第34話 酷い裏切り 4

 暗がりの中、彼の背に痛ましい傷が見えたような気がしたのだ。


 しっかり確認しようと立ち上がると、ベルナルドはルイシーナの手を払って急いで出て行こうとした。逃げるつもりだ。


「待って!」


 叫んで飛びつき、灯りを寄せて彼の背中を照らした。


「……ひっ」


 思わず息を飲んでしまうほど酷い傷が無数にあった。年数が経った傷痕の上に、血がにじむ新しい傷もあれば、時間が経って治りかけている傷もある。明らかに転んでできた傷や事故でできた傷ではない。人為的なものだ。鞭で打ったような。


 こんな酷いことが人間にできるのかと、あまりに痛々しい傷にルイシーナは顔をしかめた。


「これは? これもバレンティアお義母様がやったの? 教えてちょうだいベルナルド」


 ベルナルドは口を閉じたまま。都合の悪いことは黙ってやり過ごそうという魂胆だ。


「貴方が言えないのなら、バレンティアお義母様に聞いて来ます」


 しびれを切らしたルイシーナがベルナルドの前に滑り込んで部屋を出ようとすると、ベルナルドは後ろからルイシーナの腕を掴んで止めた。


「待ってくれ。違うんだ」


「何が違うの?」


「……バレンティアじゃない」


「それじゃぁ誰だと言うの?」


「言えない」


 ルイシーナはベルナルドを睨んだ。


「言って。そんな酷いことをしたのは誰か教えてちょうだい」


「言えない」


「どうして!」


「言ったら君が傷つくから」


「すでに貴方が傷つけられているのを見て悲しいわ! 教えてちょうだい。バレンティアお義母様じゃないなら誰なの? お父様? 侍従の誰か? ドロテオ? お母様?」


 ぴくり、とベルナルドの身体が反応したような気がした。


「お母様なの……?」


 視線を逸らすベルナルド。無言は肯定だった。


 ルイシーナは頭を殴られたような衝撃を受け、足に力が入らなくなってその場に座り込んでしまった。


 目を逸らしたくなるくらい酷い傷を負わせたのが母親だなんて……。


 クロエはルイシーナにとってよくできた母親だった。今でこそおかしくなってしまったものの、ルイシーナが幼い頃のクロエは素晴らしかった。家事全般に娘二人の教育、夫の仕事の手伝いに近所付き合いまでしっかりこなし、教会で奉仕もしていた。カルロスが男爵位を買い、男爵夫人になっても貴族の夫人としての役割を遂行し、夫の不貞に目を瞑り、浮気相手とその子どもの同居を許しもした。ルイシーナはこうあるべきという姿と善性をクロエから学んだのだ。だから絶対にクロエが暴力を振るうことなどないと思って最後に名前を出したのに。


「どうして……お母様」


 ベルナルドとバレンティアが不貞を働いていた現場を目撃した時よりもずっと動揺していた。それくらいルイシーナはクロエの善性を疑っていなかったのである。クロエのことを尊敬していて、己が己であるための目標にしていたために、己の中心にあったものが崩れてしまったような感覚がしていた。


 放心状態になってしまったルイシーナの隣でベルナルドは身を屈めた。


「クロエさんは僕が君に近付くのが許せなかっただけだろう。大事な娘にちょっかいを出す僕に罰を与えたんだよ」


 ルイシーナは首を振った。


「そんなのおかしい。どうして、言わなかったの」


「言ったら君が傷つくと思ったのと、言ってもどうにもならないと思ったからだ」


「どうにもならなくなんてない。お母様は優しい人よ。お願いすれば絶対やめてくださるはずなのよ」


「だったらそもそも痛めつけたりしないだろう。ルイシーナがお願いしたって無駄だよ。俺は使用人で、クロエさんは主人。主人が使用人をしつけるのは当たり前だ。僕は仕方ないと思っている。大丈夫。これくらい耐えられるよ」


