第41話 怪物
揃いの衣装を着て玄関ホールに立つカルロスとクロエを、ルイシーナは仮面の下で唇を結びながら見送った。二人はトーレス男爵夫妻として出席しなければならない晩餐会に出かけていったのだ。
ルイシーナはそんな晩餐会があるなんて知らなかった。それはクロエもだったらしく、家族五人で朝食をとっている際にカルロスから言い渡され、驚いていた。それどころか侍従たちも知らなかったようで、トーレス家はアデライアがいた頃のようにバタバタと慌ただしく支度をするはめになった。
ただ、ドロテオは知っていたようだ。カルロスが晩餐会の話を持ち出した際にドロテオを確認したら、ドロテオは嗤っていた。ルイシーナはドロテオの笑みを見て、これがドロテオの狙っていたことだったのかと理解した。おそらく皆が知らなかったのはドロテオの策略だろう。
二人が屋敷からいなくなってしまったら誰もルイシーナを守れなくなる。ドロテオはその隙を突くつもりなのだ。
案の定、二人が出ていくと隣に並んでいたドロテオは腰を抱いてきた。
ルイシーナは叫びそうになるのをぐっと堪え、過剰に反応しすぎないよう注意して距離を取った。拒絶の意思を伝えているにも関わらず、ドロテオは取るに足らないとでも言うように余裕そうだ。目上の邪魔者二人がいなくなったことで、今やこの屋敷の主は自分だとでも思っているのだろう。ルイシーナを差し置いて。
ルイシーナがドロテオを睨んでけん制していると、侍従長が夕食の用意ができたことを報告しにきた。一先ず夕食を食べることにして、ルイシーナとドロテオは一定の距離を保ったまま食堂へ向かった。
バレンティアを交えた三人での食事はひたすら耐えなければならない苦行だった。隣に座ったドロテオが気を抜くと足を触ってくるのである。払いのけても繰り返してくるものだから、早く食べきることに専念しなければならなかった。
出されたものを味も分からぬまま次々飲み込み、素早く食事を終えたルイシーナは、すぐさま席を立って走って自室に飛び込んだ。そうして中から鍵をかけてベッドに潜った。
頭まで布を被り、薄いカーテンから入り込んだ月明かりに照らされた室内を凝視する。
扉をノックする軽い音に、身体が震えた。
「僕だよルイシーナ」
怪物の声がする。
ルイシーナが黙っていると、がちゃがちゃと鍵のかかった扉を開けようとする音が聞こえてきた。扉が揺れている。けれどしばらくすると何も聞こえなくなり、足音が遠ざかっていったので諦めたのかと思って安堵した。
しかし。
再び足音が近付いて来たと思うと、音を立てて扉が開いた。
耳の後ろで心臓が早鐘を打つ。
家人のドロテオの前では鍵なぞ無意味。侍従の誰かを護衛に置いたって乱暴に追い出されて終わりだ。だからカルロスとクロエが出かけると知った時、敢えてルイシーナは誰にも守ってもらわない選択をした。
「眠ってしまったのかい?」
床を踏み鳴らして怪物が近付いてくる。
吐き気さえ感じる不安と緊張。
ぎしり、とベッドが軋んだ。
途端、ルイシーナは弾かれたように布を撥ね退けて逃げようとした。しかし後ろから抱き着かれ、強引にベッドに倒されてしまった。
「ほら、僕の言った通りだ」
闇の塊のような怪物が馬乗りになってくる。腕を掴まれ、ベッドに押し付けられた。
「やめなさい! 放しなさい!」
ルイシーナは無茶苦茶に身体を捻り、足を振り回して抵抗した。かえって相手に怪我をさせるのではないかというくらい、必死に暴れた。
「ちっ! この! 大人しくしろ!」
怪物が舌打ちをして手を振り上げ、ルイシーナは咄嗟に目を瞑って顔を庇った。
刹那。
骨と骨がぶつかる音がして、馬乗りになっていた気配が消えた。もちろん痛みも衝撃もやって来ない。
「俺の娘に手を出そうとは! このケダモノめ!」
雷のような怒号が響く。
恐る恐る顔を上げてみると、暗闇の中で息を荒げたカルロスがベッドから落ちた怪物――ドロテオを見下ろしていた。
床に転がっていたドロテオは呻き声をあげながら上体を起こした。
「と、父さん!? どうして!? クロエさんと晩餐会に行ったんじゃ……」
「逆手に取ったのよ!」
