贖罪の果て
小鳥遊 蒼
第一章 「彼」
1-1 顔
ぴちゃん、と音がした。その音が目覚ましの代わりとなったのか、彼は眠りから醒めた。
目は開けないまま、耳をすませる。確かに水の音が聞こえたように思ったが、あたりは静かだった。いくら集中しても、鼓膜を振動させるものはない。何より、馴染みのある水音ではなかった。
寝ぼけていたせいかもしれないと、彼はやっと目を開けた。いつものようにゆっくり、少しずつ開けていく。
暗闇ではなかった。明るいが、蛍光灯の明るさではない。
身体は横たえたまま、目線だけを動かす。窓がある——最初に浮かんだのは、そんなことだった。それだけでも、ここが見知らぬ場所だということは、すぐにわかった。
開けたばかりの目を閉じる。視界が閉ざされると、他の感覚が強くなる。彼は手のひらで近くにあるものに触れた。最初に手に触れたものは布だった。シーツだろう。
違う——ひと撫でして、そう思った。
眠るときに用意されていたものと違っている。これまでのものよりもやわらかい。体重をかけると、吸い込まれるように身体が沈んだ。
はて、一体ここはどこだろう。
再び目を開け、軽く擦ると、まだ少し寝ぼけ眼が抜けていない状態で起き上がった。
ベッドの上にいた。見慣れたものではなかった。シーツはすべて白で統一されている。まるでホテルのベッドのような——
ホテル?
彼は首を傾げた。ホテルに行ったこともないのに、どうしてそんなことがわかる? 何かで見たのだろうか。
視線を落とすと、これまた見たことのないような服を着ていた。身につけているものも、真っ白だった。布団を一枚めくると、ズボンまで履いている。もちろん白。
長袖長ズボンの上下セットの寝巻きのようだ。これまではワンピースタイプのものしか着たことがなかった。自分で着替えた覚えはない。
この部屋には、ベッドの他には何もなかった。あとは部屋の扉と、窓があるだけ。窓にかけられたカーテンも、シーツや寝巻きと同じ色だった。
ベッドと扉まではいいが、窓はおかしい。あの部屋には窓はなかったはずだ。廊下にも、他の部屋にも窓はなかった。それに、部屋も心なしか広いように感じる。
彼は部屋をぐるりと一周した。呼び出し用のボタンがないかどうか確認したが、そんなものはどこにもなかった。扉とは別に、取っ手がついている箇所があった。取っ手を引っ張ってみると、中には服が並べられていた。勝手に見てはいけないと、慌てて閉める。
彼はベッドに腰かけた。「すみません」と、何度か声をかける。応答はない。
しばらく考えたあと、彼は立ち上がり、扉の方へと歩き出した。ドアノブに手をかけ、もう一度「すみません、誰かいませんか」と、問いかける。扉に耳を押し当てすましてみるが、静まり返っていた。
ここがいつもの場所なら、彼は扉を開けようなどとは思わなかっただろう。なぜなら、開け方がわからなかったからだ。あの部屋の扉には、ドアノブなんてものはなかった。真っ平だった。別室から戻るときに、白衣の男性がキーパッドを操作しているのを見たことがあるが、何をどうすれば扉が開くのか、彼にはわからなかった。
しかし今、目の前にある扉にはドアノブがある。扉に垂直になっているL字型タイプのドアノブだ。ドアノブの開け方は彼も知っていた。手をかけ、床に向かって力を加えると、扉は静かに開いた。
部屋を出る前にまた声をかけるが、やはり返答はない。
廊下に出ると、扉は他に四つあった。うち二つは、他のものと形態が異なっていた。
形態が異なる扉のうちのひとつは、扉の真ん中にすりガラスがはめ込まれているタイプだった。部屋からの明かりが、廊下まで漏れている。
光に誘われる虫のように、彼はその部屋へと吸い込まれていった。
すりガラス付きの扉の先には、ベッドが置かれていた部屋の三倍ほど大きな部屋が広がっていた。窓もある。先ほどの窓の倍はある。カーテンの材質が違うのか、より明かりが漏れ込んでいる。カーテンの色はやはり白だった。
