第38話 酷い裏切り 8

 耳を欹てて部屋の外の様子を確認する。本当は今すぐベルナルドの元へ行きたかったけれど、無策で飛び込んでも同じことを繰り返すだけだと機会を伺った。


 焦りや不安をぐっと抑え、祈りと共にひたすら待つだけの時間は果てしなく長かった。


 やがて時折部屋の外から聞こえていた物音が完全にしなくなった。


 ルイシーナは宝石箱の中のアクセサリーを掴み、素早くベッドの下からロープを出してバルコニーから庭へ降りた。カルロスは扉さえ閉じておけば問題ないと踏んでいたのだろう。ルイシーナはもうずっと前から鳥籠一つ出られない箱入り娘ではないのに。


 庭に降りると裸足で駆け抜けた。乏しい明かりでも何処を走っているかくらい分かる。どの道が最短で、人に見つかりにくいかも。全部、彼が教えてくれたことだ。


 ついに誰にも見つかることなく、侍従たちが使用している裏の出入り口から屋敷の中に入った。そうしてある侍従の部屋の扉を力いっぱい叩いた。


 すぐに中から灯りを持ったモニカが出て来てくれた。


「お嬢様!? お顔が腫れて……なんて酷い!」


 ルイシーナの恰好を上から下に見て驚くモニカに、ルイシーナは持って来たアクセサリーを突き出して言った。


「お願い! これをあげるからお父様を裏切ってちょうだい! 足りないならもっと持ってくるから!」


 侍従を雇っているのはカルロスだ。侍従たちが無償で主人を裏切るとは思えず、ルイシーナは買収を試みた。上手くいけば教会の見張りが目を瞑ってくれたように力を貸してくれるだろうという算段だった。


「……お嬢様。こんなものはいりません。こんなものがなくても、私たちはお嬢様の味方です」


 ルイシーナの手を突き返して泣きそうな顔をして言ったモニカに、ルイシーナは己に対するモニカの忠義を疑ってしまったことを恥じた。


 何度も謝罪と礼を繰り返した。その間にモニカはルイシーナの手を握り、足早にある場所へと連れていってくれた。


 ドアノブが他の部屋とは違っている、侍従の部屋の一つ。


 モニカがノックすると、間もなく扉が半分開いて侍従長が姿を現した。カルロスと同じくらいの歳の初老の男性だ。いつもは髪を後ろに撫でつけているが、休んでいたからか無造作に下ろされていた。


 侍従長はぼろぼろのルイシーナとモニカを無言で一瞥した。


 モニカが徐に普段隠しているネックレスを取り出して顔の前に掲げる。すると侍従長は普段からずっとつけたままの白い手袋を外した。右手の人差し指と中指に十字架と四芒星の指輪がはまっていた。


 侍従長とモニカは頷き合った。


 それから侍従長は保管庫から鍵を取り出し、ベルナルドがいる地下倉庫まで案内してくれた。


 地下倉庫の扉が開くとルイシーナは雪崩れ込むように中に入り、悍ましいものを目にした。


 天井からぶら下がった縄に腕を括りつけられ、ベルナルドが吊るされていた。身体には鞭を打たれた生々しい傷が無数にあり、足先から血が滴っている。唇からは黒い液体が流れていて、生臭い匂いと何かが腐ったような異臭が鼻をついた。


 モニカはたじろいで目を逸らした。けれどもルイシーナはひるまずベルナルドに駆け寄ると、胸に顔を寄せて生死を確認した。


 冷たい。けれど心臓は動いているようだ。


「……ルイ、シーナ……?」


 吐息が漏れてきた。


「意識があるのね! そう、わたくしよベルナルド!」


 侍従長が縄を切ってくれ、ベルナルドは開放された。しかし身体に力が入らないのか、床に横たわったまま全く身体を動かさない。瞼はうっすら開いているが、目は何処を見ているか分からず、筋肉は弛緩して脱力している。


 ルイシーナは汚れることも厭わずベルナルドを抱いた。


 息が浅い。身体中血だらけで、いつも熱いくらいだった体温が感じられない。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 謝ることしかできなかった。


 こんなことになると予想できなかった浅はかな己が嫌になる。普段から己の意見を主張して家族と話し合えていれば、カルロスはルイシーナの話を聞いてくれて、ベルナルドはこんなひどい目に合わなかったかもしれなかった。


 ベルナルドを傷つけたのはクロエでもカルロスでもない。ルイシーナの弱さだった。


 もう、無理だ。


 今にも死にそうなベルナルドを前にして、ルイシーナの心は完全に折れてしまった。時間をかければカルロスは納得してくれるかもしれない。けれどこれ以上の時間をかけていられなかった。説得している間にベルナルドは死んでしまうかもしれず、そうでないとしても、彼に耐えろと、カルロスを説得できるまで待っていてくれと言えるものではなかった。己の所為で彼を不幸にすることに耐えられなかった。愛することが怖ろしいのだ。