クロエがバルコニーから現れてルイシーナに駆け寄ってきた。
「ごめんねルイシーナ。此奴の本性を暴くための計画だったとはいえ、恐い思いをさせたわね」
頬に手を当て、心配するクロエ。ルイシーナは「大丈夫よ」と微笑んで返した。
「なんで……どうして……」
「お父様とお母様がいらっしゃらない隙を突こうとしたのでしょう。けれどかえって貴方の本性を暴くには絶好の機会だと思ったのよ」
状況が分からず混乱するドロテオに、ルイシーナは急遽決行することになった計画を話した。
今朝、夫婦で参加せねばならない晩餐会があると聞いたルイシーナとクロエは、ドロテオやバレンティアに悟られないよう話し合って、この機会を逆手に取ることにした。晩餐会への参加は決まっていて、ルイシーナを守る盾が無くなってしまうことは避けられない。ならばこれまでどれだけルイシーナとクロエがドロテオの本性の話をしても信じてくれなかったカルロスに、実際に現場を見せてやることにしようと思ったのである。
そこで二人は、一旦晩餐会に行くふりをして屋敷を出てから侍従用の裏口から入り、ルイシーナの部屋のバルコニーで待機してドロテオを待つ、という計画を立てた。
難関を極めたのはカルロスの説得だった。半分でも血を分けた弟であるドロテオがルイシーナを襲うはずがないと思っていたカルロスは、計画を話しても「そんなことをする必要はない」の一点張りだった。それでもルイシーナとクロエは諦めずに説得を続けた。もちろんドロテオやバレンティアに気づかれないように。幸い侍従たちが協力してくれたため、二人に計画が漏れることなく、カルロスを説得して決行までこぎつけられた。カルロスはしつこい二人に根負けして仕方なく重い腰を上げたのだが、もしかしたらドロテオの潔白を晴らすためだったのかもしれなかった。結果はルイシーナとクロエが予想した通りだったが。
「……僕を嵌めたのか! 騙したのかルイシーナ!」
計画を話し終えるとドロテオは怒号を響かせ、ルイシーナを睨んだ。
「騙していたのはお前だ!」
ルイシーナの代わりにカルロスが怒鳴った。
「弟のふりをして俺の娘になんてことを!」
「ふ、ふりではありません! 僕は貴方の息子です! 本当の息子です!」
「黙れ! 姉を襲う弟がどこにいる! お前なんか俺の息子ではない! 出て行け!」
カルロスが腕を振り上げてドロテオを追い立てると、ドロテオは転がるようにして部屋から出ていった。
しばらく興奮したカルロスの息遣いだけが部屋の中に籠った。
ルイシーナは黙って驚異の去った扉を見つめていた。
何とも、あっけない。悩んだ時間がもったいないと思える程だ。守りたいと思った人が消えるのが簡単なら、壊したくないと思った家族の形が崩れるのもあっという間だった。
自分が望んだことなのにどこか虚しい。しかしドロテオのことはこうでなければ解決しなかっただろうと思うのだった。
父には、大事な跡取り息子を追い出すことになってしまって申し訳ないけれど。
銀の光の差す闇の中で、カルロスとルイシーナは時間が止まってしまったように見つめ合ったまま動かなかった。
クロエが部屋の明かりをつけ、橙色の光が部屋を満たすと、二人の時間はようやっと動き始めた。
カルロスはベッドの脇に跪いて、ルイシーナに頭を下げた。
「すまないルル。俺は、お前の話をもっと聞いてやるべきだった。お前を信じてやるべきだったのに、信じてやれず、すまなかった」
たった一度の謝罪で胸が締まって涙が出そうになるのは、単純すぎるだろうか。
「良いのよお父さん。話すのが苦手だからと黙っていたわたくしにも非があるわ。ちゃんと口に出さないといけなかったのに。だからこれからは言うわ。わたくしを大事にしてくれてありがとう、お父さん」
カルロスに抱きしめられ、ルイシーナは力強くも優しい腕に安心感を覚えた。
カルロスは決して悪い人間ではない。ルイシーナにとっては家族思いの善き父親だった。ルイシーナが家族を大事にしたいと思うのは、カルロスが大事に守ってくれているからなのだ。
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