入ってすぐキッチンがあり、その先にはリビングダイニングのような空間が広がっていた。出窓の近くにはローテーブルとソファ、大きなテレビが設置されていた。リビング部分にはテーブルと二脚の椅子。植物などはない。
「誰かいませんか」
もう一度声をあげる。結果は変わらなかった。
どうしたものかと思いながら、部屋を一望する。部屋の奥にも、また別の扉があった。そちらに向かおうとして、ふとリビングのテーブルに視線がいった。テーブルの上には、一枚の紙が置かれていた。メモ用紙程度の小さなもので、これもまたシーツや身につけている服と同じ、真っ白な無地のものだった。罫線なども引かれていない。
メモ用紙の他に、鍵がひとつとスマートフォン、それから封筒が置かれていた。鍵とスマートフォンにケースはなく、本体そのものだけで置かれている。
彼はまず、紙に目を落とした。紙には黒いインクで文字が書かれていた。メモを持ち上げると、書かれている文字を目で追った。
「君の名前は、
書かれているのはそれだけだった。メモ用紙は余白の部分の方が多い。
次いで、封筒の中を見た。封筒には、クレジットカード一枚と、一万円札が何枚か入っていた。
封筒にカードとお金を戻しながら、彼は自分の失態に気づいた。メモに書かれているメッセージを勝手に読んでしまった。これは、自分に宛てられたものではない可能性の方が高い。何せ、君の名前だと書かれているものに、ピンとこなかったからだ。
これまでに彼が暮らしていた場所で、彼の名を呼ぶ者はいなかった。だから、彼は自分の名前を知らない。知らないが、ここに書かれている名前は「違う」と思った。
彼は心の中で「稲森湊斗」に謝罪した。勝手に読んでしまってごめんなさい、と。
焦る気持ちを落ち着かせるように、彼は手近な椅子に腰かけた。ひとつ、ため息をこぼす。
ここは一体どこだろう。
ここがどこなのかもわからなければ、どうして自分がここにいるのかもわからない。
よくないと思いながらも、もう一度メモに目を落とした。名前の部分に注視する。
「稲森湊斗」
声に出してみるが、やはり馴染まなかった。
名前がわからない。どうして自分がここにいるのかも、ここがどこなのかもわからない。
記憶喪失だろうか? ——それもまた違う、と思った。記憶ならある。ここに来るまでのことは覚えている。これまでいたところが、どんなところだったかは思い出すことができる。暗い場所だった。ベッドがひとつだけ置かれた部屋は、必要最低限——眠るために用意された部屋のようだった。明かりも、転ばない程度のわずかなものしかない。
部屋を出ることもあったが、そのときは必ず付添人として、白衣を着た男性がそばにいた。彼がいなければ、部屋から出ることも、入ることも適わなかった。
廊下も薄暗かった。扉はいくつかあったが、寝起きしていた部屋の他に入ったことがある部屋は、ひとつだけだった。そこにはテーブルや、テレビが置かれていた。
彼はほとんどの時間を眠って過ごしていた。ベッドしかない部屋で眠り、時折人がやってきては部屋を移動して話をする。映画を観ることもあった。タイトルをすべてあげることはできないが、内容は覚えている。冒頭がわかれば、内容はすぐに出てくるだろう。
映画を観て、感想も話した。毎日その繰り返しだった。
顔を合わせる人は一人だけだった。白衣を着た男性ただ一人。顔を思い浮かべることもできた。
全体的に薄暗いその空間は落ち着かなかったが、眠っている間は心地よかった。水の上に浮かんでいるような、それでいて温かい何かに包み込まれているような感覚だった。
そこまで思い出して、これまでいた場所もまた、それがどこなのかわからないということを認識させた。
スマートフォンに目を移した。実物を見るのは初めてだったが、これがスマートフォンということは知っていた。略称が「スマホ」だということも知っている。
なぜ?
答えはすぐに出た。見たことがあるからだ。
どこで?
