第26話 タヴェルナ

 闇の天幕を張られた街は静かだった。ほとんどの家々は沈黙していて、時折灯りがついている大きな邸を見かける程度。目が慣れるまでは歩くことすら難しいくらいだった。


 ルイシーナはベルナルドの腕にくっついていた。夜の街を何の支えもなしに歩く自信がなく、昼間はうるさいことを知っているが故に、静かなところが怪しくて不安を煽られる。異国に行くよりもずっと別世界なのではないだろうか。


 胸が煩くて、耳の傍に心臓があるみたいだった。悪いことをしているからだろうか。それともベルナルドと二人きりだから? いや、どんどん灯りの少ない方へ進んでいくからかもしれなかった。


 街のことなんて何一つ知らないルイシーナはベルナルドに黙ってついていくつもりだったが、辛抱できなくなってしまった。


「何処へ行くの?」


「俺の行きつけの店。こんな時間でも開いているのはそこしかないから」


 乏しい情報の所為で不安はさらに募り、ルイシーナは次第に言葉を発することもできなくなった。


 そうして行きついたのは水路に面した倉庫群だった。


 水路まで狭い階段を降りていき、道が無くなったところでベルナルドは一言断ってルイシーナを横抱きにした。そしてなんとも身軽なことに、並べてあった小船に次々と乗り移り、渡り歩いていった。


「もうすぐだよ」


 落っこちないように顔を肩に埋めてじっとしている間にどこかの建物に入ったようで、ベルナルドの声がくぐもって聞こえた。


 顔を上げてみると、狭い通路の先に橙色の灯りで照らされた扉が見えた。


 扉の前でベルナルドはルイシーナを降ろし、ドアノッカーを使って二回、拳で二回、それからもう一度ドアノッカーで二回扉を叩いた。すると中から扉が開いた。


「わぁ……」


 ルイシーナは思わず感嘆の息を漏らした。


 光に満ち溢れていた。


 多くの人が大きな木のテーブルを囲み、酒を飲み交わしている。むっとするくらいの酒の匂いと、美味しそうな料理の匂い。そこかしこに吊るされたランプの橙色の光は眩しいくらいだ。


 興味深く見渡していると、目の前にワインの瓶を持った男が飛び込んで来た。


「おぉベルナルド! やっと来たか! その人が?」


「やめろ。その話はするな。あっちへ行け酔っ払い」


 笑みを浮かべて男を躱すベルナルド。男は軽く文句を言いながら瓶を傾け、大衆の中に消えた。


 ベルナルドは人気者のようだった。雑多に置かれたテーブルの間を縫うように歩き、カウンターまで行きつく間に何人もと挨拶を交わした。男も女も、老人も子どもも。全員が顔見知りのようだった。


 カウンターの椅子に座ると、ベルナルドは料理を作っていた体躯の良い男を呼んだ。


「エウリコ、シードルを二つ。お前も飲むか?」


「俺が酒に弱いこと、知っているだろ」


「あはは。そうだったな。じゃ、あとは適当に」


 エウリコと呼ばれた体躯の良い男は、ルイシーナとベルナルドの前に二つのグラスを置き、高い位置から黄色いシードルを注いでくれた。グラスを手に取ったベルナルドに倣ってルイシーナも手に取ると、ベルナルドはカチンとグラスを合わせて言った。


「サルー ポル ラ ビダ」


 にこりと笑ってグラスを煽る。ルイシーナもまた同じようにグラスを傾けた。


 出てくる料理に舌鼓を打ちながら酒を飲んだ。少しでも酒が減っているとエウリコが酒を入れるものだから、どれだけ飲んだのかは分からない。とりあえず五本、空になった小瓶がキッチンに並んだのは見た。手をつけずに置いておけば良いものを、ベルナルドがしきりに乾杯をしてくるし、見ず知らずの客が寄って来てはグラスを合わせてくれるものだから、律儀なルイシーナは飲むしかなかった。酔っぱらって粗相をするカルロスやアデライアを見ていたので自分もそうなってしまうことが怖かったけれど、いつの間にか酔っぱらうとどうでも良くなった。


