1-4 名前
規則的な振動を感じながら、湊斗は外の景色を眺めていた。
ここ数日、太陽に恵まれず、雨続きの天気が続いていた。雨の日は外に出る気が起きず、家の中でテレビを見たり、掃除をしたり、とっておいた問題集を解いたりと、変わり映えのない日常を過ごしていた。
今日になってやっと雲の中から晴れ間が見え、いそいそと出かけることにしたのだった。
せっかくの快晴なので、少し遠出しよう。暇な時間にスマホの使い方も少し勉強し、電子マネーの利用方法も習得したので、電車に乗ってみることにした。
駅舎には、大きく相鉄線と書かれた文字盤があった。人の流れに逆らうことなく駅の中を進み、見様見真似でスマホをかざし、改札を通った。
乗り合わせた電車は、時間帯のせいかさほど混雑しておらず、空席が目立った。それでも座ることに戸惑いを感じ、扉付近に立っていた。景色が見たいからだと、誰に向けているのかわからない言い訳を考える。
目的があるわけではないが、導かれるように、乗る電車を決めた。途中、電車を降り、改札を出て、小田急線に乗り換えた。初めての駅、電車とは思えないほどスムーズだった。
目に映る景色はほとんどが緑だった。木の緑、畑や田んぼの緑。その中に、ぽつりぽつりと戸建てが建ち並ぶ。高層のビルはない。一番大きい建物は、大学附属病院と書かれたものだった。
アナウンスがあり、頭上のモニターで駅名を確認する。その名に見覚えがあるような気がした。湊斗は、そこで降りることに決めた。
乗っていた人のほとんどが、その駅で降りた。改札までの階段は、かなり混み合っていた。
改札を出ると、西口に向かった。左に曲がり、しばらくまっすぐ進む。
電車に乗って訪れた街もまた、湊斗が住んでいる場所と同じく住宅地のようだった。コンクリートの道を挟んでマンションやらアパート、戸建てが建ち並んでいる。違うところといえば、駅を出てすぐに商業施設があることだ。さほど大きくはないが、駅から出てきた人たちが吸い込まれているところを見ると、生活の助けになっているらしい。
道なりに歩いていても、同じように歩いている人とすれ違うことはなかった。みな、自転車か自動車、もしくはバスに乗って移動しているらしい。この三つのうち、湊斗の選択肢に入ってくるのはバスだけだが、乗ろうとは思わなかった。
しばらく進むと、声が聞こえてきた。何と言っているか言葉までは聞き取れないが、元気な声だった。
声に導かれるようにさらに進むと、学校に行き着いた。正門と思しき門には、中学校と書かれた銘板が飾られている。
大通りを曲がり、学校に沿って歩くとグラウンドが広がっていた。グラウンドは、湊斗に近いところから野球、サッカー、さらに奥にはテニスコートがある。かなり広いグラウンドだ。
聞こえていた声は、野球部のかけ声のようだ。明らかに学生ではない男性がバッドを持ち、ボールを打っている。球児たちは、近くに飛んできたボールに向かって飛び込んだ。うまくグローブに収められた子もいれば、ボールが逸れ、後ろに横に、逃げられた子もいる。後者にはさらに追加でボールが打ち込まれていた。
暑い中、汗を流す若者を眺めながら、さらに先へと道を進む。歩道は段々と細くなっていった。かろうじて存在する道には通学路と書かれており、白線の外側が緑色に彩られているほかは、車道と違いはなかった。すれ違う車も、横をすれすれに通っていく。
恐る恐る通学路を通り、しばらくすると、歩道が復活した。無意識にため息が出ていた。
駅からは三十分ほど離れただろうか。途中にコンビニが一軒あっただけで、あとは住宅ばかりが広がっていた。道路を挟んで両側に続くアパートは、どれも外装は異なっていた。そのうちのひとつのアパートに目が留まる。二階建ての鉄筋コンクリートのアパートだ。周りのアパートとなんら変わらない普通のアパートだった。
引っかかりを感じるが、気にせず先に進んだ。
あてもなく歩いていたはずだが、足は止まることなく、大通りから外れてしばらく進んだあとも、どんどんと奥へと入っていった。とうとうすれ違う車さえも減った。
足が止まったのは、とあるアパートの前だった。今度は目が留まるだけではなく、歩きっぱなしだった足も動くことをやめていた。
駅からはかなり離れている。スマホで時刻を確認すると、駅を出てから一時間は経過していた。
アパートは、紺色を基調とした外装の二階建て。外から見た扉の数から、それぞれ五部屋ずつ、計十部屋。築年数はさほど経っていないのか、もしくは外側の塗装を塗り替えたばかりなのか、外観は新築といっても十分なほど。