映画だったかもしれない。スマホで電話も、調べものをすることも、音楽を聴けることも知っている。知識だけはあった。
他にテーブルに置いてあるのは鍵だ。キーホルダーも何もついていないシンプルなもの。メモには何も書かれていない。どこを開けるものなのか、鍵にも明記されていないが、おそらく家の鍵だろうと推測した。
結局わかったことは、自分は記憶喪失ではない、ということだけだった。
何かヒントになるものはないかと、彼は部屋の中を探索することにした。まず、ダイニング横にある扉を開けた。広さは、最初に眠っていた部屋と変わらなかった。中には何もなかった。
リビングダイニングを出ると、部屋は残り二つ。扉を開けた先は、トイレと風呂場だった。風呂場の方は脱衣所もあり、そこそこの広さがある。洗濯機も脱衣所の中に設置されていた。洗濯機はドラム式で、乾燥機もついている。
いないとわかってはいるが、念の為、洗濯機の中に誰かいないか、開けて確認した。洗濯物の類は入っていなかった。もちろん、人も入っていない。
シャワールームへとつながる扉は開かれていて、そこに誰もいないのは一目瞭然だった。
リビングに戻り、キッチンへと足を進めた。喉の渇きを感じ、水でももらえないかと食器棚を物色する。食器棚は木製で、引き出しが二段、その上に両開きの扉がついているものだった。両開きの扉はガラス戸になっていて、開けずとも中が見えた。グラスは右側にあった。
彼は「ちょっとお借りします」と言ってから、グラスを取った。
キッチンの流しには浄水器がついていた。ハンドルを回し、浄水をグラスに注ぐ。全身が潤っていくのを感じた。
キッチンは他に冷蔵庫、電子レンジ、トースター、炊飯器などが置いてある。コンロはIH式のものが二口、魚グリルもついている。磨かれたようにきれいなキッチンだった。思えば、グラスも水垢ひとつついていない。
彼はそそくさとグラスを洗うと、冷蔵庫の横に取り付けられているキッチンペーパーで水滴を拭いた。
再びリビングに戻ると、彼は椅子に腰を下ろした。開き直ったかのように、もう一度メモに目を落とした。
「君の名前は、稲森湊斗。そこは君の新しい家だ。そこにあるものは好きに使っていい。お金も自由に使っていい。何をしてもいい。自由に過ごしてもらって構わない」
視点が合っているかどうかわからない中でメモを見ていると、徐々に記憶が蘇ってきた。
外に出られたんだ——
彼の中での「外」とは、ずっと身を置いていた場所以外のところを指す。
思い返すと、説明があった。説明といえるかどうか微妙なところではあるが、用済みになったのだということだけはわかった。つまり追い出されたのだ。
ほとんど寝て過ごしていたのだ。起きているときは、少し話をして、映画を観て、どう感じたのか話す。毎日その繰り返し。追い出されても仕方ないか、とも思う。
メモは彼に宛てられたものだろう。名前は湊斗というらしい。稲森湊斗。頭の中でつぶやいてみるが、やはりピンとはこなかった。
「自由に過ごしていい」
湊斗にとって、それはとても難しいことのように思えた。これまで指示されるままに行動してきて、自主性はまったくない。やりたいこともなければ、何ができるのかもわからない。
これからどうすればいいだろうかと考えていると、お腹が鳴った。お腹に熊でも飼っているのかと思うほど、大きな音だった。
まずは腹ごしらえをしよう。その前に、顔を洗うことにした。
洗面所に行き、明かりをつける。洗濯機の向かいに洗面台があった。その横にプラスチック製の衣装ケースが三段重ねられていて、その上にはカゴが置かれていた。カゴの中には丁寧にたたまれたタオルがいくつか入っている。
洗面台には、胸から上部分を映せるほど大きな鏡があった。
洗面台の前に立つと、顔が鏡に映る。黒い短髪。肌の色は白く、二重の目は目頭はつり目気味だが、目尻にかけて下がっている。印象としては、タレ目に見えるだろう。鼻筋は通っているが、唇は薄い。鏡に収まるほど、華奢な肩。実際、着ている服の肩のラインは、だらしなく下に落ちていた。
鏡に映った自分の顔を見て、湊斗は驚いた。
「彼」だ——
湊斗が眠っている間に見ていた——彼が「夢」と称していたものの中で見ていた男性と、まったく同じ顔をしていた。
日焼けしているのか、肌の色は「彼」の方が健康的な褐色で、肉付きもよかった。太っているという印象ではなく、おそらく筋肉なのだろう。
色や体格の違いはあるが、顔のつくりは同じだった。間違えようがない。何度も何度も見ていた顔だ。驚くほど瓜二つだった。
顔を洗ってみても、何も変わらなかった。やはり「彼」と同じ顔だ。
食器棚のガラス戸にも映っていただろうに、気づかなかったのかと、湊斗は自嘲気味に笑った。実際、あのときはグラスを探すことと、勝手に使用する罪悪感で、それどころではなかった。
考えるべきはそんなことではないが、わからないことが次から次へと増え、何かする度に増幅していく。そんな恐怖に、どうでもいいことで頭を占領することでしか、落ち着きを取り戻すことができなかった。
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