第33話 酷い裏切り 3
座り込んだまま考え込んでいると、背をつけていた扉が揺れた。
「ルイシーナ」
消え入りそうな声で己の名を呼ぶ男……。
覚めたはずの夢がぶり返してくる。冷静になったと思っていても、彼の声一つで揺らぐなんて情けない。
今ベルナルドの顔を見たら己がどうなるか分からなかった。口を開くと酷い言葉を吐いてしまうかもしれず、はたまた泣いて悲しみを訴えるかもしれず、ルイシーナは黙って唇を噛んでいた。
ルイシーナが黙っている間も、ベルナルドはしきりにルイシーナを呼んで扉を開けてくれとせがんだ。
気持ちが落ち着いてきて、このままでは眠っている両親や弟に気づかれてしまうかもしれないと思った。仕方がない。
ルイシーナは扉を開けた。
上半身裸のままのベルナルドが今にも泣きそうな顔で立っていて、胸が詰まった。どうして貴方がそんな顔をしているのと心の中で問いかけながら部屋に入るよう促し、素早く扉を閉めて灯りをつけた。そうしてベルナルドの方は一瞥もせず、ソファに腰かけた。
間もなくベルナルドが足元に跪いた。
「ごめん」
ルイシーナは頭に血が昇って頬を引っ叩いてやりたくなった。
――己がそんな衝動に駆られるなんて思わなかった。
ルイシーナは大きく息を吸い込み、衝動を抑え込んでゆっくり一言一句発音した。
「どうして わたくしに 謝るのですか? わたくしは バレンティアお義母様と 貴方が 何をしているのか聞いただけで 他には 何も 言っていないでしょう?」
「僕が君を裏切ったから」
「裏切ってなんかないでしょう。もとより貴方はわたくしと遊んでいただけなのでしょう?」
「違う! 遊びじゃない! 僕は君を、本気で……愛している」
尻すぼみになっていく声にルイシーナは怪訝な顔をした。
「嘘をついてわたくしに媚びなくても、わたくしはこのことを他の誰にも言いませんから安心してください」
「嘘じゃない! 本当なんだ。本当に君が好きで、愛おしくて、仕方ないんだ。こんな俺が君を愛してはいけないと思っていたのに、愛してしまったんだ」
膝に置かれた手を握られ、憂いを帯びた瞳で訴えかけられて、ルイシーナの純粋な心はぐらりと揺れた。信じてはいけないと思う気持ちは確かにあるのに、一度愛したからだろうか。どうにも突き放せなかった。
「……だったらどうしてあんなことをしたの」
「それは……」
ベルナルドは視線を外した。言う気が無いのだと思い、やっぱり信じるものではないのだと感じた。
「言えないのなら良いです。もう話すことはありませんね。部屋に戻って寝なさい。明日からまた普通に過ごすのですよ」
ぴしゃりと言い放ち、ベルナルドを払おうとした。しかしどうにも離れなかったので諦めて、無言でベルナルドの後頭部を見つめた。
するとベルナルドはぽつりぽつりと話し始めた。
「僕はトーレス家の皆に気に入られるために必死だったんだ……」
――トーレス家で侍従として働き始めたベルナルドは、一家に気に入られるための努力をしなければならなかった。
雇われた経緯のためか、アデライアやドロテオはベルナルドのことを警戒していた。カルロスとクロエは侍従の一人として受け入れてくれたがそれだけで、アデライアやドロテオがベルナルドを辞めさせるよう言えば、簡単に解雇されるに違いなかった。だからベルナルドは与えられた仕事以上をこなし、期待以上の成果を上げ、愛嬌までふりまいて、信頼を築くのに必死だった。
そうして心も身体もほとんど休む間もなく働き続けて二週間ほど経った頃。
深更にバレンティアに呼び出された。内緒でカルロスにプレゼントするワインの味見をしてくれと言われ、彼女の部屋でワインを御馳走になった。
途端、ぐわんと視界が揺れた。
薬を盛られたと気づいて目を醒ました時にはもう、共犯者にされていた――。
「それから定期的に誘われるようになったんだ。断ろうとしたけれど、断ったら俺の身体にある刺青のことをアデライアに話すと脅された。まさかバレンティアが刺青のことを知っているとは思っていなくて……油断していたんだ。情けない。あまりに情けなくて君には言えなかったんだ。幻滅されるのも怖くて……」
目だけを上げて様子を伺ってくる。
ルイシーナは情けないとは思わなかった。人に言えない秘密を持つベルナルドが、自分や仲間のためにバレンティアに従うことを選択したのは当然だ。ただ悄然としてしまったけれど。
「情けなくなんてありません。辛かったでしょう。でも大丈夫ですよ。もう二度とバレンティアお義母様が貴方に手を出すことはないでしょうから。それより、バレンティアお義母様が刺青のことを知っていたことの方が重要ね。アディが教えたのかしら」
「アデライアの名前を出していたからそうかもしれない。でもバレンティアは刺青が何を示すのかまでは知らないようだった」
「アディはそこまでのことは話していなかったのかしら。でもバレンティアお義母様に貴方たちのことを話さないで刺青のことだけを話したのは何故なのかしら」