アパートを前に最初に感じたのは、懐かしさだった。ここには初めて来たはずなのに、不思議な感覚だった。
二階に上がるための階段は、表通りに剥き出しの状態で設置されていた。二人ほど入れそうな幅があり、つくりは頑丈そうだ。
湊斗は階段に足をのせた。
足をのせる度、かつんかつんと音が鳴る。響く音色は、十一回で奏でることをやめた。
階段を上り、まっすぐ進むと、湊斗は二〇二号室の前で足を止めた。表札はなかった。湊斗が暮らしているマンションの部屋にも表札はないので、不思議はなかった。
扉にはポストが付いていた。ポストからは大量のチラシなどが溢れている。
湊斗は、インターホンを押した。応答はなかった。住人が出てきたとしても、困るだけなのだが。
なぜそんなことをしたのかわからないまま、二〇二号室をあとにした。他の部屋には見向きもしなかった。
アパートから駅までの道のりは、行きとは違うものを選んだ。大通りには出ず、裏道を進んでいく。
住宅地の中に、個人経営の小さな店が散見された。
しばらく道なりに歩いていると、バターのいい香りが鼻腔をくすぐった。どこから香っているのだろうかと探していると、パン屋に行き当たった。店は、この辺りの他の店と違わず個人経営のようだ。自宅の一階部分を店として使用していた。
店の前で足を止める。中には入らなかった。
歩道側はショーケースのようにガラス張りになっていて、さまざまなパンが並んでいるのが見える。食パン、バケット、クロワッサン、ベーグル。チョココロネやサンドウィッチなどもある。どれもおいしそうだ。
少しの間、外から店を眺めていた。背後を人が通ったところで、店から離れ、足を駅の方へと向けようとした。そのとき、店の中から女性が出てきた。びくりと肩が跳ねる。
四、五十代くらいのふくよかな女性だった。オフホワイトのキャスケットを被り、前かけエプロンをしている。客ではなく、パン屋の店員だろう。
女性は湊斗に気づくと、「あら」と顔を綻ばせた。
「久しぶりじゃない」と、声をかけながら近づいてくる。「しばらく顔見なかったから、体調でも崩してるんじゃないかと心配してたのよ」
女性はまじまじと湊斗の全身を眺めた。「本当に体調崩してたの? こんなに痩せちゃって」
どんどん言葉を重ねてくる女性に、湊斗は戸惑った。
「あの、誰かと勘違いされてるんじゃ……」
湊斗は小声で答える。冗談だと思ったのか、女性はおかしそうに笑った。手振りも加える。
「何を言ってるの」さらに観察するように湊斗を舐めるように見る。「確かに服の感じも、雰囲気も、何より体型が違ってるけど」
独り言のようにいくつか言葉を呟き、はっきりと湊斗の目を見た。
「でも、間違いなく
はると——
何度かその名を呟いてみる。声は出さず、何度も。
そうだ、と閃くものがあった。「彼」だ。「彼」の名だ。「彼」は、「陽翔」と呼ばれていた。
「その、陽翔さんという方は実際にいらっしゃる方なんですか?」
「何を言ってるのよ、さっきから」
これまでずっとニコニコと愛想のいい笑みを浮かべていた女性の顔が、初めて、ほんの少しだけ変化した。心配そうに眉も目尻も下がる。
「本当に陽翔くんじゃないの?」
湊斗は頷いた。
「そうなの」女性はため息をついた。「でも、本当にそっくりなのよねえ。あなたの方が色白だけれど、顔は本当に似てる。陽翔くんのこと知らないみたいだけど、親戚でもないの? たどれば、実は遠い親戚だったりしない?」
湊斗は曖昧に首を傾げた。女性の問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。
知らない人というと語弊はあるが、直接会ったことがあるわけではないため、あながち間違いでもない。何せ、今ここで初めて名前を知ったのだ。いや、思い出したのだ。
せっかくならと、女性は湊斗にパンを持たせようとしてくれた。彼は丁重に断りを入れ、自分で買うと申し出た。朝食にしようと、三つほど選んだのだが、「これ全部、陽翔くんも好きなのよ」と驚かれた。湊斗も同じように驚いた。
「陽翔さんはここによく?」
「ええ、この近くに住んでいるらしくてね」
「一人で来ることが多かったですか?」
「結婚してるなんて話は聞いてないし、父子家庭だったらしいんだけど、少し前にご病気でお父様を亡くされたらしくてね。ご兄弟の話も私は聞かなかったし、天涯孤独だったのよね」
「そうですか……」
急に頭痛がした。石でもぶつけられたような痛みに顔をひずめるが、女性には気づかれなかった。
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