1-3 記憶

 画面が切り替わると、馴染みのある音楽が流れ始めた。それを合図とするかのように、テーブルに料理が並べられていく。

 時刻は正午十五分前。

 平日、毎日同じ時間に始まる短い料理番組を見る習慣ができて以来、その時間帯にお腹が空くようになり、必然的に昼食の時間が決定した。

 本日のメニューは、そうめんに夏野菜を載せたもの。夏野菜には、煮しめにしたナスとオクラ。半分に切ったミニトマトも載せている。みょうがやねぎなどの薬味は別皿に添えている。どれも先日、料理番組で紹介されていたものだ。

 麺をすすりながら、紹介される料理に目も耳も傾ける。今日は豚しゃぶだ。ナスも添えられ、つけダレにはきゅうりも使用されている。これも夏バテの身体にはちょうどよさそうなメニューだ。実際、ここ最近夏バテ気味だった。

 湊斗は一旦箸を置くと、横に置いてあったメモ帳にレシピを書き留めた。

 ここに来て数日。初めて与えられた自由に、いまだに戸惑いを隠せない湊斗は、時間を持て余していた。

 暇つぶしとして、テレビを見ることが多かった。テレビは、リビングダイニングに設置されている。四十五型と大きな画面は、不思議と圧迫感を感じない。おそらく思っている以上に部屋が広いのだろう。

 テレビは朝のニュースから、昼の情報番組、ドラマなど色々試しに見てみたが、特に心惹かれるものはなかった。唯一、昼の情報番組の前に放送される料理番組だけは、欠かさず視聴していた。

 テレビを見ていて、思い出したこともある。世の中の人は学校に行ったり、働いているということだ。

 学校には小学校から高校、大学や専門学校などがある。仕事は人によって種々多様だ。

「彼」も仕事をしていたはずだ。学校に通っていたことも知っている。むしろ、学生時代の「彼」の方が記憶に新しい。

「彼」は高校を出ると、大学に進学した。専攻は理工学系だったと記憶している。記憶といえば、「彼」はどちらかといえば文系科目を得意としていた。国語と社会、特に日本史を好んでいた。「彼」が学生だった頃、湊斗はいつものカウンセリングのあとに、テストを受けた。テストは国語や数学、英語など。「彼」が受けていたものに似ていた。

「彼」が文系を得意としていたのに対し、どちらかといえば湊斗は理数科目の方が好きだった。数字や化学式に触れている方が楽しかった。点数も、理数科目の方が高かった。

 何度目かのテストのあとに、「悪くはないですが、数学に比べて国語は少し点数が低いですね」と、白衣の男性に言われたことがある。これに対し、湊斗は正直に答えた。「数学の方が楽しいんです」と。

 湊斗がそのことを口にしたのは、この一回だけだ。唯一、自分の意思を伝えた際、白衣の男性は眉をしかめた。湊斗はまだ幼い時分だったが、故に相手の表情の機微に鋭かった。以来、要望を伝えないどころか、彼がいい顔をしてくれるように、文系科目の点数が高くなるように解答していた。

 反動は遅れてやってきた。自由になった湊斗は、暇な時間を勉強にも充てた。書店で、まずは小学生用のドリルを購入し、足し算、引き算から始めた。かけ算、わり算も分数の問題も難なく解けた。三角関数も微分、積分も問題なかった。

 ブルーチャートを購入したところで、一旦保留にし、今度は化学の問題集を解いてみることにしている。買っては来たが、まだ開いてはいない。

 自由になった時間に、テレビを見る、勉強する。他に料理も始めた。これが意外とはまった。

 はまったといっても、うまいものができるとは限らない。この前は、麻婆豆腐をつくろうとして失敗した。麻婆豆腐の素が食材ストックの中に入っており、親切なことに裏側につくり方が書かれているので、初心者でもつくれるだろうと容易にメニューを決めた。

 ところが、順調だったのは途中までで、とろみをつける段になって様子がおかしくなった。レシピ通りにつくっているはずなのに、まったくとろみがつかないのだ。しばらく待ってみたが、いつまで経ってもサラサラしたまま。

