1-5 雨の日の遭遇
電車に揺られながら、窓を打つ雨を見ていた。相変わらず座席に座ることはなく、立ったまま。だんだん強くなっていく雨足に、手元の傘に心もとなさを感じ、ため息をついた。
眺めている景色は、二度目に見るものだった。「彼」の手がかりを求めて、湊斗は再び「彼」が暮らしているという街に向かっていた。本当なら先日訪れた際、パン屋で「彼」の話を聞いたあと、もう少し散策したい気持ちがあったのだが、パン屋を出たところで具合が悪くなり、断念するしかなかった。
快復を待って、やっと出かけられるようになった。しかし、何のいたずらか、昨日まで晴天続きだったにも関わらず、今日に限ってあいにくの雨だ。電車から見える景色は変わらないが、視界は悪かった。
改札機に切符を入れる。スマホは家に忘れてきていた。スマホを持っていないことに気づいたのは、最寄駅の改札を通ろうとしたときで、どこを探しても見つからず、しばらく茫然としていた。見かねた駅員に声をかけられ、「スマホを忘れてしまったんですけど」と伝えると、切符の買い方を教えてくれた。怪訝そうな顔をしていたのは、見間違いではないだろう。
駅を出ると、湊斗は先日訪れたアパートへと足を向けた。
先日と変わらず、ポストからはチラシが溢れていた。しばらく留守にしているのだろうか。
湊斗はインターホンを押した。今度は意思を持って押している。なぜか、ここが「彼」の家だという確信があった。この辺りに住んでいると、パン屋の店員から聞いた話だけを根拠としているのだが、なぜか自信があった。
反応はない。耳をそば立てても、部屋の中で何かが動くような音も聞こえない。
居座っていても仕方ないので、湊斗はアパートを離れた。
歩きながら、他にできることはないかと考えた。何も浮かばないまま、しばらく歩いていると、公園を見つけた。ブランコや滑り台、鉄棒などがある小さな公園だ。遊具は色々あるが、圧迫感を感じさせないのは、一つひとつが小さいからだろう。
人っこ一人いない公園は、閑散としていた。この天気なので、仕方ない。
湊斗は空を見上げた。相変わらず空は厚い雲に覆われ、太陽が顔を出すどころか、雨が止む気配すらない。
今日ではなかったのかもしれないと思い始めていた。体調不良で無駄にした数日を取り戻そうと、足元が悪い中、無理に出かけるべきではなかったのかもしれない。
それでも、なぜか足は動かなかった。公園の入り口に立ち、ただ茫然と雫が落ちる遊具を眺めていた。
どのくらいその場に佇んでいただろう。湊斗を現実に呼び戻したのは、傘に打ちつける雨音だった。急激に強くなった雨足に、帰れと言われているような気がした。惜しい気持ちを残しながらも、湊斗は駅の方へと踵を返した。
足はすぐには進まなかった。阻むように、目の前に人が立っていたからだ。
湊斗の目には、目の前の人物の肩のラインしか見えなかった。ボタンを全開にした柄物のシャツにも目が引かれた。何の柄かはわからないが、派手だ。柄だけでなく、色も奇抜だった。
中はタンクトップなのか、シャツの隙間から腕が覗いている。傘を持っていない方の手には、花束を携えていた。ブーケというよりは、自宅用に購入したというような、簡素な包みだった。
顔を上げ、ビニール傘の下の顔を見た。同年代くらいの男性だった。短髪で、すっきりとした耳元にはいくつもピアスが光っている。見るだけで痛そうだ。
男性は、一重瞼を思い切り見開いていた。口を開きかけたが、眉間にしわを寄せると、そのまま口も閉じた。
一歩、湊斗に近づくと顔を寄せた。目を細め、観察するように湊斗を見る。顔ひとつ分ほど高いところから見下ろされる視線に、それでも不思議と威圧感は感じなかった。むしろその顔に、どこか懐かしさすら感じた。
男性が持っているビニール傘は、さらに上にある。男性が近づいたことで、傘から落ちる雫が、湊斗のさしている傘にも滴っているのだろうが、それがわからないほど降り続く雨は強かった。
「陽翔にそっくりだな」
思わず肩がびくりとした。逃げるように、一歩後ろに下がる。動いた拍子に、傘を跳ねた雨粒が男性の顔にかかった。男性は気にする様子もなく、前のめりになったせいで濡れた肩の上に傘をさした。