 今すぐベルナルドを逃がそう。そう思った。


 おそらく逃がすだけならここにいる侍従長とモニカに頼めば何とかなるだろう。けれども逃がすだけでは足りない。ベルナルドが戻ってこないようにしなければならなかった。


 この男は頑なにルイシーナの元を離れたくないと訴え、どんな仕打ちにも耐えると言った。


 何があっても愛してくれるのは嬉しいはずだった。けれど今は苦しくて仕方ない。人を幸せにするはずの愛が彼を不幸に陥れようというのなら、それは真実の愛ではないのかもしれなかった。


 ベルナルドは良い男だ。女は彼を放っておかないだろう。辛いことばかり強いてしまう己なんかよりも良い相手が見つかるはずだ。彼のことを心から愛し、皆が祝福してくれる相手が。本当の運命の人が、ベルナルドにはいるはずなのだ。ルイシーナはベルナルドが幸せになってくれるなら何でも良かった。己といて不幸になるのなら、全然知らないところで幸せになってほしかった。


 ルイシーナは痕がつくくらい強く握っていたアクセサリーをベルナルドのポケットに忍ばせると、彼の胸にそっと手を添えた。


「ベルナルド。わたくしは……貴方のような男の人と一時遊べればそれで良いと思っていただけの、悪い女なの。充分楽しませてもらったから、貴方はもう、いらないわ」


「いや、だ。ぼく、は……あい、している」


 視界が滲んだ。その言葉だけでとても嬉しかったから、もう何もいらなかった。


 ルイシーナは立ち上がった。ベルナルドが何かを探すように首を動かしたけれど知らないふりをした。


「この人を外へ放り出して。お父様には早朝に様子を見に来たら死んでいたから外に捨てたと答えてちょうだい。良いわね?」


 ルイシーナはベルナルドにも聞こえるような声でモニカと侍従長に指示を出してから、続きを二人の耳元で囁いた。


「貴方たち、彼と同じ組織の一員でしょう。彼を連れ出し、仲間を呼んで手当てをしてあげて。治療代にはこれを。足りなければ言って。……彼を絶対に戻って来させないでね」


 一つずつ侍従長とモニカにアクセサリーを渡す。二人は小さく頷いた。


 ルイシーナは振り返らずに倉庫を出た。


 その後のことは記憶がない。気がついたら自室のベッドに横たわっていた。


 目覚めたら全てが無かったことになっていればいいのにと、目を閉じる。けれどそんな都合の良い話があるわけがなかった。現実は目を瞑ると悲しみがこみ上げてきて泣きそうになるので、眠ることさえできなかった。


 何度も体勢を変えているうちに部屋が明るくなって朝を迎えた。


 いつかの早朝のように、部屋の外が随分騒がしい。皆が騒いでいる理由を知りたかったけれど、それ以上の気力が出なくてしばらく上体を起こしたまま呆然としていた。


 青い顔をしたクロエが飛び込んでくるまで、ルイシーナは動けなかった。


 おはよう、か、どうしたの、かを口に出した。どちらを言ったのかなんてどうでも良かった。表情だってどうなっているか分からないけれど、どうだって良かった。クロエが痛ましいものでも見るような顔をしているのは、悲しいことがあったからだろう。


 クロエはルイシーナの肩に手をかけ、そうしてゆっくり唇を動かした。


 ベルナルドが死んだ、と。


 知っているとも、という意味で頷いたつもりだったのに、下げた頭が上がらなかった。


 クロエは驚きもせず涙も流さないルイシーナを不振がった。身体を揺すって、しきりに声をかけてくる。


 ベルナルドとのことを認めてくれたクロエには本当のことを話しておいた方が良いだろう。ルイシーナは上手く回らない頭で真実をぽとり、ぽとり、とベッドの上に落としていった。


「……どうして貴方も出て行かなかったの?」


 話し終わった後、クロエに問いかけられて、ルイシーナは目を大きくして顔を上げた。


「あの人を愛しているんでしょう? だったら一緒に逃げてしまえば良かったじゃない」


 身体の奥底から湧いた涙が目から溢れ出た。


「だって……! わたくしのせいで可哀想なことになっているのに、一緒に逃げようなんて言えなかったんだもの! 彼はわたくしがいない方が幸せなのよ! それに、お父さんを説得できないまま出て行ったらお母さんはどうなるのかも心配で! 家族の縁を切られてしまうのではないかとも思って! 彼のことも家族のことも愛しているから」


 クロエはハッと気づいた顔をした。


「わたくしは、どうずれば良かったの!? 家族を捨てれば良かったの!? こんなに愛しているのに? 彼のことだって愛しているけれど、彼がいない人生なんて考えられないけれど、もう、怖いのよ! ただ愛しているだけなのに彼もわたくしもぼろぼろになっていくのが! 家族がぐちゃぐちゃになっていくのが! 人を愛することってこんなに苦しいものなの? お母さんはこんなに辛かった? わたくし、初めてだから分からない。どうすれば良かったの……何が正解なの!?」


 頭を抱えて震えるルイシーナを抱きしめ、クロエはごめんね、と謝り続けた。子どもの頃だって声を上げることはなかったのに、ルイシーナはクロエの胸でわんわん泣いた。

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