第25話 新月の訪問者
月の無い暗い夜。不安で眠れなかったルイシーナは、起きて何をするでもなくぼうっとベッドに腰かけていた。
何度目かのため息を零した時。どこからか何かを叩く音がして、首を傾げて耳を澄ませた。
コツコツという音。どうやらバルコニーから聞こえてくるようだ。何だろうと思ってカーテンを開けてみた。
「ルイシーナ様!」
満月のような笑みを灯したベルナルドが窓に貼りついて手を振っていた。
ルイシーナは慌ててカーテンと掃き出し窓の隙間に入り込み、声を殺してベルナルドを睨んだ。
「貴方そんなところで何をしているのっ」
「あれ、喜んでくださると思ったのに」
ベルナルドは叱られてしょんぼりした。
もちろん会えたことは心に花が咲いたように嬉しかった。しかしベルナルドが突然バルコニーから、それも皆が寝静まった頃に現れたことが衝撃的でそれどころではなかったのである。
「居ても立っても居られなくなって来てしまいました。許してください」
身を屈めて窓に頭をくっつけるベルナルド。健気な態度に怒る気が失せると、ベルナルドが己に会いに来てくれたことへの喜びがじわじわ身体を満たした。
窓を開けて彼に触れたかった。けれどここで窓を開けてしまってはいけないような……。今まで頑なに守ってきたものが全て崩れてしまうような気がして、ルイシーナは怖気づいた。
「許します。だから誰にも気づかれないうちに行ってちょうだい。こんなところを誰かに見られたら、貴方、怒られるだけでは済まないでしょう?」
「貴方は怖いくらい優しい人ですね」
「優しくないわ。臆病なだけよ」
「優しすぎるからこうなってしまったんでしょう」
こう、というのが監禁状態をさしているであれば、それは違う。
「いいえ。これはわたくしがお父様の期待を裏切った罰よ」
「そんなことはありません。貴方は立派でした。間違っているのはカルロス様です。どうして逆らわないんですか?」
「わたくしが逆らったらお父様は怒るわ」
怒鳴られていたアデライアが頭に浮かんだ。アデライアのようにカルロスに逆らってカルロスを激昂させれば、しわ寄せはクロエやバレンティア、ドロテオ、侍従の皆にいくだろう。特にアデライアが出て行ったことを責められたクロエの心はまだ癒えておらず、次に何かあれば壊れてしまうかもしれなかった。それは避けたかった。
「わたくしは今のこの家族の平穏を守りたい。皆には幸せであってほしいの。わたくしが従えば済むことなら、わたくしが我慢すれば良いの。だからこれが正しいのよ」
「どうして正しいことをしようとするんですか? 正しいことなんて一つもないのに」
ルイシーナは怪訝な顔をした。
「正しいことが一つもない?」
「世の中で正しいとされていることは全て人間の価値観に基づいたものです。価値観が変われば正しいことが変わるので、法律は時代に合わせて変わるものですし、裁判だって同じ結果になりません。そもそも貴方は見ているでしょう。この、人が造った世界の異常な正しさを」
ルイシーナは言葉を失った。ベルナルドが【穢】を持つ者たちへの異常な態度を指していることが分かったからだ。
「分かるだろう? 正しいことなんて何もない。全部がただの、誰かの主張だ。それが他人に受け入れられるかどうかで正しいか間違っているかの判断が下されるんだ」
「貴方、賢いのね。本を読めるし仕事の呑み込みが早くて機転も利くからすごいとは思っていたのだけれど、そんなことを考えているなんて。わたくし、考えたことがなかった」
正しいことが一つもないなんて、いつも正しいことをしなければならないと思っていたルイシーナには思いもよらない考え方だった。ルイシーナにとって正しいことが他人にとって正しくなかったのは、元々正しいことなどなかったからだとすると納得がいく。
「そうね。貴方の言う通りよ。けれど正しいことが無かったとしても、何が正しいのかについては考えなくてはならないでしょう。秩序や幸福のために。人間は永遠に何が正しくて何が間違っているか考え続け、生きていかなければならないのだわ」
「貴方は真面目だな。僕なんか正しいことがないっていうなら何だってやってやるし、何だって正しいことにしてやるって思うのに」