今、確かに「陽翔」と言った。「彼」の知り合いだろうか。しかし、パン屋の店員のときとは違い、湊斗を「彼」だとは思っていないようだ。
「まさか、あいつの言ってたことが本当になるとはな」
顔の位置を戻すと、男性は右側の口角を上げた。湊斗はさらに動揺の色を強くする。
陽翔について話があると、男性は言った。彼について知りたい湊斗は、連れられるがままに近くの喫茶店に入った。馴染みの店なのか、水につけといてほしいと、マスターに花を渡した。マスターへのプレゼントというわけではないだろう。
ついてきたのは尚早だっただろうかと気づいたのは、アイスコーヒーが届いてからだった。それでも、さほど危機感を抱いていないことに、湊斗自身、不思議でならなかった。
「何か入れる?」と訊かれ、首を振る。男性はミルクピッチャーを取ると、自分のアイスコーヒーにミルクを回し入れた。
改めて店内を見ると、穴場と言えるほど静かなところだった。カウンター席が四つと、テーブル席、ソファ席もある。奥のソファ席を真っ先に案内されたことから、ここが彼の特等席のようだ。小高い観葉植物が置かれ、完全ではないが人目から遮断されているのも落ち着けるのだろう。
男性は
「それで、あんた何て名前なの」
「僕ですか……僕は」
湊斗は、メモに書かれていた名前を思い出しながら口に出した。「稲森湊斗」自分の名前を名乗ったのは、これが初めてだった。
「陽翔とはどういう関係? 顔はめちゃくちゃ似てるけど、親戚とか?」
「違い……違うと思います」
「彼」との関係性など知らない。そもそも実際には会ったこともない——はずだと思った。見たことはあるが、それは湊斗の一方的なものだと認識していた。話したこともなければ、顔を合わせたこともない。
パン屋の女性店員や新が言うように、確かに湊斗も、「彼」と瓜二つだと思った。何となく似ているというレベルではない。肌の色、体格はまったく違うのに、顔の造形は一緒なのだ。
ただ、「彼」との関係性を訊ねられたところで、答えは持ち合わせてはいなかった。むしろ、湊斗もそれを求めている側だった。自分のことすらわからないのに、「彼」のこと、「彼」と湊斗の関係性などわかるはずもない。
「先ほど」湊斗の声に、考え込むように下を向いていた新の顔が正面に向く。「『あいつの言ってたことが本当になるとは』と言っていたように思うんですけど、あれはどういう意味ですか?」
「どういう意味ってそりゃあ、言葉通りの意味だよ。あいつが言ってたんだ、『僕に似た人物がこのあたりに来るかもしれない』って」
「どういうことですか?」
湊斗は質問を重ねたが、「そんなこと俺が知るわけないだろ」と一蹴された。新も具体的には聞いていないのだろう。
「でも、どうして陽翔さんはあなたにそんなことを言ったんでしょう?」
「その前にさ」湊斗の言葉を新が遮る。「本当に陽翔のこと何も知らないのか?」
湊斗は口ごもった。「彼」に関する質問は、どんなものでも答えづらいものだということだけはわかった。
黙り込む湊斗を、新はアイスコーヒーに口をつけながら待っていた。答えないという選択肢はないらしい。
「陽翔さんはよく笑う方でしたか?」
ようやく口にできた言葉は、かなりか細いものだった。それでも新には届いていたらしく、何かを思い出したように笑った。
「よく笑うっていうよりかは、その顔がデフォルトみたいなやつだよ」
不機嫌な「彼」の姿を見たことがないという。
「俺だったら怒りそうなことでも、あいつは笑ってんだよ。無理してっていうよりは、気にしていない感じでな。そういう感情の起伏もなかった。喜んだりしてるときは、テンション高くなったりしてたけどな。負の感情ってやつ? そういうのは、あいつの中には存在してないんじゃないかって思うくらいだったよ」
そこだけ切り取ってみると、まるでロボットみたいだったと軽口を叩いた。
確かに、「彼」はよく笑っていたが、湊斗は「彼」が怒っているところを見たことがあるような気がした。握った拳をどこかにぶつけたい。しかし、ぶつけどころがわからず、皮膚に食い込むほど握りしめていた姿が脳裏に浮かぶ。
ただ、姿は思い出せるが、「彼」が何に怒っていたのかまでは思い出せなかった。友人である新が見たことがないという姿を、湊斗が見たことがあるというのもおかしな話だ。記憶違いかもしれない。
