第37話 酷い裏切り 7

 ルイシーナは感動で胸がいっぱいになった。お互いのことだけでなく、ルイシーナが譲れなかった家族、クロエのことも考えてくれる気持ちが嬉しかった。


 クロエの目がベルナルドへ向いた。初めてクロエがベルナルドを真っ直ぐ見たような気がした。


「……私の許可なんて必要? だってこの家のことはカルロスが決めているのに。私は何の決定権も持たないただの同居人よ」


 震える唇には自信がない。


 ただの同居人、なんて。なんて悲しいことを言うのだろう。ルイシーナはクロエがそんなことを思っていたなんて知らなかった。一体クロエはいつからそんなに寂しい思いをしていたのだろうか。そんなことはないとすぐに否定したかったのに、胸が詰まって言葉が出なかった。


「貴方は旦那様のかけがえのない伴侶であり、子どもを愛する立派な母親だ。だからルイシーナも貴方を愛しているんです。胸を張ってください」


「私は……立派なんかじゃない。私は狡いの。ルイシーナが聞き分け良く従ってくれることに甘えて、ルイシーナにばかり我慢させて苦労をかけてしまった。どうしようもなく弱い人間だから、肝心な時に守ってやれず、どうにかこれ以上悪い方へいかないように閉じこもることしかできない、愚か者なのよ」


「貴方は我が子を守り、家族を守っていらっしゃいます。誰にでもできることではありません。貴方は強い。そして人に愛を与えられるくらい、愛に満ちた方です」


 何も言えなかったルイシーナに代わるように、いやそれ以上に、ベルナルドは輝く言葉を言ってくれた。


 目が熱くなる。見るとクロエの目も潤んでいた。


「どうして私にそんな言葉をかけてくれるの? 私は貴方に酷いことをしたのに」


「僕は貴方を恨んでいないからです。貴方の気持ちが分かってしまうんですよ。僕は貴方にとって大事な娘を汚し、家族を壊そうとした悪い男でしょう。皆を守ろうとして攻撃に転じるのはままあることですから」


 困ったように笑うベルナルドに、遂にクロエは涙した。


「なんて良い子なの。……私は、なんてことをしたのかしら。ごめんなさいベルナルド。ごめんなさい、ルイシーナ」


 ルイシーナもベルナルドの隣で跪き、クロエの手を取った。


「謝らないでお母さん。わたくしはお母さんの娘で本当に良かったと、この家族と一緒にいられて良かったと思っているのよ」


「あぁ、ルイシーナ。私の可愛い光の子。貴方を生んだことを誇りに思うわ。こんなにも優しい子に育ってくれてありがとう」


 今度はルイシーナが涙を流した。


 ずっと、ただ光ることしか能の無い不出来な自分を恥じていた。出来損ないに生まれてしまったことを申し訳ないと思っていた。


 ようやく認められた気がした。このままの自分で良いのだと思えた。


「ベルナルド。私の大切な娘を守ってくれてありがとう。貴方にならルイシーナを任せられるわ。苦しみや傷みに耐え、なりふり構わず私の大事な宝物を守ってくれた貴方なら」


 ベルナルドは「ありがとうございます」と頭を下げた。


「ルイシーナ。貴方は私たちの可愛い子だけれど、もう、知識も知恵も足りない無力な子どもではないのね。私は貴方を子どもとばかり思っていて、なんとか守らなければと思っていた。私がこの家に縛ったせいで、辛い思いをたくさんさせてしまったわね。ごめんなさい。これからは私たちのことは気にしないで好きになさい。貴方は貴方の思うとおりにするのよ」


「ありがとう、お母さん!」


 クロエはルイシーナとベルナルドの肩を抱き、「頑張るのよ」と言ってくれた。


 ルイシーナは心の底から歓喜が沸き上がるのを感じた。


 逃げずに向き合って良かった。正直に思っていることを話せて良かった。


 考えてみれば、初めて自分の想いを伝えたように思う。ルイシーナはずっと本当に言いたいことに蓋をして生きてきた。何かを言って拒絶されるのが怖かったからだ。けれどこれからは言いたいことを言える気がした。クロエに認めてもらえたことで、己の言葉でも人に想いを伝えることができると知った。


 あとはカルロスだ。カルロスが認めてくれさえすれば、全てが上手くいく。ルイシーナはカルロスだって話せば分かってくれるに違いないと思っていた。


 しかし、その期待はすぐに潰えた。


 凄まじい音がして扉が開いたと思うと、顔に青筋を立てたカルロスが立っていた。カルロスはルイシーナ、クロエ、そしてベルナルドをそれぞれ睨みつけると、大股で歩いて来てベルナルドの首根っこを掴んだ。


「お父さん! 何をするの!」


 慌ててルイシーナが飛びついたがカルロスは止まらず、腕を振りかぶって思い切りベルナルドを殴った。


「ベルナルド!」


 床に倒れたベルナルドに近付こうとしたが、カルロスに腕を掴まれて阻止された。


「どうして殴るの!?」


「此奴がお前を襲おうとしたからだ!」


 叫ぶルイシーナの声よりも大きな声でカルロスは怒鳴った。


「ドロテオから聞いたぞ! 此奴がお前を襲おうとしたってな! バレンティアまで誘惑したそうじゃないか!」


 視線をずらすとドロテオとバレンティアが開けっ放しの出入り口に立っていた。ドロテオはいかにも被害者のような顔をして腫れた頬を押さえており、憔悴しきったように弱弱しい装いのバレンティアに抱かれている。


