第32話 酷い裏切り 2
青白い月の光が身体に染みる。
ルイシーナはバルコニーに出て月の光を浴びながら待っていた。昼間に衝撃的なことを聞かされたというのに、心は落ち着いている。というよりは頭が空っぽになっていて感情がついてきていないというのが正しい。これから起こることがどういうことなのか、ルイシーナは想像できないでいる。
扉がノックされ、待っていた時がやって来た。
滑るように移動して扉を開けると灯りを持ったモニカが立っていた。
橙色の光の中でモニカが遠慮がちに頷く。ルイシーナも頷いて扉の隙間から廊下に出ると、二人して足音を殺し、壁伝いに廊下を進んでいった。
目的の扉の前で足を止め、まずモニカが部屋の中を確認した。合図を待ってルイシーナも部屋の中に入り、上質な絨毯を踏んだ。
大きなクローゼットに入りきらなかったドレスやアクセサリーの数々が無造作に置かれている。天井から釣り下がるのは豪華なシャンデリア。食べかけのお菓子やワインボトル、二つのグラスが置かれたままのテーブルセット。金の装飾が施されたカウチソファには服が引っかかっている。見る限りここには部屋の主の姿はない。
急に不安になってきて、ルイシーナはモニカの手を取った。
しっかり握り返してきた力強い手に勇気をもらって歩を進め、贅を尽くして荒れた部屋を横断し、寝室の扉の前に立った。
モニカが耳を欹てて、頷いた。ルイシーナは奥歯を強く噛みしめてノブに手をかけ、勢いよく扉を開いた。
「ひゃぁ!」
短い悲鳴が上がった。
ベッドの真ん中で健康的に焼けた全身を晒している女が黒髪を靡かせてこちらを向いた。
「ル、ルイシーナ……」
「……」
両腕を縛られてベッドに括りつけられ、女に跨られている全裸の男――太ももに四芒星と十字架が合わさった刺青がある――は何も言わずに俯いていた。
ルイシーナは震えながら声を絞り出した。
「お儀母様……ベルナルド。貴方たちは……何をしているの……!」
義母バレンティアの寝室。金の天蓋がついた深紅の寝台の上には、裸の義母と恋人。
視界がぐわんと揺れて、目の前が赤く染まって頭が沸騰したように熱くなった。衝動に任せて手を上げ、大声で罵倒してしまいたくなるのを、拳を握り、歯を食いしばって耐える。
バレンティアは慌てて乱れた黒髪を手櫛で整え、シーツを身体に巻いて剥き出しになっていた身体を隠した。
「これは、違うのよ。誤解なの。彼を慰めていただけで、特に意味はないのよ」
何が誤解なのか。たった今まで男の上に跨っていたくせに、特に意味はない、だと?
ルイシーナはバレンティアを睨みつけた。
バレンティアは真っ青な顔をしてベッドから転げ落ち、ルイシーナの足元に這いつくばった。
「ごめんなさい煌女様! 私はこうしてしか生きられない卑しい女です! 私を許してください! どうか、どうか、【光】のお導きを絶やさないでくださいませ! 私を、私たち家族を見捨てないでくださいませ! どうか光よ! 煌女よ! お許しを!」
必死に頭をこすりつけて懇願するバレンティアにルイシーナは目を瞠った。
明らかに第二夫人から第一夫人の長女へ見せる態度ではなかった。これは神の御前で見せるものだ。バレンティアが見ているのはカルロスとクロエの娘ルイシーナではない。神の御使い煌女ルイシーナだった。
ルイシーナはハッとした。ようやく、これまでのバレンティアの行動の違和感に合点がいった。バレンティアは【光】を持ったルイシーナを、義娘ではなく煌女として認識していたのだ。
こんな馬鹿なことがあるのかと眩暈がした。ルイシーナはほんの一瞬だって己が崇められるような存在だと思ったことはない。神の御使いなんてとんでもなかった。今だって悍ましい衝動と戦っている最中だ。ルイシーナはただの人間で、ただの女だった。煌女に許しを乞い、光を絶やさないでくれと願うのは間違っている。そもそもルイシーナに謝るのもおかしい。バレンティアが謝る相手はカルロスだ。
バレンティアの裏切りを知ったらカルロスはバレンティアを激しく叱責するだろう。でも追い出されはしないはずだ。なぜならバレンティアはカルロスにとって大事な家族だから。