「何でそんなこと知ってるんだ? やっぱり陽翔のこと知ってるんじゃないのか?」
「知っているというか」バツが悪く、伺うように目線だけを新に向けた。「おかしな話をすると、『夢』で見たことがあるんです」
「夢?」
「『夢』は僕が勝手にそう呼んでいるだけなんですけど、そこに陽翔さんがよく出てきたんです。あ、陽翔さんと言っても、同じ陽翔さんかどうかわかりませんけど」
「確かに。あんまり似てるもんで、そのまま話進めてたわ」
湊斗がすんなりと「陽翔」の話を聞いていたことも原因だろう。聞いたことがある名前だっただけに、今の今まで疑問にも思わなかった。
新はズボンの後ろポケットからスマホを取り出すと、少し操作してから湊斗の方に画面を向けた。
「こいつが陽翔」
スマホの画面には、ユニフォームを着た人たちが映った写真が表示されていた。サッカーゴールをバッグに撮影されている。
十人ほどいる中から、前の方で座り込んでいる人物、向かって左側から二番目の男性を指差す。
目を細めていると、「拡大した方が見やすいな」と謝りながら、人差し指と中指で広げる動作をした。今度ははっきりと捉えられた。間違いない。「彼」だ。
「同じです。僕が見ていたのも、この方です」
「現実世界で会ったことは?」
新が「現実世界」と言ったのは、湊斗の言葉に合わせてくれたのだろう。
湊斗はかぶりを振る。
「夢でしか見たことがない? 一度も会ったことがない、見たこともない、そんな人間が夢に出てくるものか?」
「わかりません。僕はただ見ていただけなので」
新は手に顎を置き、しばらく考え込むようにしてから「テレパシーってやつか?」と言った。
「テレパシー?」
「いや、俺もよくは知らんけど、喋ったりなんかしなくても、考えてることがわかったりするやつ」
そう口にして、新は何か思いついたように目を見開いた。
「もし本当にテレパシーだったとして、あんたにだけじゃなく、あいつの方にもあんたの意識的なものが伝わってたかもしれないってことか」
湊斗は肩をすくめる。新は気にせず、続けた。
「不思議だったんだよ。あいつが、自分にそっくりなやつがいるみたいなことを言い出したとき。しかも、本当に実在するときた。そんでもって、そのそっくりさんは、陽翔に会ったことがないとか言い出すし。じゃあ、どうやって陽翔はそっくりさんがいることを知ったんだ? 陽翔はあんたを見たことがあったとか?」
それはないと思った。しかし、やはり説明し難く、断定することもできないので、湊斗は黙ったままでいた。
「あんたは陽翔のことをほとんど知らない。でも、陽翔はあんたのことを知っていた。あんたも嘘をついてるようには見えないし、何より俺は陽翔とはそこそこの付き合いだ。あいつの言葉は信じられる」
ストローで氷を転がしながら、新は呟いていた。湊斗に聞かせるつもりはないのか、声は小さい。
「本題に入るけど」新はアイスコーヒーを飲み干した。「陽翔から、あんたに渡してほしいと頼まれているものがあるんだ」
氷だけ残っているグラスを置くと、代わりにベルト通しにつけられたキーケースから鍵をひとつ取り外し、湊斗の前に差し出した。
「僕に渡すように、と預かったんですか?」
「いや、陽翔は『僕に似た人物にもし会えたら、そのときは渡してほしい』って言ってた」
「似た人物……それは僕で間違いないんでしょうか?」
「他にもそっくりさんがいるって?」新は、はっとしたように湊斗を見た。「もしかして、世界に三人はいるっていう、ドッペルゲンガーってやつか? それなら、陽翔が自分でじゃなく、俺に鍵を預けたのも頷ける」
ついていけずに固まっている湊斗に、「冗談だよ」と、新は笑った。
「多分だけど、陽翔が言ってたのは、あんたで間違いないよ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
新は口角を上げた。「勘だ」
軽い物言いに、湊斗は心配になった。
「ご本人に確認を取られた方がいいのでは……」
「それは無理だな」
「無理? どうしてですか?」
「これを俺に渡すときに、しばらく連絡が取れなくなるって言ってたんだよ。どっか旅行でも行くのかって訊いたら、そんなところだって流された」