 液体状の麻婆豆腐を食べる気にはなれず、どうしたものかと考えていると、昼の料理番組で取り上げられていたことを思い出した。何をつくっていたかまでは覚えていないが、とろみをつけるために白濁した液体を入れていたはずだ。

 調理料がまとめて置かれている棚を漁っていると、片栗粉を発見した。これだ、と思った。確か、これを水に溶いてから使うのだ。

 分量はわからないが、目分量を水に溶き、液体麻婆豆腐にまわしかける。これでとろみができる、と思いながらかき混ぜたときには遅かった。液状の麻婆豆腐は一瞬のうちにダマを残してガチガチに固まってしまった。豆腐のやわらかさなど、最初からなかったかのようにきれいさっぱり消え去った。

 少しの間、湊斗は放心していた。捨てるわけにもいかない。とりあえず、一口食べてみる。おいしくはなかった。

 おいしくない麻婆豆腐もどきを食べながら、違う、と思った。片栗粉のくだりは、テレビで見たのではない。「彼」だ。「彼」が同じように液状の麻婆豆腐に、水溶き片栗粉を入れていたのだ。

「彼」と同じ失敗をしたということか。いや、「彼」の失敗をいたからこそ、たどってしまったのかもしれない。

「彼」もまた捨てるわけにはいかないからと、凝固した麻婆豆腐を食べていた。湊斗がつくったものとさほど変わらないはずだが、「彼」は笑っていた。「まずい」と言いながら、楽しそうに笑っていた。

 食事をすませ、手を合わせる。席を立ったところで、喚起音が鳴った。あわてて顔を上げると、「臨時ニュース」と、画面の上部にテロップが出ていた。

 続く言葉を注視していると、「連続無差別刺殺事件・潮部容疑者の死刑確定!」と続いた。

 昼の情報番組から報道番組へと変わるとすぐに、臨時ニュースの速報が伝えられる。内容は、複数人殺害した殺人犯の死刑が確定したというものだった。

 事件の詳細については報道されなかった。裁判が始まったのは数年前ということなので、すでに周知されているのだろう。

 衝撃的なニュースは、「被害者、被害者遺族に対する謝罪はなかったということです」と締めくくられた。

 湊斗の中に、悲しい気持ちが流れ込んできた。同時に、もどかしいような、やりきれなさも感じる。憤りも感じ、胸の辺りが熱くなった。

 どうしてこんなに感情が動くのかはわからない。

 不意に、「彼」のことを想った。「彼」に最後にときのことを思い出そうとした。しかし、その直後頭が痛んだ。全身に鳥肌も立っていた。思い出そうとすればするほど、悪寒がした。身体が拒んでいるかのようだった。

 気づけば椅子にどっしりと腰を下ろしていた。片付けるはずだった食器は、汚れたままテーブルの上に置かれている。

 湊斗はひとつため息をついた。深いため息だった。

「彼」のことは思い出せる。「彼」がランドセルを背負っていた頃のことも、ネクタイをしめ、スーツを纏っている姿も記憶に新しい。

 ただ、最後に「彼」を見たときのことだけが曖昧だった。思い出そうとすると、頭が痛んだ。

 立ち上がる気にはなれず、しばらくぼんやりとしていた。

 気を紛らわそうとして、何か違うことを考えようと思い、思い浮かんだのはおいしいものが食べたいということだった。自分でつくったものにも飽きてきたので、別のものがいいなと思う。

 ふと、先ほどまで見ていたテレビで特集されていたベーカリーが浮かぶ。

 なるほど、パンか。パンもいい。

 パンならあの店がいいな、と頭に思い浮かべたが、どこにある店なのかはわからない。店名も知らない。何せ、そのパン屋には行ったことがなかった。

「彼」が行っていた店だ。よく通っていた店。

「彼」に教えてもらえないだろうかと考えて、はてと首を傾げる。ここに来てから一度も「彼」を見ていない。

「夢」の中で見ていた「彼」。自分とまったく同じ顔をしている「彼」。

 そもそも実在するのかさえもわからない。

 自分のこともよくわからない湊斗だが、「彼」のことも知りたくなった。ただ、その手段はなく、諦める以外に方法はなかった。

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贖罪の果て 小鳥遊 蒼 @sou532

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