 ルイシーナは頭を殴られたような気分になった。愛する家族の一員だったドロテオとバレンティアが己を裏切る行為を行っただけでなく、カルロスにまで嘘を吐いたことが衝撃だった。人の善性を疑わないルイシーナは、二人が保身のためにカルロスに嘘を吹き込むなんて思ってもみなかったのだ。


 もう二人のことを守っている場合ではなかった。全部ベルナルドが悪いことになっている。このままではベルナルドが危ないのは明確だった。


「違うわお父さん! わたくしを襲おうとしたのはドロテオよ! ベルナルドはわたくしを助けてくれたの!」


「何を言っているんだ!? 苦しい嘘を吐くな! そんなことがあるわけない! ドロテオはお前の弟だぞ!?」


「そうよ! でも本当なの! バレンティアお義母様だってベルナルドがどうこうしたのではないわ! バレンティアお義母様が誘ったのよ!」


「嘘よ! ルイシーナはその男に脅されているんだわ! 私が証拠よ! 私はその男に襲われたんだもの! それに弟のドロテオが姉であるルイシーナを女として愛するわけがないじゃない! その男に脅されてそう言うよう仕向けられているのよ!」


「違うわ! ベルナルドは何も悪くない!」


「煩い黙れルイシーナ!」


 バシンと頭がくらくらするぐらい強い力で頬を叩かれた。


 何故。真実を話している己が言葉を奪われなければならないのか。


 いつものルイシーナならここで泣いて声を潰していただろう。しかしこの日のルイシーナはカルロスを真っ直ぐに見つめて一層声を大きくして訴えた。


「どうして!? どうしてわたくしを信じてくれないの!? どうしてお父さんはいつもわたくしの話を聞いてくれないの!?」


「そ、そうよカルロス! ルイシーナの話を信じないのはどうして? 家族でしょう!」


 恐ろしくて仕方ないだろうにクロエも怯えながら訴えてくれた。


 けれどカルロスは止まらない。


「バレンティアもドロテオも家族だ! 俺は二人の家族を信じた! 二人が言っていることの方が信憑性があるからだ!」


 川の底に沈められたような、視界が暗くなるくらいの絶望の最中。あぁそうかと、ルイシーナは理解した。


 信憑性でも何でもない。これはきっと信頼の差だ。ルイシーナは今までカルロスと面と向かって話し合ってこなかったから、カルロスはルイシーナの言葉を信じられないのだ。


 己の所為だ。なんでもかんでも飲み込んで、己の意見を口に出さず、会話を怠った己の所為。けれど今は反省している時間は無かった。とにかくベルナルドを助けるのが先だった。


「分かった。良いわお父さん。今はわたくしのことを信じてもらわなくても良い。でもベルナルドを傷つけないで。お願いよ!」


「いいや! 家族を傷つけた者には報いを受けてもらわねばならない! 此奴には罰を与える!」


 ルイシーナは放られ、床に倒れ込んだ。急いで上体を起こした時にはもう、カルロスは倒れていたベルナルドの胸ぐらを掴んで立たせ、思い切り腹に拳を叩き込んでいた。


「ごほっ……ごぼっ」


 腹を殴られたベルナルドが口からべっとりとした黒い物を吐いた。


 ――【穢】。


 異臭が漂うのと同時に周囲の熱が冷めていき、短い沈黙が落ちた。


「きゃぁぁ! 【穢】だわ! この男、穢れているのよ! いやぁっ! 汚らわしいっ! 早く追い出してっ!」


 悲鳴をもってして沈黙を破ったバレンティアはドロテオを連れて後退った。バレンティアの腕に抱かれたドロテオも汚物を見るような目でベルナルドを見ている。


 クロエは驚いた様子だったがバレンティアのように過剰な反応を見せなかった。カルロスもまた態度を変えず、ベルナルドの髪を鷲掴んで引っ張り上げると怒鳴った。


「【穢】だろうが何だろうがどうでも良い! この男の罪は俺の大事な家族を脅かしたことだ! 俺が直接裁きを下してやる!」


 そのままベルナルドを引き摺っていき、部屋の外に放り出したカルロスは、侍従を呼んでベルナルドを地下倉庫に連れていくよう指示した。それからルイシーナを捕まえて肩に担ぎ上げると無言で廊下を突き進んでいった。ルイシーナは力の限り暴れて抵抗したけれど、強靭なカルロスの肉体は非力なルイシーナではどうしようもなかった。


 自室のベッドに放り投げられた。すぐに起き上がって閉まる扉に飛びついたけれど、外から鍵をかけられたらしく開かなかった。どれだけ必死に叩いても、当然叫んでも誰も来てくれない。しかしルイシーナは諦めなかった。

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