第36話 酷い裏切り 6

「僕は金も地位も権力も持っていないけれど、生涯君だけを愛し、君を幸せにすることを誓う。だから僕と一緒に行こう」


 身体が震える程嬉しかった。


 けれどルイシーナはすぐに返事ができなかった。もし己がここでベルナルドと出て行けば、家族がどうなるのか考えてしまう。


 カルロスはアデライアが出ていった時のように激高するだろう。クロエはカルロスに当たり散らされて心を折られ、バレンティアとドロテオに居場所を追われて完全に壊れてしまうかもしれなかった。そして何より、一方的に出て行ったら愛する家族との縁を永遠に切られるかもしれないと思うと怖かった。ルイシーナはベルナルドのことを愛していて、家族のことも愛していた。


 煌女としての活動も頭をよぎったけれど、取るに足らないことだと思った。不特定多数の誰かのために働くことは社会の一員として重要なことだが、ルイシーナは家族や愛する人以上に彼らを優先できるような聖人ではなかった。


 そう。ルイシーナの一番はいつだって家族だった。


「――駄目よ」


 ベルナルドが息を呑む音が大きく聞こえた。


「何故だ。逃げられるのか不安なのか? それとも僕が信じられないか? 信じられないというなら、条件を付けたって良いから――」


「違うわ。出ていくことには賛成なの。それが一番手っ取り早くてこの家のためになることだと思うから。でもこのままお父様とお母様に別れも告げずに行くなんて、わたくしにはできない。わたくしは家族の縁を切りたくないの。せめてお父様とお母様には快く送り出してもらいたいのよ」


「それじゃ遅い。今すぐ出ないと逃げられない。どうして家族に拘るんだ? 君はずっと虐げられてきたじゃないか。他でもない家族に自由を奪われ、尻拭いをさせられている。心を潰され、挙句に身体まで汚されるところだった。そんな奴らに義理を通す必要なんてない。挨拶をしたいなら、ほとぼりが冷めた頃に手紙を出せば良い」


 ベルナルドの意見は間違っていない。家族を疎ましく感じたことはある。それも一度や二度ではない。この両親の元に生まれなければ、妹がいなければ、義母や弟がやってこなければなんてことは何度も考えている。


 それでも寝て目が覚めればそれらの不満はいつも取るに足らないことになって、彼らの笑顔が恋しくなっているのだった。


 喧嘩して罵りあったとしても帰って来られる特別な居場所。それが家族というものだ。ルイシーナはその居場所を無くしたくなかったのである。


「わたくしは家族を愛しているの。少しの間だって切りたくない、切られたくない縁というものが家族よ。このまま逃げたらわたくしは家族への不義を働いた自分を許せないわ。ことあるごとに思い出して後悔するの。そんなの嫌よ」


 ベルナルドは手で顔を覆い、ほんの数秒考えるそぶりを見せてから口を開いた。


「……家族のいない僕には、正直、君がそこまで家族を愛する理由が分からない。でも君が愛情深く、責任感の強い美しい心を持った素晴らしい人だということは分かる。君がしたいようにしよう。僕は君の意思を尊重するよ」


 ルイシーナはベルナルドを抱きしめてお礼を言った。


 これからの計画を簡単に話し合って、二人はベッドを降りた。


 下手に触って目を覚まされても困るので、ドロテオはこのままにしておくことにして部屋を出る。


 向かうのはクロエの寝室。まずクロエに偽りのない真実を話し、二人の仲を認めてもらうことが第一段階だった。こうなってしまった以上、ルイシーナはドロテオに襲われたことも、バレンティアが不貞をはたらいていたことも話すつもりだった。バレンティアとベルナルドの不貞も話すのは、都合の良いところだけを話すのは不公平だと思ったからだ。


 クロエなら正しい判断をしてくれるはずだとルイシーナは信じていた。ルイシーナが男を愛さないよう縛り付け、ベルナルドを痛めつけたクロエだが、過去には愛人とその子どもを許した広い心を持っているのだから。