「気分はどう? 楽しいかい?」


 問いかけられて、ルイシーナはじっとベルナルドの青みがかった灰色の瞳を見上げた。


「貴方の傍はいつも楽しいわ。貴方といると怖くないの。貴方に見つめられるだけで、幸せな気持ちになるから。ずうっとずうっと一緒にいて」


 こてんと頭を傾けてベルナルドにくっついたから、ベルナルドがどんな顔をしているのか見えなかった。尤も見ていたとしても、ルイシーナにはベルナルドが何を思っているか分からなかっただろうが。


 このときのルイシーナはしこたま酔っていて自分が言ったことを理解できていなかった。ただほんのちょっと冷静な部分もあって、わたくしってそんなことを思っていたのね、なんてグラスを傾けながら思うのだった。


「……ちょっと、知り合いを見かけたから、挨拶してくる」


 ベルナルドは突然立ち上がると、背を向けて行ってしまった。


 ずっとカウンターの方を向いていたのにどうやってそっちの方の知り合いを見かけたのかしら。身体の支えを失ったルイシーナは左右に揺れながら、ぼうっとベルナルドを見送った。


「失礼」


 先ほどまでベルナルドが座っていた席に、片足を上げて細身の少女が座った。健康的に焼けた肌、短い髪は黒々としており、吸い込まれそうなくらい大きな目をしている。目線が同じだからおそらく同じくらいの背だろう。男性が着るような上着とズボンを履いているのは不思議だったけれど、性差のない雰囲気によく似合っていた。


 そこは別の人の席なの、と言ったけれど、「知ってる」と返され、少女は退こうとしなかった。まぁ、隣は反対側も空いているし、帰ってきたらベルナルドにはそっちに座ってもらえば良いかと、ルイシーナもそれ以上言わなかった。ただ一つ気になることがあった。


「お嬢さん、貴方、何歳? 子どもがこんな時間に出歩いているなんて、いけないわ。早くお家に帰らないと、ご家族が心配するわよ」


「あたしの家はここだから」


「あら、そう」


 少女の家はこのタヴェルナらしい。経営者、あるいは料理長らしいエウリコの娘だろうかとルイシーナは考えた。エウリコの娘にしては大きな子のような気もするが。


「ねぇ、あんた。ずっと見てたんだけどさ。どうやったらあんたみたいになれるの?」


 唐突に何故そんな質問をするのか、どういうことを言っているのか、ルイシーナは何も理解できず、首を傾げた。


「わたくしみたいって?」


「高貴な感じ。近寄りがたいやつじゃなくて。何て言うんだろうな。あたしバカだから分からない。あんたはなんか、近付きたいんだけど、簡単に近付いちゃいけないような感じがするんだ。でも近付きたいから、近付いちゃう。言っていること、分かる?」


「分からないわ」


 ルイシーナが首を振ると少女はがしがし頭を掻いた。


「とにかく、あたしはあんたみたいになりたいんだ。こんなことは初めて。あんたみたいな、いかにもお嬢様って人って大っ嫌いだったんだけど、なんか、いいなって思って。どうやったらなれるの?」


「わたくしみたいに?」


 初めてそんなことを言われた。誰かに憧れたことはあるが、憧れになったことがなかったルイシーナは心がじんわり温かくなるのを感じた。嬉しい、とは少し違う感情だ。


「そうねぇ」


 ルイシーナはぼうっと宙を見上げて考えた。


 そもそも少女はいつからルイシーナを見ていて、高貴だの簡単に近付いちゃいけないだのと思ったのか。仮面を被って集会堂の頂点にいる奇跡の煌女ならまだしも、ここにいるのはただのルイシーナだ。まさかただ男と酒をしこたま飲んでいる姿に憧れた訳ではあるまい。とはいえどちらにせよ、己のようになりたいと言われて、そのために何をすれば良いのかと問われても、どうやってルイシーナはルイシーナになったのか分からなかった。


 いつもなら答えられないと言って断っていただろうけれど、このときのルイシーナは酔っていて、思ったことをそのまま口に出していた。

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