不安はさらに強くなる。見ず知らずの人間に渡そうとする鍵。本人に連絡が取れない状況。
湊斗は知らず知らずのうちに、しかめっ面になっていた。
「これは何の鍵なんでしょう」
「陽翔の家の鍵だとよ」
「家の鍵? 家の鍵をどうして僕に?」
「理由は知らん。言わなかったし、俺も訊かなかったからな。行ってみればいいんじゃねえの」
淡々と話していた新の表情が変わった。短い眉が、わずかに落ちる。
「俺が連れてきて、勝手に話しといてあれだけどさ、もうちょっと警戒心とか持った方がいいんじゃね?」
言いながら、新はスマホに触れた。湊斗が理解する前に、再び画面を湊斗の方に向ける。今度は「彼」と新が二人で写った写真が表示されていた。
「ちゃんと知り合いだから。合成じゃないぞ。証明はできないけどな」
湊斗の反応がないので、新はさらに続ける。
「陽翔から鍵を預かったってことも、証拠はないな。危ないものじゃないし、俺も怪しいものじゃないけど、いくら口で言っても信用できねえよな」
こんな見た目だし、と派手な柄シャツをめくった。
俯いたように見える顔に、湊斗ははっとした。公園で初めて顔を合わせたとき、いかつい男性から見下ろされている状況に、威圧感を感じなかった理由がここにきてわかった。目の前にいる男性は怪しい人ではない。湊斗を騙そうとしているわけでもなく、陽翔の友人だというのも事実だ。
湊斗は、新を見たことがあった。「彼」が出てくる「夢」に、新も出てきたことがあったのだ。ずいぶん仲がよさそうだった。「彼」が無理に新にかまいにいっているようにも見えたが。
だからといって、新に「あなたのことも知っていました」と言うわけにもいかない。代わりに、「あなたが陽翔さんと知り合いだというのは、わかりました」と、スマホを返した。
新は不満そうにしていたが、話を先に進めることには賛同した。
「陽翔さんは、鍵を渡されたとき、他に何かおっしゃっていましたか?」
「いや。ただ、俺が勝手に出入りするかもしれないぞって言ったら、『別にいいよ』って言ってた。だから、あんたも行ってみたらいいよ」
心配なら、俺も一緒に行くし、と付け足した。道案内も必要だろう、という。
湊斗は思案していた。沈黙を別の意味にとったのか、「俺が一緒の方が不安か。おかしなところに連れて行かれるかもしれないからな」と言うと、マスターに紙とペンを貸してくれるよう声をかけた。
戸惑いながらも、新の親切に甘えることにした。マスターから受け取った紙に住所と簡単な地図を書こうとしている新にその旨を伝えると、「そうか?」とほんのわずかに口角が上がったように見えた。これまでに見ていた上げ方ではなかった。
一緒に行くなら、鍵は持っていてほしいという要望は聞き入れてもらえなかった。湊斗に渡すように頼まれているのだから、貰ってくれないと任務完了にならないからだという。
新は半ば強引に鍵を渡した。押し付けたという方が正しい。
「すぐ案内したいところなんだが、明日でもいいか?」
「僕はかまいませんが」
「悪いな。このあと予定があって。まさか、今日会うとは思ってなくてな」
新は連絡先を交換しておこうと提案した。スマホを取り出そうとして、家に忘れてきたことを思い出す。
先ほどの紙に、「彼」の家の住所に代わり、新の連絡先が書き出された。渡されるメモを見ると、見た目に反して、繊細できれいな字を書く人だなと思った。
店を出る頃には雨は止んでいた。
新は念を押すように、翌日の待ち合わせ時間を伝えた。そして、改めて湊斗をじっくりと見つめた。頭から足先まで隈なく観察する。
「顔はほんと似てるけど、よくよく見てみると全然違うな」
「どういうところが違いますか?」
「うーん、うまい言葉が見つからねえんだけど、何というかこう……全然違うんだよ」
新は誤魔化すように笑った。笑い終えると、宙に視線を投げ、「あいつどこにいるんだろうな」と呟いた。風に飛ばされそうなほど小さな声だった。
「今、ここにいるのが僕ですみません」と、湊斗は軽く頭を下げた。
新は目を大きく見開いた。ぱちぱちと何度かまばたきをすると、今度は吹き出すように笑った。
「ああ、それだ。そういうとこ、まじであいつに似てないわ」
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