1-2 外の世界

 簡単に食事をすませた頃には、少し落ち着きを取り戻していた。

 食べるものがあるかもわからないまま、何も考えずに食事をとろうとしていたが、ありがたいことにこの家には食材が備えられていた。冷蔵庫の中には魚や肉、葉物野菜に大根などの根菜類。果物やヨーグルト、牛乳もある。電子レンジが置かれている棚は三段になっていて、一番上に電子レンジ、真ん中に炊飯器、下には調味料や食パン。米も置いてあった。

 キッチン横の窓にはスペースがあり、トースターと電気ケトルの置き場として利用されている。

 食器棚の引き出しには、缶詰とインスタント食品がいくつか。未開封のジャムもそこにあった。

 湊斗は食パンをトースターで焼き、ジャムを塗って食べた。トースターは、取扱説明書を見ながら使用した。説明書はすべてまとめて食器棚の引き出しの中に入っていた。

 食事を終えると、湊斗は服を着替えた。食材と同じく、衣類もまた用意があった。目を覚ましたときに開けたクローゼットの中に、服が並んでいた。

 湊斗はこれまで、パジャマのようなものしか着たことがなかったので、何を着ればいいのか悩んだ。「夢」の記憶をたどり、「彼」の真似をしてみようかとも考えたが、部屋に用意されていた服は、「彼」が着ていたものに似てはいなかった。「彼」は色のある服を着ていることが多かったが、用意されている服はモノクロのものがほとんどだった。

 湊斗は黒いTシャツと、黒のテーパードパンツを選んだ。着替える際、裸になった身体を見下ろす。肉はなく、あばらの骨が浮き出ていた。そんな身体を覆い隠せるほど、Tシャツは大きかった。相変わらず肩のラインは腕の方へとずり落ちている。ズボンもぶかぶかで、ウエストにはベルトをつけた。ベルトは黒ではなく、茶色だった。

 かばんもあったが、大きいトートバッグしか見当たらなかったので、諦めた。一万円札二枚を封筒から取り、半分に折ってズボンのポケットに入れた。

 寝室を出てすぐに見た形の違う最後の扉は、玄関の扉だった。玄関は靴を脱ぎ剥ぎするスペースが少しあり、靴箱も備え付けられていた。その中に何足か靴も入っていたが、表に出ているスニーカーに足を通した。こちらも黒いものだった。

 玄関の扉を前に、ひとつ深呼吸する。扉の先は、湊斗にとっては未知の世界だ。本当に外に出られるのかどうかも、疑心暗鬼だった。

 それでも、自由になったことを実感するために、外に出てみることにした。ここにいても、何もわからない。

 かちゃりと音を立てて鍵をまわす。開いた感触があった。

 ドアノブに触れる手が震える。意を決して、扉を押し開けた。

 外に出た瞬間、眩しさに目を閉じた。むわっとした熱気が身体全体に触れる。

 一瞬で部屋の中へと引き返したくなった。実際、右足は玄関の床を踏んでいる。

 しばらくその場でじっとしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。何より、外に出られたのだ。本当に、外へ。

 これほど眩い世界を見るのは初めてだった。

 テーブルに置かれていた鍵をさしてみると、ピタリとはまった。まわすと、開いたときと同じ音を立てて、今度は施錠した。鍵はお金を入れている方とは反対のポケットにしまった。

 扉の前は長い廊下が広がっていた。湊斗が出てきた部屋は角にあり、進む先は決まっていた。

 しばらく進むと、階段とエレベーターに衝突する。エレベーターの右上には「8」という数字が書かれている。八階にいるのか、と漠然と思った。

 一階に降りるために、エレベーターを利用しようかとも思ったが、やめた。稼働していて、誰かと遭遇するのを避けたかった。

 階段を下り、一階につくと扉があった。押したが開かない。色々試しているうちに開いた。内側に開くタイプだった。

 外に出る前にすれ違った人に会釈され、同じものを返す。そのまま立ち去ろうとしたが、扉が開く気配がなく、湊斗は振り返った。先ほどすれ違った人は、扉横に設置されたシルバーの板のようなものに鍵をさしていた。その後、扉を開け、中へと入っていく。

 湊斗は扉まで戻り、押してみた。が、扉は開かない。中に入れなくなった、と思った。

 先ほどの人物が鍵をさしていたシルバーの板を見る。そこには0〜9までの十個の数字と、「呼出」と書かれたボタンが並んでいた。斜め下あたりに鍵の差し込み口がある。ここに鍵を入れるということか。湊斗が持っている鍵といえば、部屋を出てくるときに使ったものだけだ。同じもので開くだろうか。

 戸惑いながらも、差込口に鍵をさしてみた。鍵はささった。カチッとまわすと、解錠された音が聞こえた。扉を押してみると、今度は開いた。

 ほっと安堵する。先に知れてよかったと思った。

 外に出てみると、建物の全貌が明らかになった。建物は十二階建てのマンションだった。扉の数からして、各階の部屋数は八だろう。

 向かいもマンションだった。より高層のマンションだ。他には戸建てもある。大きなショッピングモールのようなものは見当たらない。

 湊斗はあてもなく歩いていた。目に映るすべてが新鮮だった。公園も、そこにあるブランコも鉄棒も、赤ん坊を乗せたベビーカーも、車も自転車も、電柱も。実際に見るのは初めてだった。外に出ること自体、おそらくこれが初めてなので、当然かとも思った。

 商店街の前までやってくると、入り口に設置されている時計は夕方六時をさしていた。空はまだ明るい。街灯はまだ灯っていない。

 商店街を入ってすぐ、精肉店があった。こぢんまりとした店だ。店頭には精肉はもちろん、揚げ物などの惣菜も少し並んでいた。その中のコロッケに目を引かれた。

 そういえば、「彼」もよくコロッケを食べていた。

 店はもちろん違うが、少しでも同じ感覚を味わえないかと、コロッケを買ってみようと思い立つ。しかし、どうすればいいのかわからず、店の前で戸惑っていると、奥から男性が出てきた。「いらっしゃい」と声をかけられる。湊斗はさらに動揺した。

「コロッケをいただきたいのですが」と、やっとのことで口にする。

「どれにする? 一番人気は牛肉コロッケだよ。今なら揚げたてだ」

「じゃあ、それを」と言いながら、ポケットからお金を取り出す。

「牛肉コロッケ一個?」

 店の男性は、怪訝そうな顔を浮かべて訊く。質問の真意はわからなかった。

「細かいのないの?」

「細かいの?」

「一万円しかないのって訊いてるんだけど」

 男性はさらに眉を寄せた。言わんとすることが、なんとなくわかった。

「すみません、これしかなくて」戸惑いの中、ショーケースを眺める。「牛肉コロッケとカニクリームコロッケを五個ずつください」

「はいよ。牛肉コロッケ一個はおまけしとくよ。今食べるかい?」

 頷くと、他のものとは別に紙に包んで渡してくれた。

「どっちも冷凍できるから、今日食べ切らなかったら冷凍しときな」

 礼を言い、湊斗は帰路についた。

 早速、一口かぶりつく。一番人気というだけあって、おいしかった。

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