 二人はクロエの部屋の前に立った。ノックをして返事も待たずに扉を開ける。


 疲れているのだろうか。クロエは全く寝息も立てずにベッドの上で深く眠っていた。


 ベルナルドが部屋の明かりをつけている間にルイシーナはクロエに近付き、ベッドに座って揺り起こした。


 クロエは唸り声と共に身体を捩り、上体を起こした。夜遅くに訪ねて来た娘にどうしたのかと問うて、寝ぼけ眼を押さえる。そうして明るくなった部屋を不思議そうに見渡した。


 間もなく覚醒したクロエは、ルイシーナの傍にベルナルドが立っていることに気づいて取り乱した。


「どうしてお前がルイシーナと一緒にいるの!?」


 金切り声を上げてルイシーナを守るように抱き寄せる。


 ルイシーナはクロエを抱きしめ返して言った。


「落ち着いてお母さん」


 煌女になってから口にしたことのなかった懐かしい呼び方をすると、クロエは一瞬正気を取り戻した。


「お母さん、話したいことがあるの」


 すかさず震える母の頬を両手で包み込んで目を見て訴えかける。しかしクロエはルイシーナの手を払って拒絶した。


「どうしてお母さんの言うことを聞けないのルイシーナ! 男には近付くなと言ったでしょう!」


「お母さん。お願い。聞いてもらいたいことがあるの。話した後でどう思ってくれても良い。わたくしを閉じ込めたいならそれでも良いから、話を聞いて」


 めげずに手を握って真摯に訴える。


 想いが通じたのか、クロエは焦点の合わなかった目をルイシーナに合わせた。そうしてルイシーナの乱れた寝巻を摘んで青ざめた。おそらくクロエの瞳にはルイシーナの首元につけられた欲望の痕も映り込んだことだろう。


「何、これ……まさか此奴が……!」


「ベルナルドじゃない。その話をしたいの。わたくしを助けて、お母さん」


 娘の危機を察したクロエはようやっと大人しくなり、ゆっくりと頷いた。


 ルイシーナはクロエの手を握ったまま真実を話した。バレンティアの不貞とドロテオにされたことを。クロエは目を大きくして驚いた様子だったけれど、口を挟まず最後まで聞いてくれた。


「……本当なの? そんな酷いことを、あの人たちが? 嘘じゃ、ないのよね?」


 疑っているというよりは、確認のために聞き返したようだった。


 ルイシーナが頷くとクロエは表情を変えて何かを考え始めた。


 娘には分かる。母は最善策を探している。ルイシーナが尊敬するクロエは、カルロスを支え、家族の均衡を保って家族の形が壊れないよう、時に己を殺して努力する人だった。聞き分けが良く主張を控えていたルイシーナは、そんなクロエに倣っていたにすぎない。


 けれど、最近のルイシーナは思う。


 家族に尽くすだけでなく、己の主張もしなければならないのだと。そうでなければ本当に分かり合うことなんてできない。そう考えるきっかけを作ってくれたのはベルナルドだ。


 ルイシーナは再び息を吸った。


「お母さん。わたくし、この家を出たい。ベルナルドと一緒に暮らしたいの」


 クロエが目を見開いてルイシーナを見た。そうして何かを言おうと口を開いたところで、「クロエさん」とこれまで静かに見守っていてくれていたベルナルドがクロエの目の前で跪いた。


「僕からも言わせてください」


 クロエは身体ごと目を逸らしてベルナルドを視界に入れないようにしたけれど、ベルナルドは続けた。


「僕にルイシーナさんを一生傍で守る許可をください。欲を言うなら、ルイシーナさんと夫婦となり、ここではない別の場所で暮らすことを許してください。でもクロエさんがルイシーナさんを外へ出したくないなら、それで構いません。ルイシーナさんを僕と結婚させたくないなら、それで構いません。けれど、ずっと僕がルイシーナさんの傍にいることだけは何としてでも認めてもらいたいです。大切な娘さんを僕に守らせてください。どうかお願いいたします」


 深く頭を下げるベルナルド。

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