第15話 素性の知れない男

 【穢】を持った赤ん坊をグレタに預けてから数日が経った。


「おはようございますルイシーナ様。今日は何をしますか? 花の名前創作ごっこですか? 蝶々が羽根を休める花を当てっこしますか? あぁ、そういえばアマポーラの花が咲き始めたんですよ」


 ルイシーナが部屋を出ると、にっこり満面の笑みを浮かべたベルナルドが一息に言ってルイシーナを誘った。


 近頃のベルナルドはルイシーナの部屋の前で待機していて、ルイシーナが出てくると嬉しそうな表情をして近付いてくる。まるで犬のようで可愛らしく、ルイシーナはくすりと仮面の下で笑った。


「じゃぁアマポーラの花を見に行きましょう。わたくし、花の中でアマポーラが一番好きなんです」


「それは良かった。案内しますね」


 左肘を曲げて脇を軽く開けてくれる。ルイシーナが手を添えるとベルナルドはゆっくり歩を進めた。彼のエスコートにも慣れたものだ。


 屋敷を出て庭へ降りると、程なくしてドロテオに出会った。ルイシーナは仮面の下で微笑んで挨拶しようとした。


「おは……」


「お前、使用人の分際で慣れ慣れしいぞ」


 ドロテオが突然ベルナルドの胸倉を掴んだ。ドロテオの方が低いので、ベルナルドの身体が折れ、額がぶつかりそうなくらい近付いた。


 ルイシーナは目を見開いた。こんなにも低い声を出して怒っているドロテオを初めて見たのだ。


「おはようございます、お坊ちゃん。馴れ馴れしいとは、一体何のことをおっしゃっているのでしょうか?」


 対するベルナルドは余裕そうに笑っている。その態度が気に入らないのか、ドロテオはさらに声を大きくした。


「ルルにべたべた触っていただろうが! ルルはお前が気安く触って良い女じゃない! 素性も知れない卑しい分際で! 身を弁えろ!」


「女性をエスコートするのは男の仕事です。僕は仕事をしているだけですよ」


「馬鹿なことを言うな! 卑賎なやつめ!」


「ドロテオ! なんてことを言うのです!」


 思っていたより大きな声が出て、ルイシーナは自分でも驚いた。当然ドロテオもベルナルドも驚いたようで、二人は目を大きくしてルイシーナを見た。


 ルイシーナは二人の眼差しを受け止めながら深呼吸を一つして、ベルナルドの胸倉を掴むドロテオの手に手を重ねた。


「手を放しなさい」


 固く締まっていた拳が緩んで下がった。


 ルイシーナは二人の間に割って入り、ドロテオの両手を握って言った。


「悪い言葉を使ってはなりません。悪い言葉は他者だけでなく己も傷つけます。悪い言葉を使う人間は酷い人間になってしまうのですよ。良いですかドロテオ。清くあれとは言いません。けれど誰に対しても誠実であってください」


「……どうして怒るの? 僕は、ルル姉さんが得体の知れないやつに危ない目に合わされたら嫌だと思っただけで。姉さんには何も言ってないのに」


 潤んだ瞳で訴えるドロテオの頬にルイシーナは手を添えた。


「わたくしの心配をしてくれるなんて、とても良い子ですね。貴方のその優しさが好きですよ。今回はやり方を間違えてしまっただけですから、気を落とさないで……」


「ドロテオッ! お前という子はッ!」


 何処からともなくバレンティアが飛び込んで来てルイシーナはひるんだ。その間にバレンティアは乱暴にドロテオを跪かせ、頭を押さえて下げさせた。そうして自分も隣で跪き、頭を下げて言うのだった。


