰めることができなかった。本人が一番自覚しているだろう。最初に見捨てたのは、他でもない自分なのだから。

「研究所の人間が預かってるって、研究のため? そもそも何の研究をしてて、僕たちが利用されてるんだ?」

「意識共有のための装置をつくりたいらしい」

「意識共有?」

 俊郎は首を横に振る。

「詳しいことは俺にはわからん」ひとつ咳払いをした。「陽翔、悪いが話はここまでだ。疲れたから、寝かせてくれ」

 まだ訊きたいことはあったが、顔色を悪くした病人に無理はさせられない。

 陽翔は枕元にあるスイッチを操作し、ベッドを倒した。

 以後、湊斗についても、研究についても。そしてそれ以外の日常的なことについても、俊郎が語ることはなかった。これが最期の会話となった。


 湊斗は汗をかいていた。エアコンも何も入っていない部屋は、蒸し風呂のようだった。けれど、背筋は凍え、全身までも冷たくしていった。鳥肌も立っていた。

 俊郎が亡くなったときも、そして湊斗に対する父の想いを「彼」が聞いていたときも、湊斗はそれを。「彼」が憤っていることも伝わってきていた。

 湊斗は知っていたのだ。すべて知っていた。自分が「彼」——陽翔と双子だということも、父からも母からも捨てられたということも。

 父の言葉に衝撃を受け、記憶が欠落していた。思い出さない方がよかったのではないかとさえ思う。

 湊斗は意識して呼吸をしながら、研究について知ったあとの陽翔のことを思い出そうとした。陽翔は何かを調べていた。何を調べていたのかはわからない。パソコンに向かい、ときに分厚い本を広げたりもしていた。彼の顔に、いつものような笑顔はなかった。

 日に日に顔色が悪くなっていった。焦りや憤り、悲しみ、懺悔——様々な感情が湊斗の中に流れ込んできていた。今ならそれが、陽翔の感情だったということがわかる。

 そうか、あれは意識共有だったのか——

 陽翔が感じていたこと、見ていたものを湊斗も見て、感じていた。ずっと眠りについて、「夢」を見ていると思っていたものは、陽翔の意識だったのだ。経験だったのだ。湊斗が嬉しいと感じたり、楽しいと、温かい気持ちになっていたのは、それはそのまま陽翔の感情だった。新を見たことがあったことも、これで説明がつく。

 さらに記憶をたどろうとしていると、またしても頭が痛んだ。まるで何かに阻まれているかのようだった。

 痛みと動揺で、足の力が抜けていく。湊斗は、しばらく陽翔の部屋でうずくまっていた。ここに陽翔が——兄がいてくれたらいいのにと、何度も何度も思った。

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