「分からない。けれどバレンティアが刺青の意味を知らず、アデライアにも報告しなかったのは不幸中の幸いだった。此処を去らなくて済んだから」
「それは……」
ルイシーナは先ほど辿り着いた考えを恐る恐る口にした。
「貴方が何かを企んでここに来たから? わたくしに近付いて何かを成さなければならなかったから?」
ベルナルドは間を置いて「そうだ」と答えた。やはりそうかと頭では納得したけれど、胸は締め付けられるように痛かった。
「わたくしの乗った馬車の前に倒れてきたのは偶然ではないのね?」
ゆっくり頷かれた。
虚しさで心が沈み、怒りで身体が震える。とはいえ全身が沸騰するような激情ではなく、頭はすっきり冴えていて、殴りたくなる衝動もない。時間をかけて息を吸えば一時空っぽになった身体の真ん中にどっしりと何かが腰を据えた。
ここで見定めなければならない。
「貴方は何のためにここへ来たの? トーレス家を陥れるため? そのためにわたくしに取り入ろうとしたの?」
「違う。待って。誤解しないでくれ」
ベルナルドは慌てているように見えた。
「最初は目的があって君に近付いたし、ここへ来た理由も別にある。けれどそれはもうどうだって良いんだ。今はただ、君の傍にいられればそれで良いと思っている。君を愛しているから」
「おかしなことを言わないで。貴方がやろうとしていることはそんなに簡単に放り出せるものではないでしょう。適当にやり過ごそうとしないでちょうだい」
国を変えようと動いている人間がここへきてどうでも良いと使命を放棄するような志であるわけがない。たくさんの同志が殺され、大事な育ての親も殺されて、唯一生き残った相棒と固く誓ったはずなのだ。それをこうも簡単にどうでも良いと曲げられるはずがない。この期に及んでまだ騙そうと言うのか。
「わたくしはもう、騙されません。貴方が愛を語る時は、わたくしを騙そうとしている時だと認識しました。どうして我がトーレス家に近付いたのか教えなさい」
戸惑うようにベルナルドの瞳が揺れ、一度強く結ばれた唇が、ゆっくりと開いた。
「煌女――君に近付き、俺たちの味方になってもらおうと……」
「わたくし? わたくしを味方にしてどうしようと言うのです? わたくしには何の力もないと知っているでしょうに」
煌女として光の大集会を開いている姿だけなら立派に見えるだろう。けれどもベルナルドは本当のルイシーナを知っていて、煌女とは名ばかりの、何の力にもならないただの女であると分かっているはずだ。そんな人物を味方につけたって何も変わりやしないのに。
「いや。君は俺たちが欲している人物像に一致する。君は俺たちの理想そのものだよ」
「わたくしが理想? どういうことなの? 貴方たちはわたくしに何を求めているの?」
「象徴だ。俺たちは俺たちを顕現し、頂点に立つ、分かりやすい象徴を求めているんだ。以前、俺たちは着実に同志を増やして革命を起こす準備を行っているが、数が増えた分、様々な思想がばっこするようになったと話しただろう。そこで今一度意識を統一しなければならないと考え、俺たちの象徴になる人物として君を候補に選んだんだ。光を信仰するこの国に生まれた俺たちは【光】に憧れを持っている。そうでなくても、皆の尊敬を集める奇跡の煌女なら、耳を貸すだろうと」
【光】が目当てだったのか、とルイシーナは目を瞑った。
光を信仰するこの国で【光】を持つ人間を敬うのは仕方のないことと言えよう。ルイシーナだって己が【光】を持たない人間であったなら、【光】を持つ煌女を敬ったかもしれない。しかしルイシーナはどうにも己が敬われる側に立つことに慣れなかった。
「光るだけでわたくしには何の力もないのに」
ぼそりと呟く。するとベルナルドは「それは違う」と手を引っ張ってきた。
「光の大集会を考えてみろ。毎回こぞって皆がやって来るのは、君を求めてやまないからだ。君は光そのものなんだよルイシーナ。それに君はアマポーラに【光】を授けてくれた。【穢】の俺たちを蔑まず、【光】まで授けてくれたのは君しかいない」
「貴方たちの同志は【穢】をどうとも思っていない人たちでしょう。わたくしだけなんてことはないわ。この歳になっても【光】を持っていることは珍しいかもしれないけれど、だからといって大勢をまとめられるような力はわたくしにはないわ」
「そんなことはない! 君はすごい人だよルイシーナ! 君に出会った時、こんなに輝くような人は他にいないと思った。僕は君の美しい瞳に惹かれ、優しい言葉に励まされて、君なら……」
「わたくしなら?」
ベルナルドは口を引き結び、何も言わなくなってしまった。またしてもこの男は真意を話したくないらしい。
ルイシーナも何も言わずにいるとベルナルドは会話を完全に諦めたようで、立ち上がって「そろそろ戻るよ」と背中を向けた。
途端、ルイシーナは頭から血の気が引いていくのを感じ、慌ててベルナルドの腕を掴んで引き止めた。
「待って! 貴方……その背中、怪我をしているの!?」
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