「やめて。お母さんはそんな人じゃない……」


 左右に首を振ることしかできなかった。


 項垂れるルイシーナの手をベルナルドが掬い上げた時、扉をノックする音が聞こえた。


「ルル姉さん、起きている?」


 ドロテオの声だった。


 ドキリとしてベルナルドと見つめ合う。こんな時間に何の用だろうかと囁き合う余裕すらない。


 ベルナルドはこくりと頷き、すぐさまベッドの下に隠れた。ルイシーナは急いで髪を整え、表情を隠すために仮面をつけて返事をした。


 音を立てて開いた扉からドロテオが入って来る。ドロテオは出迎えたルイシーナを上から下に見て、不自然に喉を下した。


 ソファに座るよう促したけれど、ドロテオは注意深く辺りを見回していてすぐに座ろうとしなかった。まるで誰かを探しているような動きにルイシーナは緊張した。どうかベッドの下は覗かないでくれと願いながら、ベルナルドが見つかってしまった時の言い訳を探した。


 ついにドロテオはベッドの脇までやってきて、ベッドの下を覗き込んだ。


 叫びそうになった口を抑える。


 間一髪のところで察したベルナルドがベッドの下から這い出してきたのを横目で確認する。ベルナルドは器用に足音を殺して移動し、ドロテオが跪いている間に開けっ放しにしていた窓からバルコニーへ出ていった。


「……いないか」


 やがてぼそりと呟かれた声にルイシーナは詰めていた息を吐いたが、ドロテオがバルコニーへ向かって行こうとしたので慌てて立ちはだかった。


「わたくしの部屋なのだから、わたくし以外誰もいないわ。誰がいると思ったの?」


 冷静な声を出すことを心掛けて問いかける。表情は仮面が隠してくれている。震えそうな手は組んでしまえばどうってことないはずだった。


「あいつだよ。あの野良犬……ベルナルドだ。さっき母さんが泣きついて来たんだよ。ルル姉さんが私たちを追い出すかもしれないって。詳しく聞いてみたらあいつがルル姉さんの後を追って行ったというから」


 どういうことだ。ドロテオが母さんと呼ぶのはバレンティアしかいない。バレンティアがドロテオに泣きついてきただって? 更にベルナルドがここに来たから追って来たなんて。


 鈍いルイシーナが状況をはかりかねている隙をついて、ドロテオはルイシーナを押しのけてバルコニーへ向かった。


「ま、待って!」


 慌てて服を引っ張ったけれどすでに遅く、ドロテオはバルコニーに顔を突き出していた。


 ドッと嫌な汗が噴き出した。


 恐る恐るバルコニーを覗いた。


 ベルナルドの姿はどこにもなかった。どうやら降りて姿を消したらしい。


 ルイシーナは胸を撫で下ろし、気持ちを切り替えた。どういうことなのか説明を求めてドロテオに質問する。


「どうしてバレンティアお義母様が貴方のところへ来たの?」


 ドロテオはしっかり窓を閉め、鍵までかけてから振り返った。何を言っているんだという顔だった。


「どうしてって、あいつとふしだらな関係にあったことを姉さんに知られた母さんが助けを求める相手は僕しかいないだろう?」


「貴方、知っていたの!?」


 思わず叫ぶ。対するドロテオはうんざりした様子で何度も頷いた。


「もちろん知っているに決まっているじゃないか。誰が父さんを母さんの部屋に近付けさせないようにしていたと思っているんだ。まさか、今まで運良く見つからなかったとでもルル姉さんは思っているの?」


 その通り。ルイシーナは、今までバレンティアとベルナルドの不貞が見つからなかったのは天の采配だと思っていた。しかしちゃんと考えてみればルイシーナがモニカと現場を抑えるまで二人の不貞が露見しなかったなんておかしな話だ。協力者がいたことぐらいすぐに思いついたはずである。またしてもルイシーナは己の思慮の足りなさを恥じた。

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