「野蛮だわ」
「僕が野蛮なんじゃなくて貴方がお上品すぎるんだ。箱入り娘のルイシーナ」
「ちょっと。揶揄っているでしょう。貴方は気づいていないでしょうけど、貴方ってワンちゃんみたいなのよベルナルド」
「グァウグァウ」
犬の真似をしてみせるベルナルドにルイシーナはくすくす笑った。
真剣に真面目な話をしていたにも関わらず、いつの間にか冗談を言い合って笑っているのが不思議だった。けれども少しも嫌ではない。彼の話術が優れているのか。それとも彼を慕う気持ちあってこそなのかは分からないけれど。
「貴方は本当に綺麗ですね」
不意をつかれたルイシーナは頬を赤らめた。しかしベルナルドが「でも」と言うので、頭はすぐに冷静になった。
「綺麗すぎて困る。もっと狡くて汚くて良いのに。汚いところもないと、人は理想と現実のギャップで潰されてしまうものです。だから僕と悪いことをしましょう。これから遊びに行きませんか?」
「外へ? 今から?」
突拍子もないことを言われてルイシーナは目を瞬いた。
夜遊びなんて生まれてこのかたしたことがなかった。しょっちゅう遊びに出かけて朝帰りを繰り返し、両親に怒られていたアデライアと違って、ルイシーナはそんな悪いことなんてしたことがなかったのである。
「そんな、駄目よ。お父様やお母様が怒るわ」
「ダメなことだからするんだ」
ここぞという時に変わるベルナルドの口調にドキリとさせられる。
「怖い」
「怖がりなのはダメなことをしたことがないからだ。ほら、鍵を開けて、自ら出てくるんだルイシーナ。安心して。貴方の身は僕がしっかり守るよ」
「で、でも」
良いのだろうか。……良い訳がない。
いつも正しいことをしようとしてきたルイシーナは、誰かが怒られていること、つまり悪いことをしようと思ったことがなかった。怒られるのが怖かったのもあるが、やはり怒らせるのが嫌だからというのが強い。外出をして、気づかれて両親を怒らせてしまったらどうしよう。カルロスはまたクロエを責め、今度こそクロエの心は壊れてしまうかもしれなかった。
でも興味はあった。アデライアがどんなに怒られても遊びに行くのをやめなかったことを知っているから、よほど楽しいのだろうと思っていた。その相手がベルナルドということにも、とてつもなく惹かれる。一人なら絶対にできないことも、ベルナルドと一緒なら簡単にできてしまう気がした。
けれどやっぱり怖くて、ルイシーナは窓に手をかけたり離したりしてもだもだしていた。
するとベルナルドは背を向けてバルコニーの柵に手をかけてしまった。
愛想を尽かされたのではないかとルイシーナは焦った。行かないで、と言いそうになって、思わず窓を叩いた。
ベルナルドが振り返った。
「おいでルイシーナ」
手を伸ばしてくる。
どっと心臓が大きな音を立ててルイシーナの胸を叩いた。
唐突に、この窓を開けてしまったらもう戻れないような気がした。
そう思ったのに、気づいたらルイシーナは窓を開けていた。
おずおずとバルコニーに出ると、ベルナルドはいつもの人懐っこい笑みではなく、口の端を少しだけ上げた妖艶な表情でルイシーナを迎えた。
「じゃ、行こうか」
肩に掛けていたコートをルイシーナに羽織らせたベルナルドは、慣れた手つきでバルコニーの柵にロープを括りつけて下に垂らした。おぶさるよう言われたルイシーナがドキドキしながら背にくっつくと、ベルナルドはロープを伝って地面へ降りた。
気になったのでどうやって二階まで登って来たのか聞いたら壁の装飾や凹凸に指を引っ掛けて登って来たのだと言う。ひょろりとした身体のどこにそんな力があるのだろうと興味に駆られて腕を触ると、急に腰を抱かれて引き寄せられ、叫びそうになった。誰かに気づかれたらまずいのに。
「悪戯しないでちょうだい」
「先に触ってきたのはそっちだ」
「無断で触ったのは悪かったわ。でも声が出てしまったらいけないから驚かさないで」
「こんな風に?」
「こらっ。くすぐらないでっ」
そうしてルイシーナとベルナルドは裏門から夜の街へ繰り出した。
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