「ごめんなさいルイシーナ。この子にはきつく言っておきますから、どうか気分を害さないでちょうだい。お願いよ」


 まるで懇願するように。


 いくら何でも大げさに見えた。けれど二番目の妻としてこの家に身を置くバレンティアの誠意なのかもしれず、ルイシーナはそのまま受け入れることにした。


「わたくしは大丈夫です。ですから頭を上げて」


「ありがとうッ!」


 バレンティアはすごい勢いで頭を上げると、ドロテオを立たせて「お前は戻って勉強をしなさい!」と引っ張った。ドロテオは名残惜しそうに振り返ったが、バレンティアに頭を掴まれて前を向かされ、屋敷の中へ連れていかれてしまった。


「……さて、よく分からない邪魔が入りましたが。改めて花壇へ向かいましょうか」


 頷きはしたが、エスコートは断って並んで歩くことにした。


 ルイシーナの頭の中ではドロテオの言葉が繰り返されていた。


 素性の知れない男。


 此処へ来る前のベルナルドが何処で何をしていたかは聞いていない。それからあの赤ん坊を盗んで逃げた刺青の人物との関係も。ひょっとして、とは思うけれど、どうしてか聞けない。そうして吐き出されなかった言葉は、胸の中に溜まって不安に変わるのだ。


 しばらく歩くとアマポーラの花壇に着いた。


「見てください。綺麗な赤いアマポーラが咲き始めていますよ」


 ベルナルドはルイシーナの不安など知る由もなく、笑顔を輝かせている。ルイシーナは「そうね」と呟いて膝を折った。


 赤い華奢な茎の先に赤い柔らかな花が色づいている。まだまだこれから咲くのだろう。首を垂らした蕾がたくさんある。天を向き、今にも広がりそうな蕾も。明日にはもっと多くのアマポーラが赤い花を見せてくれるだろう。


「……あの子の名前はアマポーラになりました」


 ベルナルドは隣で身を屈めて呟いた。


 体温が伝わってくるぐらい近い。煩くなった己の心臓の音を聞きながら、ルイシーナは質問した。


「元気にしている?」


「えぇもちろん。乳母も見つかって、たくさん乳を飲んで健やかに過ごしています」


「良かった。本当に。どうしてアマポーラという名前になったの?」


「赤いアマポーラの刺繍の入った布がお気に入りだからだそうです。洗うために取り上げると泣き喚いてしまうんだとグレタさんが言っていました。すごく綺麗な刺繍でしたから、無理もないでしょう」


 腹の底がこそばゆくなった。


「そんなに気に入ってくれているのなら、また作ろうかしら」


 少し調子に乗って言ってみる。


「え!? もしかしてあの刺繍はルイシーナ様がしたんですか!?」


 ルイシーナは恥ずかしくなってきて顔を赤らめた。遠慮がちにこくりと頷く。


「すごいですね! 大したもんだ。絶対売れば高い値段がつきますよ。また作ってやってください。あの子も喜びます。それから是非、僕の分も!」


「いいわよ。売れたらいくらの価値があったか教えてちょうだい」


「売りませんよ! 僕の宝物にします!」


「大げさよ」


「僕にはそれだけの価値があるってことですよ。楽しみです」


 ベルナルドは早速うきうきし始めた。分かりやすく感情を表現してくれる彼を見ているとルイシーナも楽しくなってきて、今すぐにでも作り始めようかと軽く発言した。するとベルナルドが是非! と返すものだから、ルイシーナは部屋から布と針と糸を持ってきて外で刺繍をすることになった。


 木陰に座って刺繍を始めると、ベルナルドは隣に座ってのんびり見学した。


 特別な会話もない、穏やかな時間だった。けれど心地良くて、何があっても許してもらえるような、何かがあっても何も変わらないような、不滅で普遍的な居心地を感じられた。


 今なら、何でも聞ける気がした。


「……貴方って何者なの?」


 しかしベルナルドは答えなかった。


 風が吹き抜けていく。


 白い生地に赤いアマポーラの花が一つ、二つと咲いていく。


 再び問おうとはしなかった。ベルナルドがどんな人物であれ、彼のことを尊敬し、信頼する気持ちは揺らがないだろうと思ったから。

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