しかしベルナルドはどうだ。愛する女を誑かし、情事に及んだ侍従をカルロスが許すはずがない。間違いなくベルナルドは仕置きをされる。痛めつけられ、追い出されるかもしれなかった。
裏切ったのだから報いを受けるのは仕方ない……のだろうか。確かにそのような感情が怒りと共に湧いた。けれども怒りを携えた感情なんて良くないに決まっていて、間違っているのは明確だった。ではバレンティアとベルナルドの不貞行為は間違っていないのかというと、そうではない。義母やベルナルドがカルロスによって咎められることを望んでいる己がいる。しかし二人が痛めつけられるのは嫌だった。ベルナルドが追い出されてしまうのもまた嫌だった。
ルイシーナは頭が混乱していた。いろんな感情がひしめき合って頭が痛くなってきて、額を押さえた。心を整理しなければならない。
独りで考えたくておもむろに踵を返すと、バレンティアが足を掴んで縋って来て驚いた。
「待って! カルロスには言わないで! あの女……クロエにもよ!」
カルロスに捨てられれば贅沢な暮らしを取り上げられて路地裏での質素な生活に逆戻りだ。必死になるのも当然。クロエに言わないでほしいという訴えはなけなしの自尊心を保つためだろう。
ルイシーナは気づいた。カルロスやクロエに話さなくても、ルイシーナが知っているだけでバレンティアはこうして怯えて暮らしていくのではないだろうか、と。もしそうであるならわざわざカルロスに話して過剰な怒りを買う必要もない。罰ならそれくらいで充分だ。それにルイシーナがバレンティアの弱みを握り、手綱を握っておければ肩身の狭い思いをしているクロエも胸を張れるようになるかもしれなかった。
狡いことを覚えたルイシーナは、バレンティアをわざと突き放すことにした。
「モニカ、片付けを手伝ってあげてちょうだい」
敢えてバレンティアの訴えを無視して振り切り、ルイシーナは寝室を出た。バレンティアの嗚咽混じりの絶叫は扉を閉めれば聞こえなくなった。
ルイシーナは足早に自室に戻り、扉を閉めたところで――己でも驚いたことに――その場に頽れた。続いて涙まで出てきて、胸の中に押し込んだ感情が溢れて止まらなくなった。
義母と愛した人の情事を見てしまった。
裏切られた。彼が己だけにくれたと思っていた言葉もぬくもりも時間も何もかもが全部、己の描いた幻想だったのだ。彼を信じた己が愚かに思えた。なんて馬鹿なんだろう。どうして彼が己のものになったような気がしていたのだろう。ベルナルドのような男が己のようなつまらない存在を選ぶなんて有り得なかったのだ。分かりきったことではないか。遊ばれていたのだ。
――いや、違う。
涙と共に熱を持った気持ちを洗い流したせいか、唐突に気がついた。
素性の知れぬ怪しい男ベルナルドには果たさなければならない使命がある。頭を使って自由な生活をしながら崇高な目的のために奔走していた彼が、何の目的もなく【光】を持つ奇跡の煌女の屋敷に留まっているはずがない。使命の成就のために奇跡の煌女のいるトーレス家にやってきて、円滑に目的を果たすために己を懐柔したに違いないのだ。思えばおかしな話だ。彼が倒れてきた馬車が、偶然にも奇跡の煌女ルイシーナの乗った馬車だなんて。
ずっと愚かな勘違いをしていた。少し考えれば分かったのに、ずっと流れに身を任せていて考えることを放置していたからこうなったのだ。
ひとときの夢から覚めたルイシーナは、妙に冴えた頭で現実を見つめ直した。
奇しくも不貞を理由にベルナルドを追い出すことができる状況にある。まだ具体的に彼が何をしようとしているのかは分からないが、トーレス家を陥れようとするものであるなら回避しなければならず、これが絶好の機会だった。
けれどもベルナルドの真実を浸透させて【穢】と【光】を解放しようという使命には共感できる。情けないことに利用されたって良いから力になりたいとさえ思えた。己に近付いた理由がトーレス家を害さないものであるなら協力しても良い。愛という感情を捨てて、ただの同志になるのだ。
この状況、どうするべきか――。
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